房総半島一周の旅を、わかりやすく解説してゆきます!
館山市出身の偉大なハンド・X JAPANの歴史などを、やさしく解説してゆきます!
今回は、館山市出身のX JAPANの話題
今回の「房総半島の旅」シリーズは、館山市出身の偉大なミュージシャンであるYOSHIKIさんとToshIさんが中心となって結成された、日本の偉大なバンドである、X JAPANの歴史についての話題になります!
蘇我駅→八幡宿駅→五井駅→姉ヶ崎駅→袖ケ浦駅→木更津駅→君津駅→大貫駅→上総湊駅→浜金谷駅→安房勝山駅→富浦駅→那古船形駅→館山駅→千歳駅→安房鴨川駅
※上記は全ての駅ではなく、スペースの都合上筆者が独断でピックアップしたもの
館山市出身の偉大なバンド、X JAPAN
列車は既に千葉県館山市に到着しています。
館山市は前回も解説した通り、X JAPANのYOSHIKIさんとToshIさんの出身地となります。
また、館山駅の発車メロディーには、X JAPANの代表曲「Forever Love」が使用されています。
X JAPANは、私(筆者)も大好きなバンドです。
人生で邦楽・洋楽・ジャンル問わずトータル5,000枚(注:誇張表現)ほどのアルバムを聴いてきたほどの音楽マニアである私が、一番聴いたアルバムはXの「BLUE BLOOD」になります。
「ヴィジュアル系」というジャンルを日本に根付かせたX JAPAN
X JAPAN(X)は、1980年代~1990年代の日本のロックシーンや音楽の歴史を、根本から変えたバンドになります。
特に「ヴィジュアル系(V系)」というジャンルを日本の音楽シーンに定着させ、V系でもミリオン(100万枚売れる)やチャート1位を達成できるようなジャンルにのし上げました。
初めは異端児扱いされたいたヴィジュアル系
V系は派手な化粧・メイク・衣装・金髪(場合によっては赤・青・紺色など)で逆立った髪などの奇抜なファッションが特徴です。
しかし、X JAPAN(X)が出てくるまでの日本の音楽シーンでは、V系という言葉すら無かったのでした。
むしろ、こうした派手なお化粧バンドは異端児扱い(むしろゴミ同然のような扱い)されていたほどであり、テレビすら出してもらえないという悲惨な状況でした。
X JAPAN(X)はそんな1980年代の閉塞的な音楽シーンにあって、そんな常識を(嫌われたり批判されながらも)覆す革命を起こしたのでした。
館山市で、YOSHIKIさんとToshIさんを中心にX結成
はじめは「X」というバンド名だった
X JAPANは、
- 中心メンバーのYOSHIKI
さん(リーダーでドラムとピアノ担当) - ToshIさん(ボーカル担当)
の2人が高校生だった1982年に館山市で結成されたときは、まだ「X」というバンド名でした。
1992年にアメリカ進出したとき、ロサンゼルスに同名のバンドがいたために、「X JAPAN」に改名したのです。
そして、現在に至ります。
不良少年(けど成績優秀)のYOSHIKIさん、スポーツマンのToshIさん
Xを結成した高校時代のYOSHIKIさんは、元々の頭の良さもあり、成績優秀(特に数学が得意)だったわけです。
今でもYOSHIKIさんは英語も出来ますし(アメリカ在住)、法律の勉強もしたりしていますから、今でも頭がいいことが伺えます。
しかし、その一方で頭がリーゼントの不良少年だったりして、「問題児なのに成績優秀なので退学させられない」など、かなり教員を悩ませていたようです。
一方のToshIさんはスポーツマンであり、かなり真面目な性格で、YOSHIKIさんとは180度性格が異なっている、いわゆる「普通の人」でした。
そして文化祭のときは坊主頭でステージに立つなど、かなりYOSHIKIさんとは性格が異なっていたようでした。
状況後、波乱万丈なインディーズ時代
その後上京して、二人はインディーズバンド(つまり、自費で活動するアマチュアバンド)として活動していくことになったわけです。
ライブハウス(お客さんが数百人程度入るスペースのお店)に出る費用(1バンドにつき約3万円~5万円程度)も最初は自費・自腹だったようです。
しかし、派手なパフォーマンスもあってかすぐに人気が出て客が来るようになったのでした。
そのため、先述のライブハウス費用を回収でき、利益が出るようになっていきました。
「やりたい放題」数々の伝説
インディーズ時代のXは、もはややりたい放題の、問題児バンドでした。
派手なメイクや衣装はもちろん、
- ライブハウスでは火を付ける
- 楽器を投げて破壊する
- 客と喧嘩する
