中央線鉄道唱歌 第7番 川越方面への分岐点、国分寺に到着 聖武天皇勅願による寺のあと

まずは原文から!

川越線(かわごえせん)の分岐點(ぶんきてん)
國分寺(こくぶんじ)には其(そ)の昔
聖武天皇(しょうむてんのう)のう勅願(ちょくがん)の
御寺(みてら)の名殘(なご)りを留(とど)めたり

さらに読みやすく!

川越線(かわごえせん)の分岐点(ぶんきてん)
国分寺(こくぶんじ)にはその昔
聖武天皇(しょうむてんのう)のう勅願(ちょくがん)の
御寺(みてら)の名残(なご)りを留(とど)めたり

さあ、歌ってみよう!

♪かわごえせーんの ぶんきてんー
♪こくぶんじにはー そのむかしー
♪しょうむてんのう ちょくがんの
♪みてらのなごりを とどめたりー

(中央線)
飯田橋駅→市ヶ谷駅→四ツ谷駅→信濃町駅→新宿駅→大久保駅→中野駅→荻窪駅→吉祥寺駅→武蔵境駅→武蔵小金井駅→国分寺駅→立川駅→日野駅→豊田駅→八王子駅→高尾駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※現代の中央線の起点は東京駅
※飯田橋駅は、当時は飯田町駅と牛込駅に別れていた

武蔵小金井駅を過ぎ、国分寺駅に到着

武蔵小金井駅(むさしこがねいえき、東京都小金井市)を過ぎると、やがて国分寺駅(こくぶんじえき、東京都国分寺市)に着きます。

国分寺駅(東京都国分寺市)

奈良時代、聖武天皇の勅願によって造られた国分寺

東京都国分寺市(こくぶんじし)は、その名の通り奈良時代の「国分寺(こくぶんじ)」があったことに由来します。
国分寺(こくぶんじ)とは、奈良時代に聖武天皇(しょうむてんのう)の勅願(ちょくがん)によって建てられたお寺です。
勅願(ちょくがん)とは、天皇による直接の命令やお願いのことをいいます。

つまり、聖武天皇がそれぞれの(くに)に1つずつ造りなさいと、命じたお寺ということになります。
(くに)」とは、奈良時代の律令制におけるエリア分けであり、現在の都道府県に該当します。

奈良時代には、様々な社会不安を抱えていました。
例えば疫病や天変地異、また醜い政権争いなど、人々の不安は絶えなかったのです
奈良時代は現代のように医学・医療・司法・警察・環境・防衛などのインフラが発展しているわけではありませんでしたから、こうなると仏様の力に頼る以外どうしようもなかったのです
こうした社会の状況を憂いた聖武天皇が、国の安定を願って造ったお寺が、「国分寺(こくぶんじ)」ということになります。

「中央特快」が止まる、国分寺駅

国分寺駅は、「中央特快」も止まる大きな主要駅でもあります。
中央特快」とは、「中央線快速」よりもさらに速い列車であり、新宿→中野→三鷹→国分寺→立川のように停車駅がかなり少ないことが特徴です。
恐らく、八王子や立川などの東京都西部「多摩地区(たまちく)」に住んでいる人々が、新宿と(通勤や買い物などで)素早く往復できるようにするために設定された列車かと思われます。
また、新宿~八王子間で競合している京王線(けいおうせん)に対抗するための意味合いもあるでしょう。
もっとも、特急「あずさ」「かいじ」であれば新宿~立川間は(特急料金がかかりますが)ノンストップになります。
ただしこの区間(新宿~立川)の特急列車はあまりスピードが出せません。その理由は恐らくですが、中央線は本数がとても多いので、ここを特急列車がスピード出すと前の列車が駅に止まっているときに追いついてしまうからだと思われます。
各駅停車の列車であれば「加速→減速→加速」の行為を繰り返すことができますが、駅に止まれない特急列車は加速がそもそもできないので(前を走る列車が駅に停車中に追いついてしまう)、恐らく新宿~立川間では特急列車はスピードが出せないのだと思われます。
逆に、八王子高尾を過ぎて山岳地帯に入ると、特急列車は一気にスピードを上げて特急列車らしくなります。

