山陰鉄道唱歌 第6番 舞鶴線に乗り換え、舞鶴へ 日露戦争で戦った軍艦たち

まずは原文から!

阪鶴線(はんかくせん)に乘(の)りかへて
行(ゆ)けば舞鶴軍港(まいづるぐんこう)に
雄々(おお)しく並ぶ軍艦(いくさぶね)
我海軍(わがかいぐん)の様(さま)を見よ

さらに読みやすく!

阪鶴線(はんかくせん)に乗(の)りかえて
行けば舞鶴軍港(まいづるぐんこう)に
雄々(おお)しく並ぶ軍艦(いくさぶね)
我海軍(わがかいぐん)の様(さま)を見よ

さあ、歌ってみよう!

♪はんかくせーんに のりかえてー
♪ゆーけばまいづる ぐんこうにー
♪おおしくなーらぶ いくさぶねー
♪わがかいぐんのー さまをみよー

(山陰本線)
京都駅→二条駅→嵯峨嵐山駅→亀岡駅→園部駅和知駅→綾部駅→福知山駅→上川口駅→下夜久野駅→上夜久野駅→梁瀬駅→和田山駅→養父駅→八鹿駅→江原駅→豊岡駅→玄武洞駅→城崎温泉駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

綾部駅からは、舞鶴方面へ寄り道

綾部駅(あやべえき)からは舞鶴線(はんかくせん)に乗り換え、舞鶴(まいづる)へ向かってゆきます。

「阪鶴鉄道」は、かつて明治時代に尼崎~福知山~舞鶴を結んだ線路

舞鶴線(まいづるせん)は、鉄道唱歌の時代(明治時代)には「阪鶴線(はんかくせん)」と呼ばれていました。
大阪」と「舞鶴」を結ぶので、阪鶴線(はんかくせん)というわけです。

舞鶴線は、明治時代には正式には官設鉄道、国有鉄道)の所有物でした。先に国がこの区間(綾部~舞鶴間)を建設しており、阪鶴鉄道ももしこの区間に線路建設をやると国と競合してしまうため、この区間は建設許可が降りなかったのです。国にとってもリスクですし、客を奪い合って共倒れする危険性もありますからね。しかし、乗客にとっては「国の線路」「阪鶴鉄道の線路」と路線系統が分かれていると、乗り換えが発生するために不便になります。そのため、綾部~舞鶴の区間を阪鶴鉄道が国から借り受けて、福知山駅で南からやってくる(大阪・尼崎方面から阪鶴鉄道から北上してくる)列車との相互乗り入れを実現し、利便性を図っていたわけです。これにより大阪~舞鶴の直通運転乗り換え無し)が実現し、福知山駅で(阪鶴鉄道から国有鉄道に)乗り換えをやることの乗客の不便は解消されたわけですね。

何より、明治時代は後述するようにロシアとの戦争(日露戦争)まっただ中であり、大阪と舞鶴の軍事輸送は特に重要だったのでした。兵士食糧・武器・弾薬をいちはやく運ぶ必要があったからですね。

明治時代の阪鶴線は神崎駅(かんざきえき。現在の尼崎駅)を出てから福知山経由で舞鶴まで向かったので、現代のJR福知山線の原型でもあります。

軍港として発展してきた舞鶴 日露戦争に備えて強化された鉄道路線

阪鶴線は後述するように、明治時代にロシアとの戦い(日露戦争)に備えて造られました。

京都府舞鶴市(まいづるし)は、かつて鎮守府(ちんじゅふ)という、日本海軍にとって重要な機関が置かれた場所でした。
鎮守府」とは、広く言えば「海の守り神」という意味ですが、それが転じて日本海軍の防衛の重要拠点のことをいいます。