- 打ち上げを行った数々の店で、喧嘩・器物損壊などを行い、出入り禁止になる
となるなど、とにかく滅茶苦茶でやりたい放題・怖いもの無しの状態となっていました。
また、ライブのツアーに出て、たとえどれだけ儲かったとしても、
- 打ち上げの店で暴れてモノを壊して、ライブの売上がみんな修理代に消えてしまう
- 泊まる場所が無くなってしまい、野宿を余儀なくされる
など、メチャクチャ過ぎるインディーズ時代を送ったわけです。
しかし、そんな派手すぎるパフォーマンスと過激な曲、YOSHIKIさんの激しいドラミング等がかえって話題となり、一気にアンダーグラウンドでは有名かつ人気なバンドとなりました。
厳しすぎる練習 次々に辞めていくメンバー
その一方で、Xは1日に10数時間も練習するため、メンバーが耐えられなくなってしまいどんどん辞めていったのでした。
また、メンバーが抜ける度に再びメンバーを集める、というメンバーチェンジを繰り返していたのでした。
そのため、常にメンバーは流動的であり、安定しませんでした。
これだと、曲を作ったり練習したりするよりも、メンバー探しや育成などに時間を取られてしまうため、どう考えても負担増・コスト増です。
いざ重要なライブ出演のオファーが来たとしても、メンバーがいないため出演できず、みすみすチャンスを逃してしまうことにも繋がりかねません。
こうなると、必然的にYOSHIKIさんは疲れてしまいます。
YOSHIKIさんが挫折しそうになるときもあり、ToshIさんが常に彼を励ましました。
hideさんとの出会い、Xの活動が本格化
そんな中、横須賀(神奈川県横須賀市)で活動していたギターのhideさんが、自身の命懸けでやってきたバンドが解散してしまったのでした。
そのため、音楽に対するやる気を失ってしまい、次は美容師になろうと決意していたのでした。
そこを、YOSHIKIさんの猛烈な説得を受けて、Xに加入したのでした。
また
- もう一人のギタリストであるPATAさん
- ベーシストのTaijiさん
も、安定したメンバーとして加入することになり、Xの活動はより本格的なものとなりました。
1989年、アルバム「BLUE BLOOD」でメジャーデビュー
先述のように、これだけアンダーグラウンド界で話題になっていたXは、メジャーレーベル(プロのレコード会社)のスカウトの目に止まることになりました。
そして、1989年にアルバム「BLUE BLOOD」でメジャーデビュー(プロデビュー)を果たします。
「BLUE BLOOD」は、当時のロックバンドとしては異例の60万枚(※100万枚と書かれることもあり)という、驚異的な売り上げを記録しました。
こうして、全国のテレビの前のお茶の間(一般家庭)では、
- 見たこともないような派手なメイク・衣装
- 見たこともないような派手なライブパフォーマンス
- 聴いたこともないような激しい音楽・美しいバラードの音楽
にとても衝撃を受け、Xの人気は全国規模で、爆発的に増大してゆきました。
それまでのライブハウスでは、もはやお客さんが入りきらなくなったため、
- コンサートホール→日本武道館→東京ドーム
と、ライブ規模がどんどん大きくなってゆきました。
完璧主義や持病など、苦悩のレコーディング(録音作業)
しかしデビュー後も、色々と問題が起こることになりました。
2枚目のアルバム「Jealousy」の録音・制作中に、YOSHIKIさんは録音・演奏の(気に入らない箇所の)やり直しをいつまでも要求したのでした。
そのため、アルバムはなかなかいつまでも完成しなくなっていました。
こうしてアルバムの発売が遅れていくことで、レコード会社は大きく困ってしまいました。
それは、プロ(メジャー)のレコード会社は、アーティストのCDの売り上げによる利益から、社員を養うための給料を払う必要もあったからですね。
また、他にもトラブルは存在し、
- YOSHIKIさんの持病
- ToshIさんの声のトラブル(歌い過ぎによる酷使)・英語の歌詞を、ネイティブのようにうまく発音できない
など、アルバムがなかなか完成しなかった要因は他にもたくさんあります。
YOSHIKIさんは、元々体があまり丈夫ではありませんでした。
しかし、それにも関わらず、いつ倒れてもおかしくないような激しいドラムの叩き方をしていたため、しばしばライブの途中で倒れたりしていました。
また、ToshIさんも、完璧主義のYOSHIKIさんから度重なるボーカル録音を要求され、歌い過ぎて喉を酷使し、声が出なくなるほどの苦境に陥ったりしていました。
