房総半島一周の旅10 館山出身の偉大なバンド・X JAPANの歴史をわかりやすく解説!

今回は、館山市出身の偉大なミュージシャンであるYOSHIKIさんとToshIさんが中心となって結成された、日本の偉大なバンドであるX JAPAN歴史について、鉄道ファンにもわかりやすく解説します

(内房線)
蘇我駅→八幡宿駅→五井駅→姉ヶ崎駅→袖ケ浦駅→木更津駅→君津駅→大貫駅→上総湊駅→浜金谷駅→安房勝山駅→富浦駅→那古船形駅→館山駅→千歳駅→安房鴨川駅

※上記は全ての駅ではなく、スペースの都合上筆者が独断でピックアップしたもの

列車は既に千葉県館山市(たてやまし)に到着しています。

館山市は前回も解説した通りX JAPANYOSHIKIさんとToshIさんの出身地であり、また館山駅の発車メロディーにはX JAPANの代表曲「Forever Love」が使用されています。

X JAPANは私(筆者)も大好きなバンドであり、人生で邦楽・洋楽・ジャンル問わずトータル5,000枚(注:誇張表現)ほどのアルバムを聴いてきたほどの音楽マニアである私が、一番聴いたアルバムはXの「BLUE BLOOD」になります。

X JAPAN(X)は、1980年代~1990年代の日本のロックシーンや音楽の歴史を、根本から変えたバンドになります。
特に「ヴィジュアル系(V系)」というジャンルを日本の音楽シーンに定着させ、V系でもミリオン(100万枚売れる)やチャート1位を達成できるようなジャンルにのし上げました
V系は派手な化粧・メイク・衣装・金髪(場合によっては赤・青・紺色など)で逆立った髪などの奇抜なファッションが特徴ですが、X JAPAN(X)が出てくるまでの日本の音楽シーンではV系という言葉すらなく、むしろこうした派手なお化粧バンドは異端児扱い(むしろゴミのような扱い)されており、テレビすら出してもらえないという悲惨な状況でした。X JAPAN(X)はそんな1980年代の閉塞的な音楽シーンにあって、そんな常識を(嫌われたり批判されながらも)覆す革命を起こしたのでした

X JAPANは、中心メンバーのYOSHIKIさん(リーダードラムピアノ担当)とToshIさん(ボーカル担当)が高校生だった1982年に館山市で結成されたときは、まだ「X」というバンド名でした
1992年にアメリカ進出したとき、ロサンゼルスに同名のバンドがいたために、「X JAPAN」に改名したのです。そして現在に至ります。

Xを結成した高校時代のYOSHIKIさんは成績優秀(特に数学が得意)だったわけですが、一方で頭がリーゼントの不良少年だったりして、「問題児なのに成績優秀なので退学させられない」など、かなり教員を悩ませていたようです
一方のToshIさんはスポーツマンであり、文化祭のときは坊主頭でステージに立つなど、かなりYOSHIKIさんとは性格が異なっていたようでした

その後上京して、二人はインディーズバンド(つまり、自費で活動するアマチュアバンド)として活動していくことになったわけです。
ライブハウス(お客さんが数百人程度入るスペースのお店)に出る費用(1バンドにつき約3万円~5万円程度)も最初は自費・自腹でしたが、派手なパフォーマンスもあってかすぐに人気が出て客が来るようになったため、先述のライブハウス費用を回収でき、利益が出るようになっていきました

派手なメイクや衣装はもちろん、ライブハウスでは火を付けたり楽器を投げて破壊したり、客と喧嘩したり、打ち上げを行った数々の店で喧嘩・器物損壊などを行い出入り禁止となるなど、とにかく滅茶苦茶でやりたい放題怖いもの無しの状態となっていました。また、ライブのツアーに出てどれだけ儲かっても、打ち上げの店で暴れてモノを壊して修理代に消えてしまい、泊まる場所が無くなって野宿を余儀なくされるなど、メチャクチャ過ぎるインディーズ時代を送ったわけです。しかし、そんな派手すぎるパフォーマンスと過激な曲、YOSHIKIさんの激しいドラミング等がかえって話題となり、一気にアンダーグラウンドでは有名かつ人気なバンドとなりました。

その一方で1日に10数時間も練習するため、メンバーが耐えられなくなってしまいどんどん辞めていき、また再びメンバーを集めてというメンバーチェンジを繰り返したため、常にメンバーは安定しませんでした。これにYOSHIKIさんが挫折しそうになるときもあり、ToshIさんが常に彼を励ましました。
そんな中、横須賀(神奈川県横須賀市)で活動していたギターのhideさんが、自身の命懸けでやってきたバンドが解散してしまい、完全に音楽に対するやる気を失って美容師になろうと決意していたところを、YOSHIKIさんの猛烈な説得を受けて加入し、またもう一人のギタリストであるPATAさんやベーシストのTaijiさんも安定したメンバーとして加入することになり、Xの活動はより本格的なものとなりました。

先述のようにこれだけアンダーグラウンド界で話題になっていたXは、メジャーレーベル(プロのレコード会社)のスカウトの目に止まり、1989年にアルバム「BLUE BLOOD」でメジャーデビュー(プロデビュー)を果たします。B
「BLUE BLOOD」は、当時のロックバンドとしては異例の60万枚(※100万枚と書かれることもあり)という驚異的な売り上げを記録しました。

しかしデビュー後も色々と問題が起こり、2枚目のアルバム「Jealousy」の録音・制作中、YOSHIKIさんは録音・演奏の(気に入らない箇所の)やり直しをいつまでも要求し、これによってアルバムがいつまでも完成しないため、レコード会社は大きく困りました。それはプロ(メジャー)のレコード会社は、アーティストのCDの売り上げによる利益から社員を養うための給料を払うことも重要だったからですね。ただしもちろん、YOSHIKIさんの持病やToshIさんの声のトラブルなど、アルバムがなかなか完成しなかった要因は他にもたくさんあります。

