中央線鉄道唱歌 第6番 武蔵小金井に到着 関東の桜の名所、小金井公園へ

中央線鉄道唱歌の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
小金井の地理・歴史などを、やさしく解説してゆきます!

↓まずは原文から!

さい衣手ころもでふりはえて
みやこ少女おとめがたもとほり
花狩りくらす小金井こがねい
關東一かんとういちの名所かな

さらに読みやすく!

さい衣手ころもで ふりはえて
みやこ少女おとめが たもとおり
花狩りくらす 小金井こがねい
関東一かんとういちの 名所かな

さあ、歌ってみよう!

♪さーいのころもで ふりはえてー
♪みやこおとめがー たもとおりー
♪はなかりくーらす こがねいはー
♪かんとういちのー めいしょかな
(中央線)
飯田橋駅→市ヶ谷駅→四ツ谷駅→信濃町駅→新宿駅→大久保駅→中野駅→荻窪駅→吉祥寺駅→武蔵境駅→武蔵小金井駅→国分寺駅→立川駅→日野駅→豊田駅→八王子駅→高尾駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※現代の中央線の起点は東京駅
※飯田橋駅は、当時は飯田町駅と牛込駅に別れていた
  1. 花の名所・小金井市へ 栃木県にも同じ「小金井」がある!?
    1. かつて「桜の名所」と呼ばれた、小金井
      1. 水不足が多かった昔は、水が湧き出る場所(井戸)はとてもありがたかった
    2. かつて「桜を見に行くための駅」として開設された、武蔵小金井駅
    3. 小金井が「花の名所」になった理由 玉川上水と、桜の関係
      1. 玉川上水とは?
      2. かつて玉川上水の脇に、たくさん植えられた桜
      3. 吉野(奈良県)や桜川(茨城県)から、大量に呼び寄せられた小金井の桜
  2. 小金井にある、高橋是清の邸宅
    1. そもそも、二・二六事件とは?
      1. 1930年代の日本 大日本帝国憲法の時代とは、大きく変わっていた
      2. 大日本帝国憲法の「天皇主権」は、 1930年代には、もはや時代にそぐわなくなっていた
      3. 天皇主権を貫きたいグループ「皇道派」と、より穏和的に新しい時代に変えたい「統制派」というグループで対立
      4. 皇道派がついに「政府を攻撃する」という クーデター「2二・二六事件」が勃発
      5. 二・二六事件により、首相は殺害され、国会がある永田町は占拠された
      6. 昭和天皇がストップを呼びかけたことにより、反対派は降伏・事件は終了
  3. 太宰治が生涯の最後を過ごした、東京都三鷹市
    1. 太宰治がその生涯を終えた、三鷹市の玉川上水
    2. 小説「グッド・バイ」を書き残したまま、玉川上水でこの世を去った
  4. 次回は、国分寺駅へ

花の名所・小金井市へ 栃木県にも同じ「小金井」がある!?

武蔵境駅むさしさかいえき(東京都武蔵野市)を過ぎると、

  • 東小金井駅ひがしこがねいえき(東京都小金井市)
  • 武蔵小金井駅むさしこがねいえき(東京都小金井市)

の順に進んでゆきます。

武蔵小金井駅(東京都小金井市)

武蔵小金井駅(東京都小金井市)

かつて「桜の名所」と呼ばれた、小金井

小金井こがねいは、かつてより「花の名所」と呼ばれてきました。

他にも、

  • 茨城県桜川市さくらがわし岩瀬いわせ
  • 奈良県の吉野山よしのやま

など、こうしたところが桜の名所です(もちろん全国他にもたくさんあります)。

東京都小金井市こがねいしには、後述するように桜の名所の小金井公園こがねいこうえんがあります。

小金井こがねいの由来は、

水が金のように、じゃぶじゃぶ溢れ出るような井戸

などの意味から来ています。

水不足が多かった昔は、水が湧き出る場所(井戸)はとてもありがたかった

昔は、現代と違って、いつも水不足で困っていました。

そのため、

  • まるで、水が「金のよう」に出る井戸

の存在は、とてもありがたく嬉しかったというわけですね。

一方、現代では、たとえ日照りで水不足に陥っても、ダムや溜池などから、水を補填ほてんすることができます。

ちなみに、栃木県にも

  • 小金井駅こがねいえき(栃木県下野市)