また、ボーカル録りに相当苦労して、何度もやり直しが発生した結果、なかなか作業が進まなかったといいます。
レコード会社との関係悪化、契約解除に
結局、YOSHIKIさんの思うような形(完全な形)ではない出来のままで、半ば無理やりアルバム(約10曲入りのCD)が1991年にリリース(発表)されたのでした。
しかし、このアルバム「Jealousy」は、ぶっちぎりの1位を記録し、Xの人気はこのとき絶頂期に達しました。
しかし、上記のようなYOSHIKIさんの完璧主義についていけなくなったレコード会社は、ついにXに対して契約解除を言い渡したのでした。
そのためXは、仕方なく、新たなレコード会社と契約することとなってしまいました。
アメリカ進出、バンド名を「X JAPAN」に変更
これに伴い、Xは新たにアメリカに拠点を写し、進出することになります。
ここで、アメリカにXという同名のバンドがいたため、冒頭にも述べた通りバンド名を、「X JAPAN」に改名したのでした。
またこの時、ベーシストであった(2011年に亡くなられた)Taijiさんが、YOSHIKIさんとの衝突・トラブル等から脱退を余儀なくされたのでした。
代わりに、(2023年に亡くなられた)heath(ヒース)さんが新しいベーシストとして加入しました。
長期のレコーディング、苦しむメンバー
一年に1枚しか新曲を出せず
こうしてアメリカで再始動をはじめたX JAPANでしたが、後述するようにこの頃のX JAPANはレコーディング(つまり、今度発売するための楽曲の、CDへの録音作業)があまりにも遅れてしまっていたのでした。
それもあり、
- 1年につき、わずか1枚のシングル曲しか出せない
という、深刻な状況に陥ってしまいました(ただし、それぞれのシングルはみんな大ヒットしています)。
ToshIさんの英語発音問題「ネイティブと同じ発音など無理」
まず、ToshIさんの(英語の歌詞を歌う)ボーカル録りが難航してしまいます。
X JAPANの世界デビューにあたり、歌はみな英語で歌う必要があったのでした。
このこともあり、リーダーのYOSHIKIさんは、あくまでネイティブな英語の発音の歌にこだわりました。
しかし、ToshIさんの英語でのボーカルは、ネイティブからすると発音が違和感だらけで、アメリカ人が何を歌っているのか聴き取れなかったといいます。
このように、当時のToshIさんはYOSHIKIさんからの度重なる要求をされていたのでした。
それは、ただでさえ難しいX JAPANの曲を、ネイティブと遜色(そんしょく)ない発音・レベルで歌え、というものでした。
これに応えられなかったToshIさんは、かなり苦しんだといいます。
YOSHIKIさんの、終わりの来ない長時間の編集作業
また、仮に曲が出来上がっていても、完璧主義のYOSHIKIさんは、ボーカルや演奏などの細かいミスが気になったりして、後で何度もパソコンでの編集(修正)作業に追われてしまっていました。
そして、それがあまりにも長い時間(長期間)に渡って続いてしまいます。
YOSHIKIさんは強迫性障害(?)もあるのかもしれませんが、このことからかなりYOSHIKIさんの完璧主義と細かいミスに敏感な性格がわかります。
このYOSHIKIさんの性格は、音楽家のショパンやベートーベンとも共通しています。
YOSHIKIさんが尊敬するベートーベンも、1日に手を何度も洗ったりするなどといった、潔癖症・強迫性障害っぽい性分がありました。
長期間の苦しい作業から生み出された、名曲の数々
YOSHIKIさん自身も、この長期間の編集作業は、大変苦しかったとされています。
しかし、そのYOSHIKIさんの苦心の末に完璧に出来上がった曲を聴いたメンバー(ToshIさんやhideさんら)は、その完成度ぶりにとても驚いたといいます。
こうして、X JAPANの永遠の名曲が産み出されたわけですね。
ソロ活動に没頭する他メンバー 全員なかなか揃えず
しかし、このようにYOSHIKIさんとToshIさんが(長期間の編集作業や、英語でのボーカル録音などで)苦しんでいる間、他の3人のメンバー(hideさん、もう一人のギタリストのPATAさん、heathさん)は、必然的にやることが無くなり、空き時間となってしまいます。
また、YOSHIKIさんがあまりに長い編集作業に打ち込んでいる間、ToshIさんも必然的に時間が空いてしまいます。
そのため、他のメンバーはこの空き時間を利用して、ソロ活動に打ち込むようになりました。
