中央線鉄道唱歌の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
竜王・韮崎などの地理・歴史を、やさしく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
韮崎驛の車窗より
新府の址を弔ひつ
登る日野春小淵澤
さらに読みやすく!
韮崎駅の 車窓より
新府の址を 弔いつ
登る日野春 小淵沢
さあ、歌ってみよう!
♪にらさきえきのー しゃそうより
♪しんぷのあーとを とむらいつー
♪のーぼるひのはる こぶちざわー
甲府駅→竜王駅→韮崎駅→新府駅→日野春駅→小淵沢駅→富士見駅→青柳駅→茅野駅→上諏訪駅→下諏訪駅→岡谷駅(→至・塩尻駅)
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
甲府駅を、諏訪・松本方面へ出発
やや長かった甲府観光はここで終わり、これより甲府駅を出発します。
竜王駅・韮崎駅・新府駅・日野春駅・小淵沢駅へと進む
甲府駅を出ると、歌詞にあるように、
- 竜王駅(山梨県甲斐市)
- 韮崎駅(山梨県韮崎市)
- 新府駅(山梨県韮崎市)
- 日野春駅(山梨県北杜市)
- 小淵沢駅(山梨県北杜市小淵沢町)
のように進んでゆきます。

南アルプスの山々(中央本線の車窓より)

竜王駅へ到着!「信玄堤」のある甲斐市

竜王駅(山梨県甲斐市)
竜王駅は、山梨県甲斐市の駅です。
甲斐市は、歌詞にあるように煙草の産地として知られます。
甲斐市の「信玄堤」
甲斐市には、武田信玄の時代に、洪水の対策として作られた「信玄堤」があります。
昔の川は、氾濫しまくっていて住民を困らせていたため、堤防を作ることは急務だったのでした。
山梨県は「甲」のつく地名が多い 混同防止のために
山梨県はかつて「甲斐国」と呼んでいたので、「甲」がつく地名が多くなります。
県庁所在地の甲府市をはじめ、
- その左側(西側)が「甲斐市」
- 甲府市の右側(東側)が「甲州市」
ですので、間違わないようにしましょう。
簿記の「貸借対照表」のような覚え方
ここで「こう”し”ゅうし」の「し」の文字が右側を向いているため、甲州市は甲府より「右側」と覚えれば楽かもしれません(^^;)
これは簿記などで習う貸借対照表において、
- 借方は、「左側」
- 貸方は、「右側」
というのと同じ覚え方です。(^^;)
借方の場合は、「かり」の「り」の文字が左を向いているため、貸借対照表において左側というわけです。
甲斐市については、
- 「かいし」→「かりし(勝手に変換)」→「左側」
と覚えるしかないでしょう(^^;)
無理矢理すぎる・・・。
夢窓疎石の「恵林寺」が存在する甲州市
甲州市の中心駅は塩山駅であり、夢窓疎石が建立した恵林寺があります。
甲州市と塩山については、以下の記事をご覧ください。

続いて、韮崎駅(韮崎市)へ
続いて、韮崎駅(山梨県韮崎市)に着きます。

韮崎駅(山梨県韮崎市)
スイッチバック時代の跡が残る、急勾配に位置する駅
韮崎駅は、とても勾配がきつい位置にあるため、かつてスイッチバックがあった駅でした。
スイッチバックとは、簡単にいうと「人」の形をした線路です。
昔の列車は、勾配に弱かったため、勾配対策のために設けられた線路のことです。
例えば昔の車両だと、勾配のきつい位置に列車を止めておくのはきつかったのでしょう(雪で滑り落ちる、など)。
韮崎駅でのスイッチバックでは、
- 奥に別途設置された、駅のホームに入って、
- 客の乗り降りをさせ、
- その後、再び本線に戻って、前進する
という形になります。
中央線には、スイッチバックの跡が多い
中央線は、勾配のきつい山岳地帯を走ることが多いです。
そのため、このようなスイッチバック(をやっていた形跡)がたくさん存在します。
かつてスイッチバックが存在した駅の例
中央線において、かつてスイッチバックを行っていた駅は、例えば以下のような駅があります。
- 初狩駅(山梨県大月市初狩町)
- 笹子駅(山梨県大月市笹子町)
- 勝沼駅(山梨県甲州市勝沼町)(※現:勝沼ぶどう郷駅)
- 新府駅(山梨県韮崎市)
(※他にもまだまだあります。)
そもそも、中央線のスイッチバックの目的は?現代は多くが廃止に
また、スイッチバックには単線(線路が1本のみ)だった時代に、列車同士の行き違いのために、退避されるという目的もありました。
しかし現在では、
- 列車性能が向上し、きつい坂道の上に車両を止めたとしても問題なくなったため
- 複線化(線路が2本になること)が行われ、いわゆる「通過待ち」は不要になったため
などの理由により、スイッチバックの大半はもはや不要となり、その多くは廃止されています。
新府駅に到着 武田勝頼が負けを覚悟し、燃やして捨ててしまった城
やがて、かつて戦国時代に新府城のあった、
- 新府駅(山梨県韮崎市)
に到着します。