鎮守府は他にも、

・神奈川県横須賀市(よこすかし)→横須賀鎮守府
・広島県呉市(くれし)→呉鎮守府
・長崎県佐世保市(させぼし)→佐世保鎮守府

があります。

これらの都市は、現代も海上自衛隊アメリカ海軍の拠点になっており、東アジアの防衛の拠点となっています。

舞鶴港(京都府舞鶴市)

日露戦争はなぜ起こった?ロシアとの戦争に備え、万全の準備で勝利した日本

日露戦争が起こる少し前の時代は、「いずれロシアとの戦いとなる」のが日本としてもわかっていたため、日本海から攻めてくるロシア艦隊に対抗するため舞鶴に軍事物質を運ぶためにできたのが、先述の阪鶴線(舞鶴線)でした。

当時のロシアは、「南下政策」といって、南へ南へと領土を拡大する方針を取っていました。
その理由は、ロシアはとても寒い地域(マイナス20度くらいは当たり前)なので、港が凍ってしまい、船や軍艦も出せないからです。

日本は1904年の「日露戦争」でロシアと戦ったわけですが、最初は中国の旅順(りょじゅん)という場所の要塞を突き崩せず、これによって万単位の犠牲者を出してしまい、10年前の「日清戦争」と比べて多くの物量と犠牲者を必要とする大規模な戦争となってしまいました。
この旅順要塞をなんとか攻略するために指揮を取ったのが、乃木希典(のぎ まれすけ)という指揮官です。
乃木希典(のぎ まれすけ)は、東京の「乃木神社(のぎじんじゃ)」において神様として祀(まつ)られており、またその近辺の坂道である「乃木坂(のぎざか)」の地名、延(ひ)いてはアイドルグループ「乃木坂46」の名前の由来にもなっています。
乃木希典の奮闘により、多大な犠牲者を出しながらも旅順要塞を攻略した日本でしたが、今度はロシアの艦隊が日本海を狙ってやってきます。

ただしロシアは東西に非常に広いので、モスクワや黒海(現在はウクライナ領)から艦隊を出撃させました。
ここで本来は、ロシア側としてはユーラシア大陸とアフリカ大陸の付け根にある「スエズ運河」を艦隊が通れば近道だったのですが、このスエズ運河はイギリスの破壊行為によって妨害されてしまいます。
なぜなら、日本は少し前の1902年に、イギリスと「日英同盟」を結んでいたからです。
この日英同盟において、「どちらかの国が戦争に巻き込まれたときは、お互いに協力する」という決まりになっていました。
そのため、日露戦争が始まったときにイギリスは日本の味方をし、ロシア軍の妨害活動に出ることになりました。
スエズ運河」は、ユーラシア大陸とアフリカ大陸の接続点で最も狭く(近く)なる場所にあるため、簡単にいえばロシア側にとってスエズ運河はヨーロッパから太平洋に出るための近道です。
しかしスエズ運河はイギリスにより封鎖されてしまったため、ロシア艦隊はアフリカ大陸をはるか南へ大きく迂回しなければ、日本にたどり着けなくなってしまいました。
これによりアフリカ大陸をはるばると迂回する羽目になったロシア艦隊は、日本に着く頃には疲弊しきっており、待ち受ける日本海軍はこの間に大きく時間稼ぎができました。
時間的に余裕ができた日本海軍は、東郷平八郎(とうごう へいはちろう)の指揮の下に、充分な訓練と準備ができていました。
そして、東郷平八郎率いる日本海軍は、ロシアの「バルチック艦隊」を見事に撃破して「日本海海戦」に勝利、日露戦争は日本の勝利となりました。

日露戦争に勝利したものの、その後が大変だった日本

しかし、日本としてはイギリスの協力と作戦で、たまたま上手く勝てただけに過ぎません(もちろん東郷平八郎の手腕や、日本軍の努力や意地もあったでしょう)。
また、当時の日本の国家予算が2億円程度だったにも関わらず、その7倍以上の15億円もの軍事費用を費やしてきており、さらに多大な犠牲者も出してしまっていました。
そのため日本は、もはやこれ以上ロシアと戦うのは不可能という状況でした。
これ以上ロシアと戦争を続けたら、逆に物量の差でロシアに負け始めることは目に見えていたため、アメリカに仲裁に入ってもらい、アメリカの「ポーツマス」という場所で講和会議に持ち込みました。

