中央線鉄道唱歌の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
国分寺の地理・歴史などを、やさしく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
國分寺には其の昔
聖武天皇勅願の
御寺の名殘りを留めたり
さらに読みやすく!
国分寺には その昔
聖武天皇 勅願の
御寺の名残りを 留めたり
さあ、歌ってみよう!
♪こくぶんじにはー そのむかしー
♪しょうむてんのう ちょくがんの
♪みてらのなごりを とどめたりー
飯田橋駅→市ヶ谷駅→四ツ谷駅→信濃町駅→新宿駅→大久保駅→中野駅→荻窪駅→吉祥寺駅→武蔵境駅→武蔵小金井駅→国分寺駅→立川駅→日野駅→豊田駅→八王子駅→高尾駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※現代の中央線の起点は東京駅
※飯田橋駅は、当時は飯田町駅と牛込駅に別れていた
国分寺駅(国分寺市)に到着
武蔵小金井駅(東京都小金井市)を過ぎると、やがて、
- 国分寺駅(東京都国分寺市)
に着きます。

国分寺駅(東京都国分寺市)
奈良時代、聖武天皇の勅願によって造られた国分寺
東京都国分寺市は、その名の通り奈良時代の「国分寺」があったことに由来します。
「国分寺」とは?
国分寺とは、奈良時代に聖武天皇の勅願によって建てられたお寺です。
勅願とは?
勅願とは、天皇による直接の命令やお願いのことをいいます。
つまり、聖武天皇がそれぞれの国に1つずつ造りなさいと、命じたお寺ということになります。
「国」とは?
「国」とは、奈良時代の律令制におけるエリア分けであり、現在の都道府県に該当します。
様々な社会不安を抱えていた、奈良時代
奈良時代には、様々な社会不安を抱えていました。
例えば疫病や天変地異、また醜い政権争いなど、人々の不安は絶えなかったのです。
奈良時代は現代のように医学・医療・司法・警察・環境・防衛などのインフラが発展しているわけではありませんでした。
そのため、こうなると、もはや仏様の力に頼る以外は、どうしようもなかったのです。
こうした社会の状況を憂いた聖武天皇が、国の安定を願って造ったお寺が、「国分寺」ということになります。
川越方面への重要駅・国分寺駅(国分寺市)
「中央特快」が止まる、国分寺駅
国分寺駅は、「中央特快」も止まる大きな主要駅でもあります。
中央特快とは?
「中央特快」とは、「中央線快速」よりもさらに速い列車であり、
- 新宿→中野→三鷹→国分寺→立川
のように停車駅がかなり少ないことが特徴です。
恐らく、八王子や立川などの東京都西部「多摩地区」に住んでいる人々が、新宿と(通勤や買い物などで)素早く往復できるようにするために設定された列車かと思われます。
中央特快はの存在は、「京王線との競合」という意味合いもある
また、中央特快の存在は、新宿~八王子間で競合している京王線に対抗するための意味合いもあるでしょう。
もっとも、特急「あずさ」「かいじ」であれば、新宿~立川間は(特急料金がかかりますが)ノンストップになります。
中央線・新宿~立川間で、特急列車がスピード出せない理由
ただしこの区間(新宿~立川)の特急列車は、あまりスピードが出せません。
中央線の特急列車がスピードを出せないのは、列車本数が非常に多いため、前の列車が駅に停車しているときに、追突してしまう可能性があるからです。
中央線は本数がとても多いため、ここを特急列車がスピード出すと、前の列車が駅に止まっているときに、追いついてしまうリスクがあるというわけです。
都心部を走る特急列車はツラいわけですね。
例えば、各駅停車の列車であれば、
- 「加速→減速→加速」
の行為を繰り返すことができます。
しかし、駅に止まれない特急列車は、加速がそもそもできません。
それは、前を走る列車が、駅に停車中に追いついてしまうからです。
そのため、恐らく新宿~立川間では、特急列車はスピードが出せないのだと思われます。
逆に、八王子や高尾を過ぎて山岳地帯に入ると、特急列車は一気にスピードを上げて特急列車らしくなります。
川越方面へ続く「西武国分寺線」との分岐駅
また、国分寺駅は歌詞にもあるように、現代の「西武国分寺線」にあたる「川越鉄道」との分岐駅でもありました。
西武国分寺線は、埼玉県所沢市や狭山市を経由して、やがて川越市に至る路線です。
西武国分寺線については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