新府駅(山梨県韮崎市)
新府城とは、かつて武田勝頼が築いた城でした。
「新府」の由来は、恐らくですが
- 甲府(=甲斐国の国府、府庁などの意味)に取って代わる、新しい府庁
という意味で、「新府」という地名になったのだと思われます。
なぜ、新府城は建てられたのか
では、なぜ新府城は建てられたのか。
1575年の「長篠の戦い」で織田信長の鉄砲隊に敗れた武田勝頼は、その勢いを急速に失ってゆきました。
西から攻めてくる織田軍に備えるため
当時まだ、甲府市あたりに拠点を構えていた武田勝頼は、
- 西側から(諏訪方面から、もっと厳密には名古屋→木曽側)から攻めてくる織田信長の軍に備えるために、
- 甲府よりもやや西に、新府城を造ることにした
のでした。
財政不足・人手不足により、城建設を諦める
しかし武田氏は既に劣勢であり、財政も尽きてしまっていたのでした。しかも、無理にこきつかった甲斐国の民たちも、既に武田勝頼から心は離れていっていました。
こうした資金不足や労働力不足などの問題もあり、新府城の建設はろくに進みませんでした。

新府駅(山梨県韮崎市)
作りかけの城を焼却し、東へ逃げる
結局、武田勝頼は造りかけの新府城を断念して、きれいに焼き払った後に、
- 甲府→大月
の方面へ逃げました。
なぜ焼き払ったのかというと、造りかけの新府城が乗っ取られた場合、それを利用して、敵の本拠地の城に改造されてしまうという恐れがあるからです。
「立つ鳥後を濁さず(=去る者は綺麗に片付けて去ること)」という意味もあるでしょうが、それだけではなさそうです。
東の山へ逃げ、天目山にて自害へ
その後、武田勝頼は東にある山梨県大月市にある岩殿山に向かい、部下だった小山田信茂に、匿ってもらおうとしたのでした。
しかし残念ながら裏切られてしまい、少し手前の天目山(中央線の甲斐大和駅のあるあたり)で追っ手に捕まってしまい、悲劇の自害を遂げています。
岩殿山については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

天目山については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

日野春駅を過ぎて、やがて小淵沢駅へ 小海線との分岐駅
新府駅を出てさらに進むと、やがて
- 日野春駅(山梨県北杜市)
を過ぎて、小海線との分岐駅でもある
- 小淵沢駅(山梨県北杜市)
に着きます。
北杜市は、「ほくとし」と読みます。

日野春駅(山梨県北杜市)

小淵沢駅(山梨県北杜市)
小淵沢駅から北へ延びる、小海線
小淵沢駅からは、はるか北の長野県小諸市に至る、小海線が出ています。
標高約1,345m、JR最高峰の駅・野辺山駅

野辺山駅(長野県南佐久郡南牧村野辺山)
小海線には、野辺山駅(長野県南佐久郡南牧村野辺山)という、標高約1,345mのJR線で最も標高の高い位置にある駅がよく知られます。
夏はとても涼しく、まるで北海道に来たような印象を受けます。
また、西には八ヶ岳の雄大な姿が登場します。
次回は、富士見駅へ
次は、富士見駅に止まります!
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