今回の房総半島の旅は、あの鎌倉幕府を開いた源頼朝ゆかりの場所である安房勝山駅について、その旅を楽しむポイントをわかりやすく解説してゆきます!
(内房線)
蘇我駅→八幡宿駅→五井駅→姉ヶ崎駅→袖ケ浦駅→木更津駅→君津駅→大貫駅→上総湊駅→浜金谷駅→安房勝山駅→富浦駅→那古船形駅→館山駅→千歳駅→安房鴨川駅
※上記は全ての駅ではなく、スペースの都合上筆者が独断でピックアップしたもの
源頼朝・房総半島上陸の地、安房勝山へ
浜金谷駅(はまかなやえき、千葉県富津市金谷)を出てさらに南へ進めると、安房勝山駅(あわかつやまえき、千葉県安房郡鋸南町)に到着します。
今回は、源頼朝(よりとも)にゆかりあるこの地の話をしてゆきます。
安房勝山駅は、鋸南町(きょなんまち)の駅になります。
鋸南町(きょなんまち)とは、前回少し解説した鋸山(のこぎりやま)の南にある町だから、という意味からだと思われます。
安房国(あわのくに)とは、現在の千葉県南部の地域ことをいいます。
そのため、千葉県南部には安房(あわ)~という地名が多くなります。
源頼朝は、なぜ房総半島へやってきたのか
安房勝山の地は、いわゆる源頼朝が海を渡って房総半島へ上陸してきた場所になります。
そのエピソードは、平安時代に遡(さかのぼ)ります。
平安時代末期になると、この頃には武士が
「本当は貴族の連中よりも、俺たちの方が強いんじゃね?」
と思い始めてきました。
元々武士は、朝廷や貴族からいいように使われているボディーガードのようなものでした。もちろん武士には、荘園(当時一般的だった、巨大な農園のようなもの)を守るためのボディーガードとしての役割もありました。
例えば、当時の奥州(おうしゅう。東北地方)では、朝廷に従わない蝦夷(えみし)という部族が、東北地方でやりたい放題やっていました。これは朝廷にとっては脅威なので、そんな奥州に11世紀半ばごろに派遣された源頼義(みなもとのよりよし)や、その息子の源義家(よしいえ)などが有名です。源義家は「八幡太郎(はちまんたろう)」とも呼ばれます。詳しくは以下の記事をご覧ください。
鉄道唱歌 奥州・磐城編 第51番 勿来の関に到達 八幡太郎(源義家)ゆかりの地
いずれも「源氏」であり、後に頼朝の世代になって頭角を現してくるのです。
しかし12世紀の中頃(平安時代の終わり)になると、貴族の皆さんが貴族同士で醜い政権争いなどを行うようになり、まともな政治ができる状態ではなくなります。
すると、朝廷の政治は弱体化してゆき、今度は武士達が徐々に力を付けはじめてきます。
「貴族は身分が高いだけで、決して能力が高いわけではない。こんな人達に日本は任せておけない」
と言わんばかりに、武士は力を付けはじめ、政治に対しても大きな影響力を持つようになります。
その代表格が、平清盛(たいらのきよもり)をはじめとする平氏(へいし)一族です。
1160年に起きた、平氏と源氏の戦いである「平治の乱(へいじのらん)」において、源氏は平氏に敗北します。
平氏にフルボッコに負けた源氏は、酷い刑罰を受けることになります。
まず、源頼朝の父である源義朝(よしとも)は、京都から鎌倉(神奈川県)へ逃げる途中、愛知県・知多半島(ちたはんとう)の地で滅ぼされてしまいました。
伊豆に流罪となった、若かりし日の頼朝
そして息子の頼朝は殺されこそしなかったものの、伊豆に流罪(るざい)となってしまいました。
正確には、現在の静岡県伊豆の国市(いずのくにし)にあたる蛭ヶ小島(ひるがこじま)という場所に流罪となってしまったのです。
しかし頼朝はそこで、後の妻となる北条政子(ほうじょう まさこ)と出会い、約20年間は伊豆で暮らしていました。
ただしこの蛭ヶ小島は、とても広くて長閑(のどか)な場所であり、また富士山もとても綺麗によく見えるという、流罪の場所にしては決して悪くはない場所です。また、北条氏の拠点もあった場所です。
蛭ヶ小島へは、伊豆箱根鉄道・駿豆線(すんずせん)の、韮山駅(にらやまえき、静岡県伊豆の国市)が最寄駅です。
この地域(韮山・伊豆の国市)あたりを走る伊豆箱根鉄道・駿豆線は、こうした富士山のよく見える景色を進んでゆきますよね。
繰り返しになりますが、蛭ヶ小島は現在では観光地としても景色・気候ともによい場所です。
つまりこの20年間は、頼朝にとっては決して悪くない期間だったのかもしれません。
頼朝はこの20年もの期間、うかつに動こうとせず、ずっと平氏打倒のためのチャンスを狙っていたのでした。
以仁王の挙兵 石橋山の戦いで敗れ、真鶴から船出
そしてその20年後、1180年に以仁王(もちひとおう)の呼び掛け(「全国の源氏よ、今こそ平氏を倒せ!」というもの)が行われ、これに応じた源氏一同は、平氏打倒のために挙兵することになりました。もちろん、頼朝も立ち上がります。
しかしそのすぐ後、神奈川県の伊豆に近い場所で行われた「石橋山の戦い」で破れてしまいました。
その戦いの行われた真鶴(まなづる)と湯河原(ゆがわら)の地には、頼朝が隠れたという「ししどの窟(いわや)」があります。真鶴町では港近くに、湯河原町では山側にあります。
その後頼朝は、真鶴(まなづる。現在の神奈川県足柄下郡真鶴町)から房総半島へ向けて船出したのでした。
相模湾・東京湾を渡り、やがて房総半島のこの地(安房勝山)に上陸したということになります。
房総半島・安房勝山へ上陸 その後の頼朝
房総半島に上陸した頼朝は、房総半島の平氏に不満を持つ武士たちを次々に味方につけてゆき、巨大な軍団となってゆきました。
それもあってか、房総半島には頼朝にゆかりある地名がいくつかあります。
例えば、九十九里浜(くじゅうくりはま)は、頼朝が99の矢を置いたという伝説に由来します。
また、幕張(まくはり)は、その地で頼朝が馬を乗り換えた(馬を加えた、とも表現できる)という伝説があることから、「馬加(まくわり)」という地名になり、それが時代とともに「幕張(まくはり)」に変わりました(ただし、この伝説は確定のものではなく、諸説あり)。
その後の頼朝率いる源氏グループは、静岡県での「富士川の戦い」、兵庫県での「一ノ谷の戦い」などで次々に勝利し、最後には1185年に北九州・関門海峡(かんもんかいきょう)で行われた「壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)」で平氏を滅ぼしました。
そして1192年、頼朝は征夷大将軍(せいいだいしょうぐん)に任命され、鎌倉幕府を開いたのでした。
現代の交通はとても便利になった
現代では、頼朝公のように海を渡らなくとも、
前回・前々回紹介した「東京湾アクアライン」や「東京湾フェリー」などで渡ることができます。
大昔の人は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)や源頼朝のように、はるばると海を渡って房総半島へ来ていたのです。
現代では、道路・フェリー・鉄道などで来ることができますから、交通の技術の発展と文明の進歩は素晴らしいものだと実感させられますね。
次は、館山(たてやま)に止まります!
おまけ:筆者の写真
注意
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