武蔵野線との分岐駅である、西国分寺駅
国分寺駅を出て一駅行くと、武蔵野線との分岐駅でもある、
- 西国分寺駅(東京都国分寺市)
に着きます。
武蔵野線は、少し南の府中本町駅に至り、そこから南武線に乗り換えると、分倍河原に至ります。
鎌倉時代の終わりに起きた「分倍河原の戦い」
「分倍河原の戦い」は、鎌倉時代の終わりの「元弘の変」において、後醍醐天皇の軍が鎌倉軍と戦った場所です。
隠岐の島を脱出した後醍醐天皇 六波羅探題を滅ぼす
後醍醐天皇は1331年に、京都府の「笠置山」で挙兵したのですが、敗れてしまい、島根県の「隠岐の島」にて流されてしまいます。
そこで名和長年に助けられ、隠岐の島を脱出します。
その後京都の「六波羅探題(鎌倉幕府の、京都の朝廷を監視するためのような機関)」を滅ぼし、ここ「分倍河原」で戦闘となります。
分倍河原で敗れたその後 、鎌倉幕府は滅亡
こうして分倍河原でも勝利した後醍醐天皇の軍は、とうとう鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)に攻め入り、1333年に北条氏を滅亡させました。
これによって、鎌倉幕府は滅亡しました。
笠置山の戦いについては、以下の記事でも解説しておりますので、ご覧ください。

名和長年については、以下の記事でも解説しておりますので、ご覧ください。

国分寺駅と立川駅の間にある、国立駅
やがて、国立駅(東京都国立市)に着きます。
駅名から地名に採用された、国立市
東京都国立市は、なんと
- 「駅名が地名に採用された」
という、珍しい例の街です。
元々、国立駅は「国分寺駅」と「立川駅」の間にできた駅でした。
そして、それぞれの頭文字「国」「立」を取って、「国立駅」となりました。
「こくりつ」ではありません。
国立大学の一橋大学が、「国立(くにたち)」という地名の由来ではない
国立市には「一橋大学」という国立大学があるため、それが由来かと思いがちですが、実は違います。
そして「国立駅」の駅名から、「国立市」の市名となりました。
このように、”駅名から地名に採用される”のは珍しいことです。
ちなみに一橋大学は、東京都内・都心に近いの国立大学ということで人気のある、また偏差値も高い、有名大学です。
那須塩原駅・那須塩原市の場合
他にも、駅名から地名になった例として、栃木県那須塩原市があります。
那須塩原市は、東北新幹線の「那須塩原駅」から市名が決まりました。
那須塩原駅(栃木県那須塩原市)は、元々は「東那須野駅」という名前でした。
しかし、1982年の東北新幹線開業に伴って「那須塩原駅」に変わり、2005年に周辺地域と合併して「那須塩原市」となりました。
裾野駅・裾野市の場合
さらに、富士山の東のふもとにある静岡県裾野市の裾野駅も、元々1889年の開業時は「佐野駅」でした。
しかし、栃木県佐野市の佐野駅と重複して紛らわしいため、1915年に「佐野駅」は富士山の裾野を意味する「裾野駅」に変わりました。
また、町名も1952年に「裾野町」、さらに1971年に「裾野市」となっています。
などがあります。
こうした余談が、あなたの「かしこさ」を上げる!?
今回も一段と余談ばかりになり恐縮ですが、皆さんにとって何らかの「かしこさup」につながれば幸いです。
次回は、立川駅へ
次は、国立駅を出ると、いよいよ立川駅に着きます!
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