山陰鉄道唱歌の歌詞を、わかりやすく解説しています!
鉄道旅行を楽しむためのノウハウを、初心者の方にも楽しめるよう解説してゆきます!
↓まずは原文から!
今は離宮を置かれたり
てらす朝日に輝きて
たてる甍の高々と
さらに読みやすく!
今は離宮を 置かれたり
てらす朝日に 輝きて
たてる甍の 高々と
さあ、歌ってみよう!
♪いまはりきゅうを おかれたりー
♪てーらすあさひに かがやきてー
♪たてるいらかのー たかだかとー
京都駅→二条駅→嵯峨嵐山駅→亀岡駅→園部駅和知駅→綾部駅→福知山駅→上川口駅→下夜久野駅→上夜久野駅→梁瀬駅→和田山駅→養父駅→八鹿駅→江原駅→豊岡駅→玄武洞駅→城崎温泉駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
京都駅を出発して、嵯峨嵐山方面へ
京都駅(きょうとえき、京都府京都市下京区)を出発して山陰本線を北上していくと、鉄道博物館の最寄駅である
- 梅小路京都西駅(うめこうじきょうとにしえき、京都府京都市下京区)
に着きます。
一日で回りきれない、鉄道博物館
京都鉄道博物館はとても広大であり、一日かけても回りきれない広さを誇ります。
そのため、マニアにはたまらないだけでなく、一般の親子連れの皆さんにも楽しめる博物館だといえます。
昔の京都の入り口・丹波口
続いて、
- 丹波口駅(たんばぐちえき、京都府京都市下京区)
に着きます。
丹波口(たんばぐち)とは、京都の七つの入口のうち、その一つをいいます。
かつて京(京都)に入るためには、七つの入口がありました。
二条駅に到着
やがて、
- 二条駅(にじょうえき、京都府京都市中京区)
に着きます。

二条駅(にじょうえき)の近くには、二条城(にじょうじょう)というお城があります。

古くから、エラい人が泊まる場所として使われてきた二条城
二条城は、元々は徳川家の、京都における「宿泊地」や「別荘」などの目的で建てられた城でした。
将軍さまが泊まための最高レベルのホテル、といったイメージでしょうか。昔の宿場にはお城やお寺なども使われてきたのですね。
幕末に大政奉還が行われた、二条城
また幕末には、二条城は徳川15代将軍の徳川慶喜(よしのぶ)が、朝廷に政権を返す大政奉還(たいせいほうかん)を行った場所でもあります。
しかし、朝廷としては大政奉還でいきなり政権を返されたところで、少し困ったともいわれます。
これまで何百年もの間、武家政権である幕府に対してある意味で政治を任せっきりだったため、朝廷にはあまり政治能力がなく政権を返されても困るわけです(ましてや幕末の混乱な世の中であり、なお困ります)。
そのため、新しい明治政府が出来るまで、しばらくの間は幕府が政治をやっておいてよ、というような感じだったようです。
戊辰戦争が終わり、離宮が置かれた二条城
幕末の戊辰戦争が終り明治時代に入ると、二条城は皇室の離宮(りきゅう)として使われるようになりました。
これは歌詞にある通りですね。
離宮とは、簡単にいうと天皇や皇族の別荘のことです。
離宮よりももう少し規模の小さいものを御用邸(ごようてい)といいます。
現在の御用邸は
- 神奈川県・三浦半島の葉山(はやま)
- 栃木県北部の那須(なす)
にあります。
二条城の「ウグイスの鳴き声」
二条城には面白い仕掛けがあり、ある廊下を歩いた瞬間に「うぐいすの鳴き声」が聞こえる仕組みがありました。
つまり、現代でいう防犯ブザーみたいなものです。
これによって、不審者や敵の侵入を防いでいたのです。
私が行った時、日本人は私だけだった
ちなみに筆者が二条城に行ったときは、日本人は私だけであり、その他はみんな外国人でした(金沢の歴史探訪のときも、同じ経験をしました)。
残念ではありますが、日本人の自分の国の歴史に対する興味関心の薄さがこの時に垣間見えました。
それと同時に、外国人の京都や日本への興味関心の高さと愛着が伺えます。
このサイトを読まれている方が少しでも旅行に興味を持ち、実際に旅行に行ってみたいと思えるよう、筆者としても力を尽くしていきたいと思っています。
戦争の被害を免れた京都
京都は、戦時中に空襲の被害を免れたことはよく知られています。
先述のように京都はアメリカ人はじめ多くの外国人に愛されているわけですから、もしかしたら京都に愛着のある当時のアメリカ人にとって、大好きな京都を攻撃することは憚(はばか)られたのかもしれません。
私がアメリカ人(米軍)の立場だったら、好きな街だけは絶対に空襲しないのでしょう。
次は、嵯峨嵐山へ
二条駅から再び列車に乗ると、列車は大きく西へ迂回し、嵐山(あらしやま)方面へ向かってゆきます。
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