川越方面へ続く「西武国分寺線」との分岐駅

また、国分寺駅は歌詞にもあるように、現代の「西武国分寺線」にあたる「川越鉄道(かわごえてつどう)」との分岐駅でもありました。西武国分寺線は、埼玉県所沢市(ところざわし)や狭山市(さやまし)を経由して、やがて川越市(かわごえし)に至る路線です。

西武国分寺線については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

【埼玉】所沢・川越を探訪!航空公園と、時の鐘に会いに行く

武蔵野線との分岐駅である、西国分寺駅

国分寺駅を出て一駅行くと、武蔵野線(むさしのせん)との分岐駅でもある西国分寺駅(にしこくぶんじえき、東京都国分寺市)に着きます。

武蔵野線は、少し南の府中本町駅(ふちゅうほんまちえき)に至り、そこから南武線(なんぶせん)に乗り換えると、分倍河原(ぶばいがわら)に至ります。

鎌倉時代の終わりに起きた「分倍河原の戦い」

分倍河原(ぶばいがわら)の戦い」は、鎌倉時代の終わりの「元弘の変(げんこうのへん)」において、後醍醐天皇の軍が鎌倉軍と戦った場所です。
後醍醐天皇は1331年に、京都府の「笠置山(かさぎやま)」で挙兵したのですが、敗れてしまい、島根県の「隠岐の島」にて流されてしまいます。
そこで名和長年(なわ ながとし)に助けられ、隠岐の島を脱出します。
その後京都の「六波羅探題(ろくはらたんだい。鎌倉幕府の、京都の朝廷を監視するためのような機関)」を滅ぼし、ここ「分倍河原(ぶばいがわら)」で戦闘となります。
分倍河原でも勝利した後醍醐天皇の軍は、とうとう鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)に攻め入り、1333年に北条氏を滅亡させ、これによって鎌倉幕府は滅亡しました。

笠置山の戦いについては、以下の記事でもわかりやすく解説しておりますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 関西編 第10番 笠置山と元弘の変 鎌倉幕府を倒すための戦い

名和長年については、以下の記事でもわかりやすく解説しておりますので、ご覧ください

山陰鉄道唱歌 第20番 大山のふもと、御来屋へ 後醍醐天皇の御船を迎えた、名和長年の功績

国分寺駅と立川駅の間にある、国立駅

やがて、国立駅(くにたちえき、東京都国立市)に着きます。

東京都国立市(くにたちし)は、なんと「駅名から地名に採用された」という珍しい街です。

元々、国立駅は「国分寺駅(こくぶんじえき)」と「立川駅(たちかわえき)」の間にできた駅でした。それぞれの頭文字「」「」を取って、「国立駅(くにたちえき)」となりました。「こくりつ」ではありません
国立市には「一橋大学(ひとつばしだいがく)」という国立大学があるため、それが由来かと思いがちですが、実は違います
そして「国立駅」の駅名から、「国立市」の市名となりました。このように、”駅名から地名に採用される”のは珍しいことです。

他にも、駅名から地名になった例として、栃木県那須塩原市(なすしおばらし)があります。那須塩原市は、東北新幹線の「那須塩原駅」から市名が決まりました。那須塩原駅(なすしおばらえき、栃木県那須塩原市)は元々は「東那須野駅(ひがしなすのえき)」という名前でしたが、1982年の東北新幹線開業に伴って「那須塩原駅」に変わり、2005年に周辺地域と合併して「那須塩原市」となりました。

さらに、富士山の東のふもとにある静岡県裾野市(すそのし)の裾野駅(すそのえき)も、元々1889年の開業時は「佐野駅」でしたが、栃木県佐野市(さのし)の佐野駅(さのえき)と重複して紛らわしいため、1915年に「佐野駅」は富士山の裾野(すその)を意味する「裾野駅」に変わり、また町名も1952年に「裾野町」、さらに1971年に「裾野市」となっています。
などがあります。

今回も一段と余談ばかりになり恐縮ですが、皆さんにとって何らかの「かしこさup」につながれば幸いです。

次は、国立駅を出ると、いよいよ立川駅(たちかわえき)に着きます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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