中央線鉄道唱歌の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
塩尻峠の戦いなどについて、初心者にもやさしく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
こゝに定めし古戰場
永井の坂に武士の
夢の跡をや弔らわむ
さらに読みやすく!
ここに定めし 古戦場
永井の坂に 武士の
夢の跡をや 弔らわん
さあ、歌ってみよう!
♪こーこにさだめし こせんじょう
♪ながいのさーかに もののふのー
♪ゆーめのあとをや とむらわんー
岡谷駅→(塩嶺トンネル)→みどり湖駅→塩尻駅
(中央東線・辰野支線)
岡谷駅→辰野駅→小野駅→塩尻駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
塩尻峠の戦い
列車は既に、長野県塩尻市に到着しています。
今回は、その塩尻市で戦国時代に起こった、
「塩尻峠の戦い」
の話題となります。
武田信玄と、小笠原長時によって行われた「塩尻峠の戦い」
塩尻峠の戦いは、戦国時代に
- 武田信玄
- 小笠原長時
という両者によって起こった戦いです。
武田信玄については、これまで説明してきた通りですが、一応以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

武田信玄の、長野方面への進出
甲斐国(現在の山梨県)で勢いづいてきた武田信玄は、信濃国(長野県)にまで進出しようと北上してきます。
「寄せ集め」に「就寝中」・・・完全に油断していた、小笠原軍
ここ(塩尻峠)で、武田信玄と小笠原長時がぶつかったのです。
しかし、小笠原軍はあくまで「寄せ集め」の軍でだったため、各兵士にまとまり・やる気が無かったのでした。
しかも、
と、タイミングを見誤ったため、兵士がみな就寝中だったときに、武田信玄の軍に襲われて、壊滅してしまいました。
この戦いで小笠原軍は敗北、武田信玄の勝利となりました。
武田軍の勝利 やがて川中島へ
そして武田信玄はどんどん長野方面へと進出してゆき、越後(現在の新潟県)の上杉謙信とぶつかり、5回にも及ぶ「川中島の戦い」へと繋がってゆくのです。
川中島の戦いについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

東西南北への交通の要衝・塩尻
長野県塩尻市は、諏訪湖のやや北西に位置する街です。
塩尻を境に、
- 北は、松本・長野
- 東は、甲府・東京
- 西は、岐阜・名古屋
- 南は、伊那・豊橋
というふうに、4つの方向への交差点となっています。
まさに塩尻は、交通の重要拠点であり、交通の要衝となっています。
これは現代でも昔も変わりません。
鉄道も、塩尻駅を境に中央線が
- 「中央東線」
- 「中央西線」
の二系統に分かれています。また、
- 中央東線は、JR東日本の管轄で
- 中央西線は、JR東海の管轄
となっています。
中山道・塩尻宿
塩尻は先述の通り、4つの方向への交通の要衝ですから、江戸時代までは旅人たちが泊まるための、中山道・塩尻宿が置かれていました。
中山道とは
ここで中山道とは、江戸時代に旅人たちが約20日ほどかけて、江戸~京都の間を徒歩または馬で移動していた道です。
中山道のルート
中山道は江戸(東京)を出発すると、
の順のルートであり、江戸幕府により整備されました。
定時性に欠けていた東海道の、代替ルート
東海道が海沿いのルートだったのに対し、中山道は山沿いのルートだったともいえます。
中山道は山沿いなので、その分険しい峠も多かったのでした。
しかし海沿いの東海道は、大きな川が氾濫したりして、また橋も(軍事上の理由などにより)かかっていなかったりします。
そのため、これにより何日も足止めを喰らうなど「定時性」に欠けていたのでした。
東海道のこうした事情から、足止めを喰らうリスクが少ない点(定時性を求める観点)で、中山道を利用する人もいたといいます。
塩尻宿・塩尻峠への最寄駅・みどり湖駅
中山道・塩尻宿は、1983年に出来たみどり湖駅(長野県塩尻市)が最寄駅となります。
しかし長年の間、中央線は辰野・小野経由だったため、鉄道の駅と塩尻宿が接近したのは1983年と、わずかに最近のことです。

塩尻峠への最寄駅・みどり湖駅(長野県塩尻市)
次回も、「塩尻峠の戦い」の話題へ
次も、塩尻峠の戦いの話題となります!
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