という駅があります。

こちらは、東京都の武蔵小金駅の方が後にできたため、重複を回避する必要がありました。

そこで、旧国名である「武蔵国」の名前を冠して、武蔵小金井むさしこがねいということで、重複を避けたのだと思います。

かつて「桜を見に行くための駅」として開設された、武蔵小金井駅

現在の武蔵小金井駅は、

  1. 明治時代に、小金井の桜が有名になって観光名所となったため、
  2. そのときに、お花見の季節限定で開設された、仮のプラットホームが原型

となります。

つまり、

  1. お花見のために、後述の小金井公園まで歩いていくために、
  2. 列車を乗り降りするためのスペースを確保したこと

が、現在の武蔵小金井駅の原型になっています。

小金井駅より北へ1kmほどいくと、歌詞にもある桜の名所である、「小金井公園」に着きます。

歌詞によれば、鉄道唱歌の当時(明治時代)には小金井公園は

  • 関東一の名所

と呼ばれていたようですね。

小金井が「花の名所」になった理由 玉川上水と、桜の関係

では、なぜ小金井が関東一の名所になったのか。
それは、現在の小金井公園のすぐ南を流れる、玉川上水たまがわじょうすいに植えられた大量の桜にありました。

玉川上水とは?

玉川上水たまがわじょうすいとは、江戸時代にできた、江戸の町に人々の生活に必要な飲み水を供給するための、人工的な川のことです。

上水じょうすいとは、人々の生活に必要な水のことであり、対義語は下水げすいになります。

その水の源は、東京都西部の多摩川たまがわです。

  1. 東京都羽村市はむらし羽村取水堰はむらしゅすいぜきから水を取り出し、
  2. 玉川上水として、東京都新宿区の四ッよつやまで流れて、
  3. そこから江戸・東京都民にとって不可欠な用水となって、供給されている

というわけです。

玉川上水の源・羽村取水堰については、以下の記事でわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

【東京都】羽村市・玉川上水の源に行ってきた!【観光・歴史】【わかりやすく解説】
羽村市・玉川上水・玉川兄弟の歴史を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

かつて玉川上水の脇に、たくさん植えられた桜

その玉川上水の脇に、たくさんの桜が植えられたわけです。

その理由は、昔は、

桜の花びらが、水を綺麗にしてくれる

と人々に信じられていたからです。

また、桜をたくさん植えることで、観光名所になります。
さらに、またお花見にきた人々が、

  • 玉川上水の土手やつつみの地面を踏むことで、地面を固めてくれる

という効果を期待したものでもありました。

吉野(奈良県)や桜川(茨城県)から、大量に呼び寄せられた小金井の桜

こうして玉川上水にたくさん植えられた桜ですが、中でも小金井のものが特に有名になったのでした。

小金井の桜は、

  • 奈良県の吉野
  • 茨城県桜川市さくらがわし

から取り寄せたものでした。

当時としてはとても珍しい桜だったため、多くの人々が小金井の桜を見ようとしたのでした。
明治時代~大正時代にかけて、小金井の桜は鉄道唱歌の歌詞にあるように、関東一の名所になったのでした。

小金井にある、高橋是清の邸宅

小金井公園には、高橋是清たかはしこれきよの邸宅があります。

高橋是清は戦前の1930年代の総理大臣であり、「二・二六事件」で殺されてしまった人物でもあります。

そもそも、二・二六事件とは?

