中央線鉄道唱歌 第9番 日野や豊田も過ぎて、八王子に到着!織物で栄えた都市

まずは原文から!

日野(ひの)や豐田(もよだ)も打ち過ぎて
行けば武藏(むさし)の八王子(はちおうじ)
機織(はとり)の業(わざ)の名にし負ふ
町の榮(さか)えぞ著(いちじる)き

さらに読みやすく!

日野(ひの)や豊田(もよだ)も打ち過ぎて
行けば武蔵(むさし)の八王子(はちおうじ)
機織(はとり)の業(わざ)の名にし負う
町の栄(さか)えぞ著(いちじる)き

さあ、歌ってみよう!

♪ひーのやとよだも うちすぎてー
♪ゆーけばむさしの はちおうじー
♪はとりのわーざの なにしおうー
♪まーちのさかえぞ いちじるきー

(中央線)
飯田橋駅→市ヶ谷駅→四ツ谷駅→信濃町駅→新宿駅→大久保駅→中野駅→荻窪駅→吉祥寺駅→武蔵境駅→武蔵小金井駅→国分寺駅→立川駅→日野駅→豊田駅→八王子駅→高尾駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※現代の中央線の起点は東京駅
※飯田橋駅は、当時は飯田町駅と牛込駅に別れていた

立川駅(たちかわえき、東京都立川市)を過ぎると、日野駅(ひのえき、東京都日野市)、豊田駅(とよだえき、東京都日野市豊田)とすぎて、やがて八王子駅(はちおうじえき、東京都八王子市)に至ります。

日野駅(東京都日野市)
日野駅(東京都日野市)

東京都日野市(ひのし)は、あの新撰組(しんせんぐみ)の「鬼の副長」と呼ばれた、土方歳三(ひじかた としぞう)の生まれた街でもあります。
新撰組(しんせんぐみ)とは、幕末の戊辰戦争(ぼしんせんそう)のとき、明治の新政府軍に対して(北海道・函館に追い詰められるまで)最後まで戦った武士たちです。
副長」とは、いわゆるナンバー2のことです。
新撰組のトップである「局長」は、近藤勇(こんどう いさみ)という人物です。土方歳三からも敬愛された近藤勇でしたが、残念ながら東京の板橋(いたばし)で処刑されてしまいました。

トップを失った土方歳三と新撰組は、追ってくる新政府軍から逃れて福島県の会津(あいづ)を経て北へ北へと逃げてゆき、最後は北海道の函館(はこだて。当時は「箱館」)に追い詰められました。
しかしここで力尽き、最後まで新政府軍を苦しめ奮闘した土方歳三は35歳にして銃弾に倒れてしまいます。
そして残りの新撰組も箱館の五稜郭(ごりょうかく)にて降伏し、幕末の戊辰戦争は終了、明治維新の時代に入ってゆくのです。

土方歳三はイケメンのため、現代でも歴史好き女性(レキジョ)からの人気の的です!

日野駅を過ぎると、歌詞にある通り豊田駅(とよだえき、東京都日野市豊田)に着きます。

豊田駅(東京都日野市豊田)

豊田駅の近くには車両基地があるため、当駅を始発・終着とする列車がいくつか設定されています(たまに「豊田行き」の列車が来ることがある)。つまり、東京・新宿方面から八王子・高尾方面へ行くときに豊田止まり豊田行き)の列車に乗った場合、豊田駅で列車を降りて高尾行きなどに乗り換える必要があるので、注意しましょう。

豊田駅をも過ぎると、列車はやがて八王子駅(はちおうじえき、東京都八王子市)に到着します。

八王子駅(東京都八王子市)

東京都八王子市(はちおうじし)は、かつて養蚕(ようさん)や織物(おりもの)などで栄えた町であります。
また、東京都で二番目に市政をひいた街でもあります。

八王子とは、「牛頭天王(ごずてんのう)」の言う神様の、八人の王子からその地名が由来しています。
牛頭天王(ごずてんのう)」とは、京都の八坂神社(やさかじんじゃ)が明治時代までは祇園社(ぎおんしゃ)と名乗っていたときの、インドの神様です。
祇園社は明治時代に、日本が欧米列強に対抗するため「国家神道(こっかしんとう)」を推し進めていたとき、インド由来の「祇園社」「牛頭天王」はこれからの日本にふさわしくない、ということで「八坂神社」「スサノオ(須佐之男命)」に社名と神様を改めています。
インド由来の「牛頭天王」のイメージと、日本のオリジナルの神様である「スサノオ」のイメージが最も近くかぶっていたからですね。

八王子では、歌詞にあるように「機織り(はたおり)」、つまり明治時代には「織物(おりもの)」「養蚕(ようさん)」「桑(くわ)」で栄えてきました。

機織り(はたおり)」とは、専用の機械を用いて織物を造ることです。

織物(おりもの)」とは、生糸を縦と横に組み合わせて縫う、昔の日本の高級な和服のことをいいます。

生糸(きいと)」とは、織物(おりもの)を織るために必要な糸でのことであり、カイコという幼虫が生みだします。

カイコ」とは、「生糸(きいと)」を生み出す幼虫のことであり、桑(くわ)という植物を食べて成長します。

(くわ)」とは、カイコが食べる餌(植物)のことです。

八王子は織物の生産で栄えてきた歴史があるため、桑都(そうと)という風にも言われています。

明治時代以降は「産業革命」によって織物の生産効率は向上し、より民間に浸透していくようになりました。

明治時代の日本にとっては、いかに生糸や織物をたくさん製造(大量生産)して、海外にたくさん売って(輸出して)利益を上げるかということが重要でした。またそれが、国を挙げて行う国策(こくさく)でもありました。
欧米列強に「追いつけ追い越せ」といったムードだったため、当時の明治時代の日本の「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」において「生糸」「養蚕」「織物」「輸出」はとても大事なことでありました。

また八王子駅からは、南の横浜方面へ向かうために、横浜線(よこはません)という路線が出ています。
横浜線はかつて明治時代に、先述の八王子で造った織物や生糸などを、横浜まで運んで輸出するための路線でした。
ここでいう「横浜」とは、現代の桜木町駅(さくらぎちょうえき、神奈川県横浜市)があるあたりです。ここに、たくさんの「赤レンガ倉庫」がありますよね。それは海外輸出するため一時的に(輸出する)生糸や織物などを蓄えておためのものだったのでした。

こうした織物はもちろん八王子のみならず、関東地方では群馬県あたりでも盛んに生産されていたものです。
鉄道唱歌でも、群馬県伊勢崎市(いせさきし)、群馬県桐生市(きりゅうし)、栃木県足利市(あしかがし)の養蚕や、茨城県結城市(ゆうきし)の(つむぎ)などについては歌われていますね。

群馬県富岡市(とみおかし)の富岡製糸場(とみおかせいしじょう)は、いわゆる「官営模範工場(かんえいもはんこうじょう)」とされていました。
官営模範工場とは、国が「この工場を見本として他の工場も真似しなさい」という、国が設立した模範となるべき工場のことです。

八王子市と群馬県高崎市を結ぶ路線が、「八高線(はちこうせん)」です。
八高線は恐らくですが、1930年代に高崎~八王子~横浜間での生糸や織物の運搬を、”東京を経由せずに”運ぶためにできた路線だと考えられます。なぜなら当時は「満州事変」など、いつ海外と戦争が起きて東京が壊滅的被害に遭ってもおかしくない世の中だったからですね。

次はいよいよ「(中央線における)東京の西端部」ともいうべき、高尾(たかお)に向かってゆきます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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