まずは原文から!
都(みやこ)を後に見かへりて
甲州街道(こうしゅうかいどう)新宿(しんじゅく)や
又(また)行く春に大久保(おおくぼ)の
つゝじの園(その)ぞ美しき
さらに読みやすく!
都(みやこ)を後に見かへりて
甲州街道(こうしゅうかいどう)新宿(しんじゅく)や
又(また)行く春に大久保(おおくぼ)の
つつじの園(その)ぞ美しき
さあ、歌ってみよう!
♪みやこをあーとに みかえりてー
♪こうしゅうかいどう しんじゅくやー
♪またゆくはーるに おおくぼのー
♪つつじのそのぞー うつくしきー
(中央線)
飯田橋駅→市ヶ谷駅→四ツ谷駅→信濃町駅→新宿駅→大久保駅→中野駅→荻窪駅→吉祥寺駅→武蔵境駅→武蔵小金井駅→国分寺駅→立川駅→日野駅→豊田駅→八王子駅→高尾駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※現代の中央線の起点は東京駅
※飯田橋駅は、当時は飯田町駅と牛込駅に別れていた
窓の景色は超高層ビル群に 巨大都市・新宿に到着
信濃町駅(しなのまちえき、東京都新宿区信濃町)を過ぎると、やがて山手線(やまのてせん)と合流してきて代々木駅(よよぎえき、東京都渋谷区代々木)に至ります。
すると程なくして、窓の景色はとてつもない超高層ビルが建ち並ぶようになってきます。
やがて、新宿駅(しんじゅくえき、東京都新宿区)に着きます。
さすが「世界のTOKYOだな」と思わされるような、新宿の超巨大高層ビル群には圧巻されます。
まるでエンパイア・ステート・ビル 新宿の「NTTドコモ代々木ビル」
窓の右手には、まるでアメリカ・ニューヨークの「エンパイアステートビル」のような超巨大な時計台の建物があります。
この超高層ビルは「NTTドコモ代々木ビル」といい、ドコモの携帯の無線電波をコントロールする設備がたくさん収容されているビルということになります。
NTTドコモ代々木ビルは、「新宿のエンパイアステートビル」などのように呼ばれたりします。
個人的には新宿とニューヨークは、なんとなく街の雰囲気が似ていると思っています。
少なくとも私は、新宿は「日本のニューヨーク」みたいなイメージを持っています。
東京都の都庁所在地かつ、甲州街道の宿場町・新宿
東京都新宿区(しんじゅくく)は、東京都の都庁所在地であり、またかつて甲州街道(こうしゅうかいどう)の内藤新宿(ないとうしんじゅく)もあった場所であり ます。
また現代の西新宿の超高層ビルの以前は、「淀橋浄水場(よどばしじょうすいじょう)」がありました。
全国の電化製品でお馴染みの「ヨドバシカメラ」は新宿発祥であり、近隣の神田川(かんだがわ)にかかる淀橋(よどばし)という橋に由来します。
「ヨドバシカメラ」の1号店(本店)は、新宿西口にあります。
新宿駅の西約700mには、「東京都庁」のこれまた巨大な超高層ビルが存在します。
また、上記の淀橋浄水場(じょうすいじょう)の跡地には、西新宿の超高層ビルが建ち並びます。
東京都に「綺麗な水」を提供するのに重要な、淀橋浄水場
淀橋浄水場(よどばしじょうすいじょう)は、かつて江戸でコレラ感染症が大量発生した時に、「汚い水」と「綺麗な水」を分ける目的で出来ました。
昔は人々の飲み水になる「上水道」に糞尿や汚物などを流されて汚染され、コレラなどが流行り、万単位で死者が出ていたのです。
それが淀橋浄水場ができて綺麗な水だけが家庭に供給され、コレラは激減しました。
淀橋浄水場は現在は廃止され、現在はやや北の東京都東村山市(ひがしむらやまし)に移っています。
その跡地に、西新宿の超高層ビルが建ち並んでいるイメージです。
1日300万人が乗り降りする、世界一の新宿駅
新宿駅は、1日300万人ほどの乗降客数があるギネスブック認定の世界一の駅です。
また必然的に、日本一乗降客数の多い駅になります。
新宿駅は本当に人が多すぎて駅構内を移動するだけですぐ人にぶつかりますし、ホームも人が多すぎて押されはみ出て人が落ちそうにもなります。また、朝晩のみならず「昼間でも満員電車」のイメージも強いです。
