中央線鉄道唱歌 第39番 「塩尻峠の戦い」 武田信玄と小笠原家の戦いのあと

まずは原文から!

小笠原家(おがさわらけ)の興敗(こうはい)を
こゝに定(さだ)めし古戰場(こせんじょう)
永井(ながい)の坂に武士(もののふ)の
夢の跡をや弔(とむ)らわむ

さらに読みやすく!

小笠原家(おがさわらけ)の興敗(こうはい)を
ここに定(さだ)めし古戦場(こせんじょう)
永井(ながい)の坂に武士(もののふ)の
夢の跡をや弔(とむ)らわん

さあ、歌ってみよう!

♪おがさわらーけの こうはいをー
♪こーこにさだめし こせんじょう
♪ながいのさーかに もののふのー
♪ゆーめのあとをや とむらわんー

(中央東線)
岡谷駅→(塩嶺トンネル)→みどり湖駅→塩尻駅

(中央東線・辰野支線)
岡谷駅→辰野駅→小野駅→塩尻駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

列車は既に、長野県塩尻市(しおじりし)に到着しています。

今回は、その塩尻市で戦国時代に起こった、
塩尻峠の戦い(しおじりとうげのたたかい)」
の話題となります。

塩尻峠の戦いは、戦国時代に武田信玄小笠原長時(おがさわらの ながとき)という両者によって起こった戦いです。
甲斐国(かいのくに。現在の山梨県)で勢いづいてきた武田信玄は、信濃国(しなののくに。長野県)にまで進出しようと北上してきます。

ここ(塩尻峠)で、武田信玄と小笠原長時がぶつかったのです。
しかし、小笠原軍はあくまで「寄せ集め」の軍であり、各兵士にまとまりややる気が無く、しかも「武田信玄が来るのはもっと後だろう」とタイミングを見誤ったため、兵士がみな就寝中だったときに武田信玄の軍に襲われて壊滅してしまいました。
この戦いで小笠原軍は敗北武田信玄の勝利となりました。

そして武田信玄はどんどん長野方面へと進出してゆき、越後(えちご。現在の新潟県)の上杉謙信とぶつかり、5回にも及ぶ「川中島の戦い」へと繋がってゆくのです。

長野県塩尻市(しおじりし)は、諏訪湖のやや北西に位置する街です。

塩尻を境に、

北は松本・長野
東は甲府・東京
西は岐阜・名古屋
南は伊那・豊橋

というふうに、4つの方向への交差点となっています。
まさに塩尻は、交通の重要拠点であり、交通の要衝(ようしょう)となっています。
これは現代でも昔も変わりません。

鉄道も、塩尻駅を境に中央線が
中央東線(ちゅうおうとうせん)」
中央西線(ちゅうおうせいせん)」
の二系統に分かれています。

中央東線はJR東日本の管轄で、中央西線はJR東海の管轄になっています。

塩尻は先述の通り、4つの方向への交通の要衝ですから、江戸時代までは旅人たちが泊まるための、中山道(なかせんどう)・塩尻宿(しおじりしゅく)が置かれていました。

中山道(なかせんどう)とは、江戸時代に旅人たちが約20日ほどかけて、江戸~京都の間を徒歩または馬で移動していた道です。

中山道は江戸(東京)を出発すると埼玉・群馬・軽井沢・諏訪湖・塩尻・木曽路・岐阜・滋賀・京都の順のルートであり、江戸幕府により整備されました。

東海道が海沿いのルートだったのに対し、中山道は山沿いのルートだったともいえます。
中山道は山沿いなので、その分険しい峠も多かったのですが、東海道は大きな川が氾濫して橋も(軍事上の理由などにより)かかっていなくて、これにより何日も足止めを喰らうなど「定時性」に欠けていたため、足止めを喰らうリスクが少ない点(定時性を求める観点)で中山道を利用する人もいたといいます。

中山道・塩尻宿は、1983年に出来たみどり湖駅(長野県塩尻市)が最寄駅となります。
しかし長年の間、中央線は辰野・小野経由だったため、鉄道の駅と塩尻宿が接近したのは1983年と、わずかに最近のことです。

みどり湖駅(長野県塩尻市)

次も、塩尻峠の戦いの話題となります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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