その結果、ロシアとの間で「ポーツマス条約」が結ばれました。
この条約により、ロシアはサハリンの南半分にあたる南樺太(みなみからふと)を日本に割譲(かつじょう)することは認めましたが、賠償金の支払いには応じてくれませんでした。
この理由は恐らくですが、これ以上戦うと日本が逆に不利になるのはロシアもわかっていたからでしょう。
日清戦争のときは負けた清(しん)が約3億円の賠償金支払いに応じてくれ、しかもそのお金で九州の「八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)」を建てたりもできました。
しかし先ほど述べたように、日露戦争では15億円もの軍事費用を費やしており、しかも国民は増税にも耐えてきたわけです。
結局ロシアに勝っても賠償金は得られなかったため、国民の怒りは頂点に達し、東京の日比谷(ひびや)で暴動が起こり、警察も大勢出動するなど大惨事になりました(日比谷焼き討ち事件)。

日露戦争の勝利により得られた南樺太と、それに伴う鉄道路線強化・建設

一方で、先ほど「南樺太(みなみからふと)の割譲」とありましたが、この「ポーツマス条約」によってサハリン(樺太)の南半分は日本領となりました。
そして、大泊(おおどまり。現在のコルサホフ)や豊原(とよはら。現在のユジノサハリンスク)といった主要都市が日本の一部となったため、東京~稚内~大泊~豊原の鉄道ルートが明治時代の終わりから建設されるようになりました(当時は航空機が一般的でなかったため)。

そして現代の宗谷本線(そうやほんせん)にあたる天塩線(てしおせん)が稚内まで延びて、さらに稚内港から海路で連絡してサハリン(樺太)大泊港豊原駅まで至るという、一大軍事輸送鉄道ルートが建設されました。
それは当時は航空輸送はまだ主流ではなく、鉄道による貨物輸送と海路輸送が主流だったからです。
戦後、南樺太は再びロシア領になったため、「大泊(おおどまり)」と「豊原(とよはら)」の各都市はそれぞれ「コルサホフ」「ユジノサハリンスク」に改められ、サハリンの主要都市となっています。

日露戦争での勝利とおごりが、その後の日本を破滅に追い込んだ

日本は、日露戦争において「艦隊同士の戦いで勝利」したことから、日本軍には
巨大な艦隊で戦えは勝てる
という成功体験が身についてしまい、それから30年経った太平洋戦争(大東亜戦争)においてもその戦法をそのまま適用してしまう有様(ありさま)でした。
太平洋戦争の頃には「艦隊」は既にオワコンであり、艦隊に対する攻撃・防御方法は世界中で既に研究しつくされていました。
しかも、この時には既に「戦闘機」や「爆撃機」「航空母艦(空母)」が主流の時代になっていました。
しかし日露戦争で勝った「大艦巨砲主義」が忘れられない日本軍は広島県ので「戦艦大和」を造ったわけですが、大和はほとんど活躍できず、1945年4月に鹿児島沖で沈められてしまっています。

日本人は変わることが苦手というか、昔上手くいった方法を変えたがらない傾向があります。
これは軍事のみならず、現代の世の中の一般組織にも同じことがいえます。
それによって若い人の意見が反映されにくく、現代の日本が世界から大きく遅れを取っている理由でもあるのです。

舞鶴の歴史から学んだ、戦争のさまざまな歴史や教訓

今回は日露戦争関連の話題になって申し訳ないですが、舞鶴軍港の話題から皆さんが少しでも戦争について考えるきっかけとなれば幸いです。

次は、宮津湾(みやつわん)や天橋立(あまのはしだて)などの話題となります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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