中央線鉄道唱歌 第51番 鳥居峠のトンネルを越える かつて武田勝頼が戦った「鳥居峠の戦い」

まずは原文から!

甲信(こうしん)二軍(にぐん)のつはものが
雄叫(おたけ)びの声(こえ)治(おさ)まりて
屍(かばね)さらせし峠路(とうけじ)に
咲くや鳥居(とりい)の山櫻(やまざくら)

さらに読みやすく!

甲信(こうしん)二軍(にぐん)のつわものが
雄叫(おたけ)びの声(こえ)治(おさ)まりて
屍(かばね)さらせし峠路(とうけじ)に
咲くや鳥居(とりい)の山桜(やまざくら)

さあ、歌ってみよう!

♪こうしんにぐんの つわものがー
♪おたけびのこえー おさまりてー
♪かーばねさらせし とうげじにわ
♪さーくやとりいの やまざくらー

(中央西線)
塩尻駅→洗馬駅→贄川駅→奈良井駅→藪原駅→宮ノ越駅→木曽福島駅→上松駅→須原駅→野尻駅→南木曽駅→坂下駅→中津川駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

奈良井駅(ならいえき、長野県塩尻市)を過ぎると、鳥居峠(とりいとうげ)のトンネルをくぐります。

鳥井峠(とりいとうげ)は、前回解説した奈良井宿(ならいしゅく)からとてもよく見えます。
昔の旅人にとっては、奈良井宿で一晩明かした後、
これからあの険しい峠道を越えなきゃないのかぁ~
ということで、すごく憂鬱な気分になったことでしょう。

実際、奈良井宿を出ると急に坂道がきつくなり、薄暗い峠道に入ってゆきます。
当時の旅人たちの憂鬱な気分が想像できます。
かといって鳥井峠は、昔から中山道や木曽路の交通には避けては通れない峠道です。

スーツさんが2021年5月に行われた「自転車で行く 中山道の旅」において、スーツさんが鳥井峠を越えるシーンは怖すぎて、正直見てはいられないレベルでした。
私(筆者)は動画を観ながら、「わわわ怖い!スーツさん無理せずに戻って、安全な道を通って!」と何度も心の中で叫んでいました。

鳥井峠の道のりは(スーツさんの動画を拝見させてもらった限りにおいては)、正直以下のようなものです。
道超狭い・ほぼ獣道・地面ガタガタ・昼でも薄暗い・木の枝が体に引っかかる・板で造った簡素すぎる橋(落ちたら即死)・ガードレール無し(落ちたら死ぬ)・倒木当たり前・クマや猿がいつ出るかわからない
など。
考えただけで、あまりにも危険過ぎる峠道ですね。
現代人の我々では、生半可な知識や経験で行と、簡単に遭難したり事故に遭遇します。
スーツさんは充分な知識と経験があったから出来たのでしょう。
また、我々のような素人がそう簡単に行ける道ではないでしょう。

しかし現代の我々は、「トンネル」でそういった山や峠道をいとも簡単に貫き、座席に座っているだけで越えてしまうのです。
鉄道と技術というものは、恐ろしいものです。
まさに、「人に翼の汽車の恩」です。

中央線鉄道唱歌のラストでも、
行き悩みたる山道も こごしき峰(みね)も砥(と)のごとく
と歌われていますね。
まさにそんな険しい山道も、鉄道によってあっという間に過ぎてしまう。
鉄道の発明は本当に素晴らしいものです。

座席に座っているだけで山や川を越えるなんて、鉄道が出来る以前は考えられなかったでしょう。

木曽路などの街道は、行き交う人々の旅の道というだけでなく、物流(食べ物や材料などを運ぶこと)や、戦争のときに兵士たちが移動するための道でもあったのです。

そして戦国時代、この鳥井峠はまさに尾張・美濃地方(現代の名古屋あたり)にいた織田軍が、塩尻(長野県)や甲斐国(山梨県)に攻め入るために必要な道でした。

つまり、織田信長の軍が武田氏に攻め入るための戦いであり、これを「鳥井峠の戦い」といいます。

鳥居峠の戦い」とは、織田軍の木曽義昌(きそよしまさ)と、武田勝頼(たけだ かつより)が戦った戦いになります。

歌詞には「甲信二軍(こうしんにぐん)」とありますが、甲斐国の武田側が「」、織田側の信濃国・木曽義昌の側が「」です。

織田信長は、武田信玄(しんげん)が生きている間には全く太刀打ちできませんでした。
武田信玄は、「戦国最強の武将」と呼ばれることもあり、それだけ強かったのです。

しかし武田信玄が亡くなり、それが織田信長にバレると、状況は一変します。
また、武田信玄が亡くなったことにより、息子の武田勝頼(かつより)の時代になり、織田信長はここから勢い付いていきます。

そして1575年の「長篠の戦い」において織田信長が武田勝頼の騎馬隊を破ると、武田勝頼は一気に衰退していきます。

また武田勝頼は度々あちこちに兵を送ったことで甲斐国は財政不足に陥り、民衆に多額の税負担を強いていました。
このことで武田勝頼は甲斐国の民衆からの信頼を失いつつあり、徐々に弱体化していきました。

勝頼は次々に味方に裏切られ、静岡→伊那谷(現在の飯田線)→諏訪方面へ攻めてくる織田・徳川の軍を防ぎきれませんでした。
また、先述の通り尾張(おわり:愛知県)・美濃(みの:岐阜県)方面から木曽路経由で攻めてくる木曽義昌率いる織田軍に鳥井峠に攻め入れられ、甲斐国まで攻め滅ぼさんという勢いでした。

武田勝頼は、この「鳥井峠の戦い」のとき諏訪(すわ)に留まっていたのですが、木曽義昌による地形をイカした巧みな戦術により、武田軍は敗北します。

そして鳥井峠で敗北した武田軍は、甲府にあったそれまでの居館だった「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」を捨て、より少し北西の新府城(しんぷじょう)に城を築いたのですが、織田軍の勢いがハンパなく、新府城を焼き払って、山梨県大月市の岩殿山(いわどのやま)で部下にかくまってもらおうと敗走します。

しかし岩殿山でも裏切られ、武田勝頼は大月市より少し手前(西)の天目山(てんもくざん)まで追われ、ここに無念の自害となります。

鳥居峠はこうした武田勝頼による戦いが行われた場所であり、歌詞にあるように多くの兵士が雄叫びの声を上げながら戦いました
そして歌詞によれば、その雄叫びの声も収まって、亡くなった兵士たちの遺体(屍)の峠道にさらされた跡も今や昔の話となり、鳥居峠には綺麗なヤマザクラが咲くというわけです。

鳥井峠のトンネルを越えると、ここからはじめて木曽川(きそがわ)と合流して、藪原駅(やぶはらえき、長野県木曽郡木祖村)に到着します。
ここで気を付けたいのが、それまで鉄道と並行して流れていた川は木曽川ではなく、「奈良井川ならいがわ)」だということです。
奈良井宿の目の前を綺麗な川が流れていますが、これは「木曽川」ではなく「奈良井川」である点に注意しましょう。

鳥井峠のトンネルを抜けると、北から流れてきた木曽川と合流して、すると藪原からは遙か南西の中津川(なかつがわ)あたりまで、鉄道と木曽川は並行して進むこととなります。

つまり、広大な木曽路の山深い旅が、ここから本格的にスタートするのです。
木曽路の旅も、いよいよここからが本番です。

次は、藪原(やぶはらえき)に止まります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

コメント