中央線鉄道唱歌の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
笹子トンネルの歴史などを、やさしく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
日本一の大工事
一萬五千呎(フィート)餘の
常夜の闇を作りたり
さらに読みやすく!
日本一の 大工事
一万五千 フィート余の
常夜の闇を 作りたり
さあ、歌ってみよう!
♪にっぽんいちのー だいこうじー
♪いちまんごーせん フィートよの
♪とこよのやみをー つくりたりー
高尾駅→相模湖駅→上野原駅→四方津駅→鳥沢駅→猿橋駅→大月駅→初狩駅→笹子駅→(笹子トンネル)→甲斐大和駅→塩山駅→山梨市駅→石和温泉駅→酒折駅→甲府駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
笹子駅を出て、「笹子トンネル」をくぐる
笹子駅(山梨県大月市笹子町黒野田)を過ぎると、「笹子トンネル」という、当時としては日本一の長さだったトンネルを通ります。

笹子トンネルを通る(中央線、山梨県)
かつて「日本一の長さ」だった、笹子トンネル
笹子トンネルは、歌詞にある通り、中央線鉄道唱歌ができた明治時代の1911年当時は、「日本一長いトンネル」でした。
その長さは、約5,000m(正確には4,656m)にもなります。
笹子トンネルの「1万5,000フィート余り」とは、どれくらいの長さ?
歌詞によれば、笹子トンネルの長さは「1万5,000フィート余り」と表現されています。
1フィートは約0.3mですから、
- 15,000×0.3=5,000mです。
だいたい合っていますね。
明治時代は、トンネルそのものが珍しかった
鉄道が日本で誕生したばかりの明治時代の1870年代には、そもそもトンネル自体が珍しいという時代でした。
そのため、列車がトンネルに入ると、まるで「世界が急に夜になった」と感じられたようでした。
鉄道唱歌 東海道編 第24番でも、
とありますよね。
これは当時としては珍しかったトンネルにいきなり入ったため、それまで昼だった世界が「急に夜になったのか」と勘違いしそうになった、という様子ではないかと思われます。
ちなみにこのトンネルは、静岡県の「牧の原トンネル」といい、1889年に開通した全長1,056mのトンネルになります。
牧の原トンネルについては、以下の記事で解説していますので、ご覧ください。

