山陰鉄道唱歌 第8番 道を引き返し、福知山へ 明智光秀の拠点となった街

まずは原文から!

道をかへして福知山(ふくちやま)
工兵隊(こうへいたい)も見て行かん
昔語(むかしがた)りの大江山(おおえやま)
北へ數里(すうり)の道の程(ほど)

さらに読みやすく!

道をかえして福知山(ふくちやま)
工兵隊(こうへいたい)も見て行かん
昔語(むかしがた)りの大江山(おおえやま)
北へ数里(すうり)の道の程(ほど)

さあ、歌ってみよう!

♪みーちをかえして ふくちやまー
♪こうへいたいもー みてゆかんー
♪むーかしがたりの おおえやまー
♪きーたへすうりの みちのほどー

(山陰本線)
京都駅→二条駅→嵯峨嵐山駅→亀岡駅→園部駅和知駅→綾部駅→福知山駅→上川口駅→下夜久野駅→上夜久野駅→梁瀬駅→和田山駅→養父駅→八鹿駅→江原駅→豊岡駅→玄武洞駅→城崎温泉駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

天橋立の観光を終わり、福知山へ

日本三景・天橋立(あまのはしだて)の観光を終えると、再び綾部駅(あやべえき、京都府綾部市)に戻ります。

現代の行程ならば、

天橋立駅→(京都丹後鉄道・宮福線)→宮津駅→(京都丹後鉄道・宮舞線)→西舞鶴駅→(舞鶴線)→綾部駅

になります。もちろん、単に天橋立から福知山まで移動することが目的であれば、宮津駅から「宮福線」に乗れば、西舞鶴駅と綾部駅を経由せずに、ダイレクトに福知山駅まで来ることができます。

綾部駅を出て、山陰本線を少し西へ進むと、窓の景色はだんだんと都会的な様相(ようそう)を呈(てい)してきます。
立派な城の天守を右にして、やがて福知山駅(ふくちやまえき、京都府福知山市)に到着します。

福知山城(山陰本線)
福知山駅(京都府福知山市)

福知山線との合流点・福知山駅

福知山駅(ふくちやまえき)は、福知山線(ふくちやません)との分岐点でもあります。
また、明治時代に大阪舞鶴(軍港)を結ぶための路線「阪鶴鉄道(はんかくてつどう)」も、福知山を経由していました。
1907年の「鉄道国有化」をもって、阪鶴鉄道のうち神崎(かんざき。現在の「尼崎(あまがさき)」)~福知山の区間は、「福知山線」と改められ、現在に至ります。
山陰鉄道唱歌が出来たのは明治時代後期の1911年なので、福知山~綾部~舞鶴の区間はまだ「阪鶴鉄道」と呼ばれていたものと思われます(実際にはこの区間も官設鉄道のものでしたが、阪鶴鉄道がこの区間を国からレンタルしており、東舞鶴駅(当時は新舞鶴駅)までの直通運転を行う、という形をとり、福知山駅での乗り換えの手間を省いていたようです)。

福知山線は、宝塚(たからづか)・池田(いけだ)・伊丹(いたみ)を経由して、兵庫県の尼崎(あまがさき)に至ります。

明智光秀の本拠地・福知山市

京都府福知山市(ふくちやまし)は、明智光秀(あけちみつひで)の本拠地として知られます。

明智光秀(あけち みつひで)は、言わずと知れた、織田信長を1582年の「本能寺の変」で自害に追いやった人物として知られます。生まれは岐阜県・美濃国(みののくに)であり、恵那市(えなし)より南の明知鉄道(あけちてつどう)沿線か、可児市(かにし)の明智駅(あけちえき)あたりが、諸説ありますが生誕地の候補として挙げられています。

また、明智光秀は2020年のNHKの大河ドラマ「麒麟がくる(きりんがくる)」の主人公にもなり、織田信長に負けず劣らずで一定数の人気を誇ります。

明智光秀は元々は織田信長の家臣でした。
中国地方を支配していた毛利家の警戒のため、織田信長に命じられて福知山を一帯とした丹波国(たんばのくに)の地域の支配を任されていました。
これを「丹波平定(たんばへいてい)」といいます。
丹波国(たんばのくに)とは、京都府北部のことをいいます。
ちなみに京都府南部のことは山城国(やましろのくに)といいます。

ではなぜ明智光秀が、福知山をはじめとする丹波の支配を任されたのか。
それは恐らく、もし毛利家が山陰地方を経由して京都に攻めてくる、といったケースを想定し、京都の入口の一つ手前にある丹波・福知山の防御を固める必要があったからだと思われます。