しかし、メンバーのソロ活動が人気が出だして、活発になってくると、コンサートツアーやレコーディング作業等で忙しくなってくるようになったのでした。
すると、YOSHIKIさんがいざX JAPANで何かをやろうと思い立っても、メンバーとのスケジュールが会わず、メンバーが揃わずに何も出来なくなってしまいました。
これにYOSHIKIさんは不信感を募らせ、「なぜもっとソロ活動を抑制しないのか」などと、メンバーに苦言を漏らすようになります。
そうしているうちにも、次に出すはずのアルバム「DAHLIA」のレコーディング(録音)・作成・編集はどんどん遅れていくようになりました。
5年もの時を経て、ようやく新アルバム発売
1996年11月にようやく、前作「Jealousy」以来5年ぶりとなるアルバム「DAHLIA」が完成し、当たり前のように1位を獲得しました。
X JAPANの人気はもはや絶頂であり、国民なら誰もが知るようなアーティストにまでなっていました。
ToshIさんの脱退、1997年X JAPAN解散
そんな人気絶頂のなか、1997年にボーカリストのToshIさんが脱退してしまいます。
それはToshIさんが、約4年前から怪しい自己啓発団体(ここでは中立的な観点から、団体の名誉を汚す意図は無いため、団体の名前は伏せておきます)に洗脳されてしまい、団体の主催者からX JAPANのボーカリストとしての過去を全部否定するような教えを(半ば暴力的に)刷り込まれてしまったからです(※後述するToshIさんの著書より)。
ToshIさんを洗脳したヤバい団体については、ここでは触れないようにしておきます。
「ToshI 洗脳」などで検索すると、たくさん情報が出てきます。また、後述するToshIさんの著書にも詳しく書かれていますので、興味ある方は(心して)ご覧ください。
また、ToshIさんの著書「洗脳~地獄の12年からの生還」という本では、マインドコントロールというものがいかに恐ろしいものなのかが、とても生々しく書かれています。
また、この著書によると、X JAPANや自身のソロ活動などで稼いだToshIさんの利益が、団体に対して10億円以上も流されてしまった、ということです。
結構ショッキングな内容が書かれているため、もし興味ある方は、心して読んでみてください。
ToshIさんの脱退を、当初ギタリストのhideさんは、必死に止めようと説得し続けました。
しかし、洗脳の闇が深かったのか、ToshIさんの意向は1ミリも変わらず、結局脱退の撤回は叶いませんでした。
高く美しく特徴的な声で歌うボーカルのToshIさんが脱退した以上、
- 「X JAPANの曲はToshIさん無しにはもはや成り立たない」
- 「ToshIさんに代わるX JAPANに相応しいボーカリストは存在しない」
という結論に達したことで、1997年をもってバンドは解散に追い込まれました(9月に解散発表、12月にラストライブ)。
hideさんの死、そして2000年代の元メンバー
その翌年の1998年5月、ギタリストのhideさんが死亡してしまいます。
当初は「自殺」と報道され、YOSHIKIさんが涙を流しニュースで何度も報道されたりする等して、世間を騒がせました。
hideさんはX JAPANが解散したのが相当ショックだったのか、まるでそれを吹き飛ばすかのように、解散後は即座にソロ活動を開始させていました。
しかも、かなり勢い付いており、人気もあったので、この時hideさんが死ぬとは、誰も思ってはいなかったことでしょう。
ただ当時のhideさんは、朝まで居酒屋をハシゴ(複数の居酒屋を飲み歩くこと)する、というような生活を繰り返していました。
やはり心のどこかでは、これまで命を懸けて活動してきたX JAPANの解散というものが、hideさんにとっては人生で最も大きな喪失体験となったのかもしれません。
そしてある朝方、
- 酔っ払って自宅に帰ってきたところを、
- (恐らくですが)マッサージのためにドアノブにタオルをひっかけ、
- タオルを首に巻いている途中で意識不明となり、
- 呼吸困難となって、死亡してしまった
のです。
過去の自身を責め続けたYOSHIKIさん
YOSHIKIさんも、hideさんの死が到底受け入れられることができませんでした。
また、先述のToshIさんの「洗脳報道」も受けたことで、X JAPAN解散後はとにかく苦しみ続けたのでした。
当時のYOSHIKIさんのインタビューでは、過去の自分の(hideさんやToshIさんに対する)行いを攻め続けるような発言を繰り返したりしていたのでした。