二・二六事件とは、現代でいうと
「自衛隊が国を裏切って、政府を攻撃した」というようなとんでもない事件です。

つまり、「クーデター」の一種です。

もっと正確に言うと、

  • 大日本帝国憲法の通りに、天皇による政治を推し進めたいというグループである「皇動派
  • 天皇ではなく、軍部で政治を推し進めたいというグループである「統制派

の対立から起きた事件です。

1930年代の日本 大日本帝国憲法の時代とは、大きく変わっていた

1930年代の日本は、

  • 天皇と政府、偉いのはどっちだ

と世論が二分していました。

例えば、1931年の「満州事変」は、天皇の意思決定ではなく、あくまで軍部が勝手に暴走して行われたことだからですね。

また、満州事変をきっかけに、1932年に「満州国」という日本の操り人形のような国を作ったのも、天皇の意思決定ではなく、軍部の暴走によるものです。

さらに1930年の「ロンドン海軍軍縮条約」では日本の軍艦の保有数は欧米列強の7割と決められてしまい、しかもそれも天皇の決定ではなく、政府の決定でした。

大日本帝国憲法の「天皇主権」は、 1930年代には、もはや時代にそぐわなくなっていた

大日本帝国憲法下では、「天皇は神聖不可侵」であり、天皇が全ての意思決定をできるほど、天皇が一番偉いという位置付けのはずでした。

しかし当時の昭和天皇は、「天皇機関説」といって、

  • 天皇は君臨こそするが、統治はしない

というスタンスを取っていました。

つまりこれは、現代の日本や、欧米諸国などと同じというわけです。
そのため、この時の昭和天皇は、直接政治をしない・口を出さないというスタンスを貫きました。

天皇主権を貫きたいグループ「皇道派」と、より穏和的に新しい時代に変えたい「統制派」というグループで対立

しかしこれに納得できないのが、大日本帝国憲法を忠実に守り、「天皇主権」を重んじよう、としている人々です。
彼らのことを「皇道派」といいます。

ここで、

  • 皇道派は、どちらかというと武力をもって解決したいという、過激なグループ
  • 統制派は、あくまで穏やかな方法で、物事を解決したいというグループ

でした。

皇道派がついに「政府を攻撃する」という クーデター「2二・二六事件」が勃発

そして、

  1. そんな「皇道派」の人達(特に「青年将校」という、若いエリート達)が、
  2. 天皇を差し置いて、政治をやろうとする政府を攻撃すべく、
  3. 1936年2月26日に起こしたクーデターが、二・二六事件である

というわけです。

二・二六事件により、首相は殺害され、国会がある永田町は占拠された

これにより、当時の総理大臣だった高橋是清は殺されてしまい、しかも国会議事堂などがある永田町ながたちょうや、霞ヶ関かすみがせきなどの政府の主要機関などは、占拠されてしまいました。

現代でいうと、これは自衛隊が政府機関を攻撃して、占拠するようなものです。

考えただけで恐ろしいですよね

昭和天皇がストップを呼びかけたことにより、反対派は降伏・事件は終了

しかし昭和天皇は、

余計なことをしてくれるな

と、この事件に対して激怒します。

元々は天皇主権を復活させるために、皇道派たちははクーデターを起こしたのでした。
しかし、逆に天皇から怒られるという始末でした。

昭和天皇にとってこの事件は、いわゆる「ありがた迷惑」だったわけですね。

結局クーデター側は投降し、二・二六事件は失敗に終わります。

なんか全然関係ない話題になったかもしれませんが、少しでも皆様の何かの参考になれば幸いです。

太宰治が生涯の最後を過ごした、東京都三鷹市

あと前回触れられなかった、東京都三鷹市みたかしについて触れておきます。

東京都三鷹市みたかしは、私が好きな小説家である太宰治が最後に暮らした町であり、またその生涯を終えた街でもあります。

太宰治がその生涯を終えた、三鷹市の玉川上水

生まれつき精神的に弱かった太宰治は、それまで5回ほど自殺未遂を繰り返していました。
しかも愛人の女性と一緒に自殺するはずが、愛人だけ死んで自分は生き残るということもありました。

その度重なる自殺未遂が、ようやく「完遂」となったのが、三鷹駅のすぐ隣にある「玉川上水たまがわじょうすい」という場所です。

玉川上水」とは、先述したように、東京の街に飲み水を提供するために作られた、人工的な川です。
玉川上水は、先述の小金井市だけでなく三鷹市をも経由しており、現在の三鷹駅のそばを流れているというわけです。

太宰治は1948年6月13日に玉川上水へまたまた愛人の女性と飛び込み、38歳の若さで亡くなりました。

小説「グッド・バイ」を書き残したまま、玉川上水でこの世を去った

ちなみにこの時、遺作となった「グッド・バイ」という小説を書いている途中でした。

グッド・バイ」は、太宰治が「人間失格」の後に書いていた小説です。

しかし書いている途中で太宰治は自殺したため、未完の(途中までの)作品となってしまいました。
しかし、そんな時期に書かれたとは思えないほど、ジョーク混じりのとても明るい作品となっています。
もしよければ、読んでみてください。

次回は、国分寺駅へ

以上、今回はとにかく話がズレてすみませんでしたが、次は国分寺こくぶんじに止まります!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。
そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。
再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。
何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

この記事が良いと思った方は、よかったら次の記事・前回の記事も見てくださいね!

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