日本一大きな駅である「東京駅」の方が乗降客数が多い気もしますが、新宿駅の方が中央線・山手線・小田急線・京王線、その他多数の地下鉄線が乗り入れており、それに伴って乗り換え行為が頻繁に使われる他、特に東京都西部の多摩地区(たまちく)や湘南地域・小田原方面から東京都心部に向かう人々にとっては新宿駅は必ず通る駅になります。
だからこそ新宿駅は利用客数が世界一多くなるのです。
また、東京駅の利用客は主にビジネス客が多い印象ですが、新宿駅はビジネス客はもちろん買い物客や、「渋谷」や「池袋」など若者の街への乗り換え等も多いため、そうなるとやはり新宿駅の方が利用客が多くなるのです。
甲州街道の宿場町・内藤新宿
新宿はかつて、甲州街道(こうしゅうかいどう)の宿場町・内藤新宿(ないとうしんじゅく)として発展しました。
甲州街道(こうしゅうかいどう)とは、江戸から西の山梨県、さらに西の長野県の諏訪(すわ)方面まで行くための、昔の旅人たちが徒歩または馬で約20日間かけて通った道になります。かつて山梨県のことを「甲斐国(かいのくに)」「甲州(こうしゅう)」と呼んでいたので、”山梨方面へ向かう道”という意味で「甲州街道」という名前になったものと思われます。
また、内藤新宿(ないとうしんじゅく)は江戸四宿(えどよんしゅく)の一つと言われ、甲州街道最初の宿場町として発展してきました。
それはかつて、現代の新宿御苑(しんじゅくぎょえん)あたりで、江戸時代の大名であった「内藤さん(内藤家)」という方々がここに住むようになったことに由来しています。
また、その一族の名前「内藤」は、現在でも新宿御苑の周辺にその名前が残っています。
内藤新宿は、江戸時代には幕府非公認の遊郭(ゆうかく)がありました。
遊郭(ゆうかく)とは、庶民がお金を払って、女性から性的なサービスを提供してもらうための施設です。
江戸時代には遊郭は「風紀や治安を乱す」として、吉原遊郭(よしわらゆうかく)以外は公認されませんでした。
しかし吉原遊郭は新宿からだと北東にやや遠く、しかも性的サービスを受けるためには様々な面倒な手続きがあったようで、手っ取り早く性的サービスを受けたいという庶民のニーズに応える目的で、内藤新宿の非公認遊郭は重宝されました。
もちらん幕府としてもこの非公認遊郭の存在には気付いていないわけがなかったでしょうが、だからといって何でもかんでも取り締まっていると、庶民の欲求不満が爆発して反乱や暴動などを起こされるリスクがあり、かえって鎮圧に多大な費用がかかってしまうため、幕府は敢えて黙認していたのでしょう。
こうして栄えた内藤新宿の遊郭や宿場町も、太平洋戦争(大東亜戦争)の末期に、空襲で木っ端微塵(こっぱみじん)に消えて無くなります。
しかし、まるで「ピンチはチャンス」と言わんばかりに、戦後に更地(さらち)になった新宿を新たに開発しようとする動きが高まります。
何も無くなったということは、そこに新しく何でも建てたり造ったりできることだからです。
そして「歌舞伎座」を誘致(結果的には実現には至らず)しようとして生まれたのが、新宿の夜の街・繁華街として名高い「歌舞伎町(かぶきちょう)」の起源となりました。
そして淀橋浄水場も廃止され、その広大な跡地を開発・有効利用しようと、次々に超高層ビルが建ち並び、東京駅や東京タワーなどの周辺の「都心」に次ぐ「副都心」としての役割を新宿は担うようになりました。
新宿を出て「ツツジの名所」大久保を過ぎ行く
新宿駅を「中央線快速」「中央・総武線」で出ると、やがて大久保・中野方面へ向かってゆきます。
「大久保(おおくぼ)」は、歌詞にある通り、明治時代~大正時代にはツツジ(躑躅)の名所でした。
歌詞によれば、大久保では春になると辺り一面にツツジの花が咲き誇っていたのでしょう。
また、現代の大久保は、韓国人の方々が暮らす「コリアンタウン」、あるいは東南アジアなど多くの外国人が暮らすエスニックな街としても知られます。
大久保を過ぎると、次は中野(なかの)に止まります!
注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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