中央線鉄道唱歌 第61番 南木曾(三留野)に到着!木曽路ももはやあとわずか

まずは原文から!

三留野(みどの)は古き殿作(との)づくり
秋の与川(よかわ)はの月冴(つきさ)えて
浮世(うきよ)の外の眺(なが)めさへ
塵(ちり)をいとひし湯舟澤(ゆぶねざわ)

さらに読みやすく!

三留野(みどの)は古き殿作(との)づくり
秋の与川(よかわ)はの月冴(つきさ)えて
浮世(うきよ)の外(ほか)の眺(なが)めさえ
塵(ちり)をいとい(厭い)し湯舟沢(ゆぶねざわ)

さあ、歌ってみよう!

♪みどのはふーるき とのつくりー
♪あーきのよかわの つきさえてー
♪うきよのほーかの ながめさえー
♪ちーりをいといし ゆぶねざわー

(中央西線)
塩尻駅→洗馬駅→贄川駅→奈良井駅→藪原駅→宮ノ越駅→木曽福島駅→上松駅→須原駅→野尻駅→南木曽駅→坂下駅→中津川駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

須原駅(すはらえき)・野尻駅(のじりえき、いずれも長野県木曽郡大桑村)を過ぎて、もはや険しい木曽路もだんだんと終わりに近づいてきます。
それで、南木曽駅(なぎそえき、長野県木曽郡南木曽町)に到着します。

南木曽駅(長野県木曽郡南木曽町)

南木曽は「なぎそ」と読みます。

歌詞にある「三留野(みどの)」とは、現代の南木曽駅のことをいいます。
また、南木曽駅はかつて明治時代の開業当初は「三留野駅(みどのえき)」と呼ばれていました。

南木曽駅は、特急「しなの」も一部の列車が停車する重要駅になります。

かつて南木曽(なぎそ)には、中山道(なかせんどう)の宿場町にあたる三留野宿(みどのじゅく)と妻籠宿(つまごじゅく)がありました。
今の中山道は、江戸時代の木造建築の建物が現在もそのままの形で残っているものも多いので印象的です。

南木曽にはかつて、読書村(よみかきむら)という村がありました。
読書(よみかき)は珍しい地名ですが、
与川(よかわ)」
三留野(みどの)」
柿其(かきそれ)」
という三つの村の名前を合わせたものになります。

読書村は上記三つの村が合併して1889年に誕生した村ですが、1961年にさらに周辺の村(吾妻村、田立村)と合併して南木曽町となっています。

歌詞にもある「秋の与川(よかわ)の月」は、いわゆる「木曽八景」の1つになっています。

木曽八景には、以下の8つの景色が含まれています。

徳音寺(とくおんじ)
御嶽山(おんたけさん)
木曽の桟(かけはし)
寝覚の床(ねざめのとこ)
風越山(かざこしやま)
木曽駒ヶ岳
小野の滝
・秋の与川(よかわ)の月

中央線鉄道唱歌では、これら8つの風景がすべて歌われています。

浮き世」とは、つらくて憂鬱な人生や俗世間のことを言います。

浮き世の外の眺め」とは、そんな騒がしい俗世間や煩わしい人間関係や社会もなどのことをいいます。

(ちり)」とは、世の中の騒がしさや煩わしさのことをいいます。

湯舟沢」とは正直何のことかわからなかったのですが、恐らくこの地域の川の景色のことをいうのだと思います。

つまり、与川の月は、わずらわしい俗世間ですら、その煩わしさが嫌になって、この景色にうっとりしてしまう、という意味になるかと思われます。

ここからは、江戸時代の中山道(なかせんどう)が、鉄道とは南まっすぐの方向へ分岐しています。鉄道は南西へ進みます。

中山道(なかせんどう)は、鉄道や自動車が一般的でなかった江戸時代に、江戸~京都を約20日かけて、徒歩または馬で移動していた道です。
木曽路も、中山道のルートの一部に含まれます。
歴史上の有名どころだと、松尾芭蕉や幕末の皇族女性である和宮(かずのみや)さまも通られた道になります。
和宮内親王(かずのみやないひんのう)は、幕末の「公武合体政策」のため、徳川14代将軍・家茂(いえもち)と結婚するために、京都を出発し、中山道・木曽路を通って、江戸へと向かわれたのでした。

中山道を旅している間、旅人たちは何日間も歩くことになるので、途中で泊まるための町を「宿場町」といいます。

木曽路には中山道の宿場町が11あったので、「木曽11宿」とも呼ばれます。

南木曽町(なぎそまち)には、先述の通り三留野宿(みどのじゅく)と妻籠宿(つまごじゅく)という、木曽路でも特に有名な宿場町があります。
江戸時代の宿場町の建物がそのまま保存されているので、国内のみならず海外からも多くの観光客が訪れます。これは、地域の人達が、かつての宿場町の面影を残そうと、懸命に努力されたことが大きいといえます。

また、妻籠宿のとなりの馬籠宿(まごめじゅく)は、島崎藤村(しまざき とうそん)という作家の出身地でございます。
島崎藤村は、「夜明け前」「破戒(はかい)」などの小説が有名です。

小説「夜明け前」は、「木曽路はすべて山の中である。」という有名な冒頭からはじまり、地元民の目線で当時の木曽路のことを詳しく書かれている貴重な資料でもあります。

長かった木曽路の旅も、ここでようやく終了となります。
次で木曽路を抜け、また長野県を抜けて岐阜県に入り、坂下駅を経て中津川駅に着きます。

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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