山陰鉄道唱歌 第13番 右の窓にくる、日本海の眺め 岩に波打つ凄まじさ

まずは原文から!

汽車の窓より眺(なが)めやる
日本海(にっぽんかい)の沿岸は
巌(いわお)こゝ゛しく峙(そばだ)ちて
白浪(しらなみ)よする勇(いさ)ましさ

さらに読みやすく!

汽車の窓より眺(なが)めやる
日本海(にっぽんかい)の沿岸は
厳(いわお)こごしく峙(そばだ)ちて
白浪(しらなみ)よする勇(いさ)ましさ

さあ、歌ってみよう!

♪きしゃのまどより ながめやるー
♪にっぽんかいのー えんがんはー
♪いーわおこごしく そばだちてー
♪しらなみよするー いさましさー

(山陰本線)
城崎温泉駅→香住駅→餘部駅→浜坂駅→居組駅→岩美駅→鳥取駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

餘部駅(あまるべえき、兵庫県)を出ると、再び山のトンネルをくぐります。
トンネルを出ると、ここからの山陰線の旅は、日本海を窓の右にして走る機会が多くなります。

(いわお)」とは、「大きな岩」のことです。

こごしく」とは、「険しく」という意味です

そばだつ」とは、「立ちならぶ」という意味です。

日本海は、江戸時代には「西廻り航路」として栄えてきた歴史があります。

西廻り航路」は、現在の秋田県酒田市(さかたし)にある酒田港(さかたこう)を船で出発して、新潟・北陸の沖をずっと西へ進み、山口県下関市関門海峡(かんもんかいきょう)に着きます。
そして関門海峡から瀬戸内海に入り、天下の台所・大坂(おおさか)へ至るという、一大海上ルートです。
主に「」などの荷物が運ばれました。
米は「年貢」といって当時の「税金」であり、また「貨幣」の代わりでもありました。

西廻り航路は、河村瑞賢(かわむら ずいけん)という人物によって整備されました。

なぜ「西廻り航路」のような船の(海上)ルートが普及したのかというと、当時はまだ貨物列車などの鉄道が無かったからです。
昔は、舟にたくさんの荷物を載せて運んだ方が、効率がよかったのです。

明治時代になって鉄道がメインになると貨物列車が主流になり、西廻り航路のような海上ルートや、それに伴う港町は衰退していくことになります

高度経済成長期になって自動車道路・航空機が普及していくと、今度は高速トラック航空輸送などがメインとなり、鉄道による貨物輸送も衰退していくことになります。そのため、多くの鉄道路線が廃止となってゆきました。
しかし現在では、地球にやさしい貨物列車での輸送が再評価され、見直されつつあります。

次は、浜坂(はまさか)・居組(いぐみ)に到着します!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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