「本能寺の変」急に信長へ離反した、明智光秀

そして1582年、同じく織田信長の部下だった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が中国地方毛利家と戦っている最中でした。
その応援のために、織田信長も安土城(琵琶湖の東)を出発、1582年6月1日、京都の本能寺に入って宿泊していました。

本能寺は、これまでも織田信長の宿泊施設として利用されてきた実績がありました。

明智光秀も、6月1日の夜は京都の少し西の亀山城(現在の亀岡市)に滞在していました。

明智光秀の軍が中国地方へ向かうには、まず亀岡市を南東に進んでゆき、そこから京都市を流れる桂川(かつらがわ)まで出て来きます。
そこから、西の大阪方面へ進んでいく必要があるわけです。
実際、深夜から早朝にかけて、明智光秀の軍は桂川に着きました。

しかし、こともあろうに明智光秀はここで西へ進まず、急にこんなことを言いだしました。

「敵は、本能寺にあり!」

そう言い放つと、京都の(朝方、まだ織田信長が寝ている)本能寺に向けて、明智光秀の軍は進行方向を変えます。

1582年6月2日の早朝、本能寺はあっという間に明智光秀の軍に包囲され、激しい物音で織田信長は目を覚ましました。

織田信長 「謀反だな?誰の仕業だ!」

側近 「明智光秀の軍かと・・・」

織田信長 「是非に及ばず(仕方ない)。」

織田信長はそう言って、やむを得ず弓を引っ張り、大勢の明智軍と戦いはじめました。
しかし、いくら織田信長とはいえども、大勢の軍を前に弓だけで戦うのは無謀すぎます。
ついにその弓も使用不能となり、今度は槍を持って戦おうとします。
しかし自身が体に攻撃を受けて負傷し、織田信長は負けと最期を覚悟して、奥の部屋に閉じこもりました。
そして、側近の女性たちに
「お前達は逃げるがよい!」と言って外へ逃がしました。

織田信長が閉じ込められた本能寺は瞬く間に燃え上がり、とうとう織田信長が籠もっている奥の部屋も炎に包まれました。

織田信長は死の直前、「敦盛(あつもり)」という舞踊を炎の中で舞っていたといいます。
敦盛(あつもり)とは源平合戦で神戸・須磨(すま)の一ノ谷(いちのたに)で敗れた平敦盛(あつもり)のことであり、織田信長は「敦盛」の舞踊が大好きだったといいます。

ここに、数多くの戦いを勝ち抜けてきた戦国のスーパースター・織田信長は、明智光秀の手によって、悲劇の最期を迎えたのでした。

ほんの一瞬の栄光も束の間 秀吉に「山崎の戦い」で討たれる

その後、中国地方で戦っていた羽柴秀吉は主君・織田信長の死を知り、毛利氏と和解して、急いで京都に引き返します。

そして大阪府と京都府の間で起こった「山崎の戦い」において、秀吉は明智光秀を倒しました。
ここに、明智光秀もその最期を迎えることとなったのでした。

これは私が親から伺った話ですが、以前テレビに明智光秀の末裔(まつえい)の方と、織田信長の末裔の方が出演して対面し、明智さんが織田さんに対して「すみません・・・」と仰っていたそうでした(^^;)

かつて軍隊のインフラを支えた「工兵隊」

工兵隊」とは、軍隊の様々なインフラを造る部署です。
いわゆる、自衛隊でいうところの施設科(しせつか)にあたります。
つまり、戦場で「」を造ったり、簡単な基地住居などを造ったりする部門です。

自衛隊は、戦場において最早(もはや)味方の補給が望めない状態に陥ったときにでも生存できるよう、サバイバルみたいな訓練を受けています。
つまり、食べられそうな野草を探して調理したり、橋をかけたり、寝るための住居を建ててりする知識や技術を持っているのです。

こうした自衛隊のノウハウが、震災などの災害支援に役立っているのです。

福知山の北にそびえる「大江山」

大江山(おおえやま)とは、福知山の北にある標高832mの山であり、歌詞にある通り北へ約10kmほど離れた場所にあります。ちなみに「一里=約4km」です。

福知山市街地のはるか北にそびえる大江山

大江山には、なんでも鬼の伝説があります。
その鬼とは、酒呑童子(しゅてんどうじ)と言われ、酒が大好きな(けど怖い)鬼といわれます。

大江山(写真奥)(京都丹後鉄道の車窓より)
京都丹後鉄道・大江駅(京都府福知山市大江町)

次は、和田山(わだやま)・養父(やぶ)・豊岡(とよおか)方面へ向かってゆきます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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