中央線鉄道唱歌 第19番 武田勝頼の無念が残る、景徳院 今や山河が虚しく残るのみ

まずは原文から!

山の麓(ふもと)の墳墓(おくつき)に
恨(うら)みは殘(のこ)る景徳院(けいとくいん)
國(くに)は滅びていたずらに
山河(さんが)昔を語るのみ

さらに読みやすく!

山の麓(ふもと)の墳墓(おくつき)に
恨(うら)みは残(のこ)る景徳院(けいとくいん)
国(くに)は滅びていたずらに
山河(さんが)昔を語るのみ

さあ、歌ってみよう!

♪やーまのふもとの おくつきにー
♪うらみはのこるー けいとくいん
♪くーにはほろびて いたずらにー
♪さーんがむかしを かたるのみー

(中央東線)
高尾駅→相模湖駅→上野原駅→四方津駅→鳥沢駅→猿橋駅→大月駅→初狩駅→笹子駅→(笹子トンネル)→甲斐大和駅→塩山駅→山梨市駅→石和温泉駅→酒折駅→甲府駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

武田勝頼は、前回解説した「天目山の戦い」において織田信長の軍に囲まれ、無念の自害となってしまいました。

それは、織田信長の執念深い攻撃によって天目山(てんもくざん)へと追い詰められてしまったからです。
詳しい話は、前回の記事をご参照ください。

中央線鉄道唱歌 第18番 逃げ場を失った武田勝頼が滅びた、甲斐大和駅の東の天目山

景徳院(けいとくいん)」とは、山梨県甲州市大和町にある、武田勝頼の霊を弔(とむら)うために、江戸時代になって徳川家康が建てたものです。

景徳院の最寄駅、甲斐大和駅(山梨県甲州市)

ではなぜ家康が景徳院を建てたのか。
たとえ生きている間は「敵」であっても、その後の自分たちの天下のために犠牲になった者の霊を弔うということは昔はよくあったのです。

たとえば672年の「壬申の乱(じんしんのらん)」で敗れた大友皇子(おおとものおうじ)の魂を弔うため、勝った側の大海人皇子(おおあまのおうじ。後の天武天皇)が琵琶湖西に建てたお寺が、三井寺(みいでら)というお寺になります。
三井寺は鉄道唱歌 東海道編 第43番でも出て来ます。

鉄道唱歌 東海道編 第43番 琵琶湖・大津市南西部を観光 堅田・三井寺・唐﨑

また、昔は現代よりも「祟り」などの存在が信じられていましたから、武田勝頼の怨念によって江戸時代の世の中が乱れることも危惧したのでしょう。
実際、菅原道真(すがわらのみちざね)公が九州・福岡の大宰府(だざいふ)に左遷(させん)され彼が無念にも亡くなった後、京都の天皇の御所である「清涼殿(せいりょうでん)」に落雷が起きるという、「清涼殿落雷事件」というものがおきました。
これは無実の罪を着せられ亡くなった菅原道真公の「祟り」とされたのです。

こうした事例からも、当時の人々が「恨み」や「祟り」を恐れていたことがわかります。

さらに、家康が景徳院を建てた理由として、江戸時代の甲斐国(かいのくに。山梨県)は徳川家の領地になったからというものが挙げられます。
甲斐国は江戸の1つ手前なので、西日本から幕府に反逆して攻めてくる大名から江戸を防衛するため、甲府は軍事的に重要な場所でした。そのため、甲府は徳川家の領地となっていました。

しかしそうはいっても、戦国時代までは武田家の領地だった場所です。
そのため、武田家という主君を無くした甲斐国の人々の心を落ち着かせる・慰める目的で景徳院は造られたともいえます。

歌詞には
国は滅びていたずらに 山河昔を語るのみ
とあります。

国破れて山河あり」という言葉がありますが、それは例えどんなに昔はここで戦いがあったとしても、今はただ「山や河が残るのみ」という意味になります。

いたずらに」とは古語で「無駄に」「無意味に」という意味です。

武田氏が確かにここで滅ぼされた昔があったとしても、今や山や河だけが残り、虚しさを語るだけという意味ですね。

現在の甲斐大和駅のホーム(山梨県甲州市)

次は、再び甲斐大和駅から列車に乗り込み、勝沼ぶどう駅・塩山駅に向かっていきます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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