時代とともに、トンネルは長大化へ
鉄道ができた明治時代の当初は、なかなか長いトンネルは掘れなかったのでした。
そのため、峠道や山岳地帯においては、
- 仕方なく勾配のきついルートを採用する
- 車両を引っ張るための、補助機関車を連結する
などで対応してきたのでした。
トンネル技術の向上とともに、次第に何千メートル級のトンネルが掘られるように
しかし時代が進んでトンネル技術が向上していくことにつれ、
- 「なるべく直線を確保する」
- 「なるべく勾配を避ける」
などの目的で、何千メートル級のトンネルが次々に掘られるようになるわけです。
トンネル長大化の変遷(例)
- 1883年 柳ヶ瀬トンネル 1,352m(福井県、滋賀県)
- 1889年 石部トンネル 約2,200m(静岡県)
- 1889年 牧の原トンネル 1,056m(静岡県)
- 1898年 金山トンネル 1,656m(常磐線)
- 1903年 笹子トンネル 4,656m(山梨県)
- 1914年 生駒トンネル 3,388m(大阪府、奈良県)
- 1931年 清水トンネル 9,702m(群馬県、新潟県)
- 1934年 丹那トンネル 7,804m(静岡県)
- 1942年 関門トンネル 約3,600m(山口県、福岡県)
- 1953年 深坂トンネル 5,170m(福井県、滋賀県)
- 1962年 北陸トンネル 13,870m(福井県)
- 1964年 新丹那トンネル 7,959m(丹那トンネルの4倍の速さで完成)
- 1967年 上越線・新清水トンネル 13,500m
- 1979年 上越新幹線・大清水トンネル 22,221m
- 1988年 青函トンネル 53,850m
などです。
※中央線鉄道唱歌は1911年であるため、当時は笹子トンネルが日本一でした。
※約2,200mと書いているのは、「上り線」「下り線」で別々のトンネルを使用しており、それぞれがわずかに距離が異なるためです。
初期のトンネルの例
東海道線が開通し始めた明治時代の1880年代の頃は、トンネルの長さはせいぜい1,000m~2,000m程度でした。
ただ当時としては、これでも充分に画期的でした。
なぜなら、人々はトンネルのおかげで、険しい峠道を越える必要が無くなったからです。
鉄道唱歌 東海道編にも出てくる静岡県の
- 「石部トンネル」
- 「牧の原トンネル」
は、日本の鉄道の歴史としては最初期のトンネルといってもいいでしょう。
トンネルが無かった時代は、険しい峠を越えるしかなかった
トンネルが無かった時代は、旅人たちは
- 「宇津ノ谷峠」
- 「日本坂」
- 「小夜の中山峠」
など、昼でも薄暗くて山賊まで出て来かねないような険しい峠道を通っていくしかなかったのでした。
初期のトンネル工事は、とても危険だった
初期のトンネル工事は、「つるはし(トンカチの先が尖ったような器具)」のような原始的な器具で自力で掘ったり、また爆薬を使ったりと、かなり危険そのもので、工場の事故による犠牲者も多発したのでした。
また、トンネル工事は「地下を掘る行為」と一緒で似ているため、掘ると大量の「湧き水」が発生してしまいます。
そのため、トンネル内が大量の湧き水で溢れて、工事の人々が溺死するという事故と、常に隣合わせだったのでした。
トンネル技術の向上とともに、長大化するトンネル
現代では「シールド工法」といって、安全な機械で掘り進めることができますから、本当にトンネルの技術は速くて安全なものになりました。
1903年に掘られた笹子トンネルの約5,000m(正確には4,656m)という長さが、明治時代後期の当時としてはいかに長かったかがわかります。
それが1930年代に入ると、
- 上越国境の「三国トンネル」
- 静岡県の「丹那トンネル」
- 福井県・滋賀県の「深坂トンネル」
などといった、8,000m以上にもおよぶ長大トンネルが掘られるようになりました。
かなり難工事だった、静岡県・丹奈トンネル
ただし「丹那トンネル」は1918年から掘り進めてから1934年の開通まで、実に16年もの期間がかかっています。
そのトンネル工事は常に”事故”や”災害”と隣合わせであり、掘った時に出てくる大量の湧き水に苦しめられ、また地震によって天井が崩れたりして、67名という多数の犠牲者が出ました。
そのため現在は、丹那トンネルの前後の入口付近には亡くなった方々に対する慰霊碑が建てられています。
しかし1964年に開通した東海道新幹線のために掘られた「新丹那トンネル」は、上記の教訓を生かして、わずか4年で掘られています。
約13kmにもおよぶ、北陸トンネル
1962年に開通した福井県の「北陸トンネル」に至っては、なんと13kmにも及ぶようになります。
この北陸トンネルは、関西圏と北陸圏との特急列車による速達運転(人々や荷物を速く移動させる)という重要な役割があったので、当初から「オール電化」という(汽車を用いない)電車の仕組みでした。
北陸トンネル火災事故
しかし「電車であれば(蒸気機関車のように火を燃やさないから)トンネル事故は起こらない」などという間違った認識により火災対策が疎かになってしまっていました。
そのため1972年11月、夜中に寝台列車が北陸トンネル内を走行中、ビュッフェ車(食堂車のようなもの)から火が出てしまい、あっという間に他の車両に燃え移り、大火災が発生していまいました。
しかも、当時の国鉄のルールでは「トンネル内で事故が起きたら、車両はトンネル内で停車しなければならない」という誤ったルールまで存在しため、炎上した車両はトンネルの奥深くの位置でルール通りに停車し、燃え続けるままとなってしまいました。
これにより救助や消火活動が遅れてしまい、真夜中のために就寝中だった乗客はみな犠牲となり、30人が死亡し714人が負傷するという最悪のトンネル事故となってしまいました。
トンネル事故からの教訓と、現代につながる対策
この事故の教訓を受けて、
- 「トンネル内の消火設備の強化」
- 「燃えにくい素材への変更」
- 「トンネル内で事故が起きたら、停車せずに突っ切る」
といった新しい施策が盛り込まれるようになりました。
笹子トンネルも、2012年に天井の崩落により事故が起きています(こちらは中央本線ではなく、中央自動車道の方です)。
このように、「トンネルの歴史」は、残念ながら「事故の歴史」でもありました。
北陸トンネルについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

その他のトンネル事故と、安全対策について
トンネルに関連した事故には、他にも、
- トンネルの奥深くまで酸素が届かなくなって、「酸素欠乏症」となる事故
- トンネル内で、蒸気機関車の煙が充満してしまい、石炭の不完全燃焼により一酸化炭素中毒になる事故と
- 天井が落ちてくる、落盤事故
- 車道の場合は、自動車同士の追突事故
などの様々や事故がありました。
トンネルの地下水問題
また、トンネルを安全に保つということは、湧き水を大量に退避させるということになります。
なので、周辺の地域としては農業や生活に必要な水まで吸い上げされる、ということにもなります。
これにより、深刻な水不足を招く事にも繋がってしまいます。
そのために、トンネル建設と維持のために吸い出した地下水は、必ず周辺の地域に返すといった施策も必要になってきます。
現代のトンネルの安全
過去の教訓が生かされ、現代の安全が保たれている
現代のトンネルは、こうした過去の様々な事故の教訓が生かされ、我々の見えないところで様々な安全対策がなされています。
普段我々が何気なく通っているトンネルですが、現代の我々が安心しきってトンネルを通れるというのは、過去の人々の犠牲と、その教訓のもとに成り立っていることを忘れてはならないのです。
それと同時に、こうした昔の人々の苦労を知ることで、現代の我々の当たり前の幸せに対して感謝することができるようになります。
トンネルを抜けて、次は甲斐大和駅へ
笹子トンネルを脱けると、次は武田勝頼終焉の地である、甲斐大和駅に止まります!
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