中央線鉄道唱歌の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
勝川・小牧山などの観光・歴史を、初心者の方にもやさしく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
両雄陣を對しつゝ
一兵血ぬらず勝川や
むかしを忍ぶ小牧山
さらに読みやすく!
両雄陣を 対しつつ
一兵血ぬらず 勝川や
むかしを忍ぶ 小牧山
さらに読みやすく!
♪りょうゆうじんを たいしつつー
♪いっぺいちぬらず かちかわやー
♪むかしをしのぶー こまきやまー
中津川駅→恵那駅→釜戸駅→瑞浪駅→土岐市駅→多治見駅→高蔵寺駅→春日井駅→勝川駅→大曽根駅→千種駅→鶴舞駅→金山駅→名古屋駅
※鉄道唱歌に関連する駅と、その他主要と思われる駅を筆者の独断と偏見でピックアップしたもの
高蔵寺駅を出て、一気に名古屋へ
高蔵寺駅(愛知県春日井市高蔵寺町)を過ぎると、列車は名古屋都市部に向かって、さらにスピードを上げてゆきます。
もはやゴールの名古屋まで、ラストスパートといった感じとなります。
窓の景色はさらに住宅地が多くなり、ますます都会的な景色になってゆきます。
勝川駅に到着 「縁起のよい地名」
やがて愛知県春日井市の中心部に近づいてゆき、間もなく
- 勝川駅(愛知県春日井市)
に到着します。

勝川駅(愛知県春日井市)
「勝川」の由来

「勝川」の由来となった庄内川(中央線の車窓より)(愛知県)
勝川とは、元々は「徒歩で歩いて渡れる川」という意味で、「徒歩川」と書いていました。
しかし、1584年の「小牧・長久手の戦い」において、徳川家康から「非常に縁起がいい」ということで、「勝川」と書くようになりました。
昔は「負け=死」でしたから、漢字に縁起の良いものを採用する、というこだわりが強かったのでしょう。
ちなみにその「徒歩でも渡れる川」とは、勝川駅のやや南を流れる「庄内川」のことです。
他の「縁起の良い地名」の例は?
以下が、他の縁起を担いだ地名の例です。
佐賀県「名護屋城」 秀吉のふるさとと同じ名前!
豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に、九州の拠点として自分の出身地である「名古屋」と同じ名前であるため、「縁起が良い!」ということで、名護屋に城を築いたのでした。
「熊本」武士にふさわしい名前に
加藤清正が、「隈」と言う字に「畏れ多い」という字が含まれるために、漢字表記を変えたでした。
武士に相応しくないことと、熊のような猛獣の意味をも込めて「熊本」に変えたのでした。
「福井」縁起のいい「ハッピー」の文字に
「北」という字が「敗北」を連想させるため、漢字表記を変えたのでした。
当時の北ノ庄城(後の福井城)にあった水の出るありがたい井戸から「福井」となり、福井県の由来となったのでした。
また、これは第三セクター路線「ハピラインふくい」の名前とも、遠くつながっていたりするのです。
「大阪」明治時代にふさわしい名前に
「坂」には、武士の「士」の文字が含まれているため、漢字表記を変えたのでした。
「士農工商」を連想させる地名は、もはや明治時代に相応しくない名前であるとして、「大阪」に改められたのでした。
尾濃の平野(濃尾平野)に入ってゆく
ちょっと話がズレましたが、歌詞の話題に戻ります。
尾濃とは、尾張国と美濃国のことです。
尾張国とは、愛知県北部のことをいいます。
美濃国とは、岐阜県南部のことをいいます。
ちなみに、
- 愛知県南東部のことは、「三河国」
- 岐阜県北部のことは、「飛騨国」
といいます。
「国」とは、奈良時代の律令制におけるエリア分けであり、現代の「都道府県」に該当します。
小牧・長久手の戦い
「小牧・長久手の戦い」とは、本能寺の変の2年後の1584年にこの地域で起こった戦いです。
1582年の「本能寺の変」で織田信長が倒れて以降、それまで織田信長の下にうまくまとまっていた勢力が、織田信長の「後継ぎ」や「領地」を巡って争うようになります。
その代表格が豊臣秀吉、徳川家康、柴田勝家らです。
清須会議、賤ヶ岳の戦いへ
その後、愛知県清須市で行われた「清洲会議」で、上記の勢力の領地分配などが決まったわけです。
しかし、この決定は柴田勝家にとって不利であり、豊臣秀吉にとって有利な結果となってしまいました。
ここで不満を持った柴田勝家と豊臣秀吉が対立してしまいます。
これが滋賀県の琵琶湖の北東で行われた、賤ヶ岳の戦いです。
この戦いで、柴田勝家は負けてしてしまいます。
詳しくは、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、をご参照ください。

この時期、豊臣秀吉は織田の後継者や徳川家と頻繁に対立するようになりました。
そうして起こったのが「小牧・長久手の戦い」です。
結果は、「和睦」でした。
歌詞「一兵血塗らず勝川」とは?
歌詞によれば
ということですが、実際には多くの兵士が血を流して倒れています。
なので、歌詞の意味は残念ながらちょっとよくわかりませんでした。
わかり次第加筆・修正します。
ちなみに歌詞は「一兵血塗らず勝つ」というフレーズと、「勝川」という地名を掛けています。
これを「掛詞」といい、昔の日本の歌によく見られる言葉遊びや洒落の一種です。
鉄道唱歌には、この「掛詞」は非常に多く登場します。
かつての織田信長の居城「小牧山城」

小牧山城跡より(愛知県小牧市)
小牧山城とは、織田信長が居を構えた、数あるお城の一つになります。
その後、織田信長は、以下のように最低でも3回はお城を「引っ越し」しています。
- 清洲城
- 小牧山城
- 岐阜城
- 安土城
岐阜城に織田信長が入ったとき、美濃のこの地域を「岐阜」と名付けました。「岐阜」とは、織田信長によるネーミングなのだそうです。

清洲城(愛知県清須市)

金華山(きんかざん)の山頂にある岐阜城(岐阜県岐阜市)
織田信長が安土に城を構えた理由は?

安土城のあった、安土山(滋賀県近江八幡市安土町)
安土城に構えた理由は、琵琶湖の交通の便もよかったのもあるのですが、北陸地方にいる上杉謙信を警戒していたことも理由に考えられています。
当時は「無敗の軍神」と恐れられていた上杉謙信ですから、織田信長が神経質になるのも無理はなかったでしょう。
また、織田信長は石川県での「手取川の戦い」で上杉謙信に敗北・敗走してますから、ある意味仕方ないことなかもしれません。
手取川の戦いについては、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

「尾張の大うつけ」織田信長の幼少期エピソード
織田信長は幼少期には「尾張の大うつけ」と呼ばれ、ろくでもないエピソードが山のようにあることから、ADHDなどの発達障害の可能性が指摘されています。
また、「ADHDの人は引っ越しが多い」と言われます。その理由の1つとして、「飽き性」なことが挙げられます。
ADHDの人は、一つのことにすごく夢中になるのですが、その分飽きるのも早く、同じ場所に住み続けるのが苦痛で引っ越しが多くなるものと思われます。
またADHDには勉強ができる優秀な人も多い(けど会社には務まらない・・・)ので、同じ場所だと物足りなくなってしまい、すぐに引っ越したくなるのでしょう。
次は、大曽根・名古屋へ
話がズレましたが、次でいよいよ名古屋への到着となります!
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