中央線鉄道唱歌 第18番 逃げ場を失った武田勝頼が滅びた、甲斐大和駅の東の天目山

まずは原文から!

武運(ぶうん)盡(つ)きたる武田氏(たけだし)が
重圍(じゅうい)の中に陥(おちい)りし
天目山(てんもくざん)は初鹿野(はじかの)の
驛(えき)より東(ひがし)二里(にり)の道(みち)

さらに読みやすく!

武運(ぶうん)尽(つ)きたる武田氏(たけだし)が
重囲(じゅうい)の中に陥(おちい)りし
天目山(てんもくざん)は初鹿野(はじかの)の
駅(えき)より東(ひがし)二里(にり)の道(みち)

さあ、歌ってみよう!

♪ぶーうんつきたる たけだしがー
♪ちょういのなかに おちいりしー
♪てんもくざーんは はじかののー
♪えきよりひがしー にりのみちー

(中央東線)
高尾駅→相模湖駅→上野原駅→四方津駅→鳥沢駅→猿橋駅→大月駅→初狩駅→笹子駅→(笹子トンネル)→甲斐大和駅→塩山駅→山梨市駅→石和温泉駅→酒折駅→甲府駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

笹子トンネルを抜けて、甲斐大和駅(旧・初鹿野駅)へ

笹子トンネルを脱けると、やがて武田勝頼(たけだ かつより)終焉の地である、甲斐大和駅(かいやまとえき、山梨県甲州市大和町初鹿野)に到着します。

甲斐大和駅(山梨県甲州市大和町初鹿野)

歌詞にある初鹿野(はじかの)とは、現代の甲斐大和駅のことをいいます。
甲斐大和駅は、明治時代の開業当初は「初鹿野駅(はじかのえき)」という名前でした。

武田勝頼の終えんの地・甲斐大和駅

そしてこの甲斐大和駅は、武田勝頼(たけだかつより)が滅びた場所であり、「武田家終焉の地」とされています。

甲斐大和駅のホームより(山梨県甲州市)

武田勝頼(かつより)は、戦国時代の甲斐国の武将であり、かつて「戦国最強」とまで言われたあの武田信玄(しんげん)の息子になります。

武田信玄の息子・勝頼の、衰退と敗走

武田勝頼は、1575年の「長篠の戦い」において、織田信長の鉄砲隊に敗れたことでも知られます。

長篠の戦い」で敗れた武田勝頼は、その勢いを急速に落としてゆき、衰退してゆきます。
仲間からは裏切られ、甲斐国(かいのくに。山梨県)の人々からも、次々に人望をなくしてゆきました。
しかし、一方の織田信長は逆に勢いを増してゆきます。
父・武田信玄のときはまったく太刀打ちできなかった信長でしたが、息子の勝頼の時代になると、一気にその勢いは加速していくのです。

ここまで衰退した武田勝頼は、織田信長とは戦っても負けることは明白だったので、何度も何度も交渉によって織田信長を説得し、闘いを回避しようとします。

しかし織田信長はこれを全く聞き入れません。
織田信長にしてみれば、それまで何度も父の武田信玄によって戦に敗れており、その武田家に対する恨みは半端なかったのです。

そして織田信長は、こともあろうに天皇の許可を得て、武田勝頼を朝敵(天皇の敵という意味)に認定してもらい、京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)という神社で祈祷(きとう)まで行うようになりました。

朝敵とは「天皇や朝廷に背く敵」という意味であり、天皇に「朝敵認定」してもらうことで(あるいは、半ば強引に天皇に迫ってその認定を出させることで)、相手を滅ぼすための「正当性」「大義名分(たいぎめいぶん)」を手にすることができます。

一度敵だと見做(みな)したら徹底的に滅ぼすまで許さないという、織田信長の恐ろしいまでの執念とサイコパスぶりが伺い知れます。

武田勝頼はこんな恐ろしい人物を敵に回してしまい、もはや勝ち目の無い闘いを避けられなくなります。

新府城を築くも放棄、天目山へ逃げる

そこで武田勝頼は、山梨県甲府市にあった、親子三代で築いてきた躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を捨ててしまい、はるか西の名古屋(尾張)・岐阜(美濃)方面から攻めてくる織田軍を迎え撃つため、甲府よりも少し北西にある新府(しんぷ)という場所に城を建てました。

しかしこの「新府城」は失敗に終わります。

武田勝頼は、父の武田信玄が死んだ後、織田軍に対する抵抗のため、度重なる出兵を余儀なくされています。
出兵には兵士に給与を払う必要があるため、コストがかかります。
そのコストのシワ寄せは、自国である甲斐国(かいのくに。山梨県)の民の税金(年貢)の増加となって現れます。
これによって、甲斐国の民衆の心は武田勝頼から離れていっており、勝頼に従う人々が減ってゆきます。

そんな中で築城がうまくいくはずもなく、結局勝頼は「新府城」を建設途中で断念し、焼き払って逃げることにしました。
なぜ焼き払うのかというと、たとえ造りかけでも織田軍に一度乗っ取られたら改修増築され、甲斐国侵略のための拠点とされてしまう恐れがあったためです。

そして武田勝頼は、大月市の岩殿山(いわどのやま)にいた小山田信茂(こやまだ のぶしげ)に匿(かくま)ってもらおうと頼りますが、裏切られてしまい、少し手前の天目山(てんもくざん)に逃げ込みました。
ちょうど甲斐大和駅のやや東にある標高1,380mの山です。

天目山にて捕まり、無念の自害

ここで歌詞にあるように、武運の尽きた武田勝頼は追っ手に捕まり、重囲(じゅうい)の中に陥り(=何重もの敵に囲まれ)、天目山にて無念の自害となってしまいます。

こうして、武田信虎(のぶとら)・武田信玄(しんげん)・武田勝頼(かつより)と三代にわたって栄華を築いた武田氏は、織田信長の手によって滅ぼされてしまうのです。
なので、甲斐大和駅は、「武田氏終焉の地」とされています。

甲斐大和駅のホームより(山梨県甲州市)

次は、この武田勝頼の恨みを弔うためのお寺である、景徳院(けいとくいん)の話題となります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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