また、2000年代は自身のソロプロジェクトが滞り、いつまでもデビューできないなど、この時期はX JAPANにとってはマイナスなニュースが相次ぎました。
天皇陛下の前で演奏、自民党のCMソングにも起用
しかし、
- YOSHIKIさんが1999年に、天皇陛下(当時)の前で、華麗なピアノ演奏を披露
- 小泉純一郎首相(当時)によって、「Forever Love」が自民党のCMソングに起用される
などといった、明るい(とても名誉な)ニュースも生まれたりしました。
また、ヨーロッパ等海外の多くのバンドがX JAPANの曲をカバーする(例えば、Dragonlandというバンドが、日本語で歌った「Rusty Nail」など)など、明るい話題もありました。
つまり、バンド解散後の2000年代も、X JAPANの人気は日本国内ならず、世界的にも増え続けていたのです。
2007年、10年ぶりに再結成
そんな中、2007年にX JAPANは10年ぶりに再結成します。
しかも再結成のきっかけは、脱退したToshIさんから、YOSHIKIさんに再結成の話題をもちかけたことでした(YOSHIKIさんは、最初ToshIさんを信じられなかったようです)。
この時はまだ、ToshIさんは例の団体からの洗脳が解けていたわけではありませんでした。
つまり、ToshIさんはこの時点でまだ例の団体から利用されており、先述の通り(ToshIさんの著書によると)ToshIさんがX JAPANや自身のソロコンサートで稼いだお金が、なんと12年間で10億円以上も団体に渡っていたといいます。
しかし度重なる矛盾から、ToshIさんは団体と主催者に対して疑問を持ちはじめ、2010年にToshIさんはついに団体と主催者との決別を表明し、洗脳もようやく解けて「完全復活」となった形となりました。
この時、私を含めた多くのX JAPANのファンがToshIさんに対して「お帰りなさい!」という気分になったと思います。
その少し前の2009年には、LUNA SEA(ルナシー)のギタリストのSUGIZOさんが正式メンバーとして加入しています。
2011年に、1991年に脱退したベーシストだったTaiji(沢田泰司)さんが亡くなられました。
泰司さんは、Xを脱退した後はLOUDNESS(ラウドネス)という1980年代のロックシーンを席巻したバンドでプレイしました。
しかし、その後レコード会社との契約が切れたり、妻から離婚を突き付けられたり、精神的に荒れたり、仕事を無くしたりして、1990年代後半には上野公園で放浪生活を送るなど、かなり苦労されていました。
また、Taijiさんに代わって加入したベーシストのheathさんも2023年に残念ながら亡くなられてしまいました。
さらにここ近年では、
- 2018年以降、X JAPANとしての活動を行っていないこと
- YOSHIKIさんの度重なる手術、体調面での不安
- YOSHIKIさんとToshIさんの関係
など、色々と心配になることも囁かれていたりします。
個人的には、YOSHIKIさんの体調面が心配ではあります。
どうかご自愛いただければと思います。
現在も多くの人に愛され続けるX JAPAN
現在はメンバーも皆もはや60歳に近い年齢ですが、未だに若々しく、美しいビジュアルを保っています。
また、X JAPANの人生は本当に波乱万丈(はらんばんじょう)で、トラブル続きの人生だったと思います。
そうした苦しみや困難を乗り越え、
- 「紅」
- 「Forever Love」
- 「Rusty Nail」
などに代表される数々の名曲があるわけです。
YOSHIKIさんの作る曲はどれも美しくて激しく、YOSHIKIさんのピアノはとても美しい。
派手にブッ叩きまくるドラムも見ていて全く飽きません。
ToshIさんのボーカルは本当に美しく、やはりX JAPANのボーカルはToshIさんあってのものです。
X JAPANの存在と音楽は、これからも多くの人によって永遠に語り継がれるでしょう。
館山市の北条海岸
館山市には、YOSHIKIさんが高校時代に悲しいことがあった時によく訪れていたという北条海岸があります。
館山駅から近いので、途中下車の際には是非とも寄ってみましょう。

北条海岸(千葉県館山市)
次回は、安房鴨川方面の話題へ
次回は、館山駅を出発して、安房鴨川駅方面へ向かってゆきます!
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