結局YOSHIKIさんの思うような形(完全な形)ではない出来で、半ば無理やり1991年にリリース(発表)された「Jealousy」はぶっちぎりの1位を記録し、Xの人気は絶頂期に達しました。
しかし、上記のようなYOSHIKIさんの完璧主義についていけなくなったレコード会社からはついに契約解除を言い渡され、新たなレコード会社と契約することとなってしまいました

これに伴い、Xは新たにアメリカに拠点を写し、進出することになります。
ここでアメリカにXという同名のバンドがいたため、冒頭にも述べた通りバンド名を「X JAPAN」に改名したのでした
またこの時、ベーシストであった(2011年に亡くなられた)TaijiさんがYOSHIKIさんとのトラブルから脱退を余儀なくされ、(2023年に亡くなられた)heath(ヒース)さんが新しいベーシストとして加入しました

アメリカで再始動をはじめたX JAPANでしたが、この頃のX JAPANはあまりにレコーディング(楽曲のCDへの録音作業)が遅れてしまい、1年にわずか1枚のシングルしか出せない状況に陥ってしまいました(しかし、それぞれのシングルは皆大ヒット)。
まず、ToshIさんの(英語の歌詞を歌う)ボーカル録りが難航してしまいます。
X JAPANの世界デビューにあたり歌はみな英語で歌う必要があったこともあり、リーダーのYOSHIKIさんはあくまでネイティブな英語の発音の歌にこだわりました。
しかし、ToshIさんの英語でのボーカルは、ネイティブからすると発音が違和感だらけで(何を歌っているのか)聴き取れなかったといいます。
その上、YOSHIKIさんからの度重なる要求(ただでさえ難しいX JAPANの曲を、ネイティブと遜色(そんしょく)ない発音で歌え、というレベル)に応えられなかったToshIさんは、かなり苦しんだといいます。

また、仮に曲が出来上がっていても、完璧主義のYOSHIKIさんはボーカルや演奏などの細かいミスが気になったりして、後で何度もパソコンでの編集(修正)作業に終われ、それがあまりにも長い時間(長期間)に渡って続いてしまいます。
YOSHIKIさんは強迫性障害(?)もあるのかもしれませんが、このことからかなりYOSHIKIさんの完璧主義と細かいミスに敏感な性格がわかります。この性格は音楽家のショパンベートーベンとも共通しています。
YOSHIKIさんが尊敬するベートーベンも、手を1日に何度も洗ったりするなどの潔癖症・強迫性障害っぽい性分がありました。
YOSHIKIさん自身もこの長期間の編集作業は、大変苦しかったとされています。
しかし、そのYOSHIKIさんの苦心の末に完璧に出来上がった曲を聴いたメンバー(ToshIさんやhideさんら)は、その完成度ぶりにとても驚いたといいます。こうしてX JAPANの永遠の名曲が産み出されたわけですね。

しかし、このようにYOSHIKIさんとToshIさんが(長期間の編集作業や、英語でのボーカル録音などで)苦しんでいる間、他の3人のメンバー(hideさん、もう一人のギタリストのPATAさん、heathさん)は必然的にやることが無くなり、空き時間となってしまいます。
また、YOSHIKIさんがあまりに長い編集作業に打ち込んでいる間、ToshIさんも必然的に時間が空いてしまいます。
そのため、他のメンバーはこの空き時間を利用して、ソロ活動に打ち込むようになりました。
しかしメンバーのソロ活動が人気が出だして活発になってくる(つまりコンサートツアーやレコーディング作業等で忙しくなってくる)と、YOSHIKIさんがいざX JAPANで何かをやろうと思い立っても、メンバーとのスケジュールが会わず、メンバーが揃わずに何も出来なくなってしまいました。
これにYOSHIKIさんは不信感を募らせ、「なぜもっとソロ活動を抑制しないのか」などとメンバーに苦言を漏らすようになります。

そうしているうちにも、次に出すはずのアルバム「DAHLIA」のレコーディング(録音)・作成・編集はどんどん遅れていくようになりました。

1996年11月にようやく、前作「Jealousy」以来5年ぶりとなるアルバム「DAHLIA」が完成し、当たり前のように1位を獲得しました。
X JAPANの人気はもはや絶頂であり、国民なら誰もが知るようなアーティストにまでなっていました。

そんな人気絶頂のなか、1997年にボーカリストのToshIさんが脱退してしまいます。
それはToshIさんが約4年前から怪しい自己啓発団体(中立的な観点から団体の名誉を汚す意図は無いので、ここでは団体の名前は伏せます)に洗脳されてしまい、団体の主催者からX JAPANのボーカリストとしての過去を全部否定するような教えを(半ば暴力的に)刷り込まれてしまったからです(※後述するToshIさんの著書より)。
ToshIさんを洗脳したヤバい団体については、ここでは触れないようにしておきます。「ToshI 洗脳」などで検索するとたくさん情報が出てきますので、また後述するToshIさんの著書にも詳しく書かれていますので、興味ある方は(心して)ご覧ください。
また、ToshIさんの著書「洗脳~地獄の12年からの生還」という本では、マインドコントロールというものがいかに恐ろしいものなのかが生々しく書かれています。また、この著書によると、X JAPANや自身のソロ活動などで稼いだToshIさんの利益が団体に対して10億円以上も流されてしまった、ということです。
結構ショッキングな内容が書かれているので、もし興味ある方は、心して読んでみてください。

ToshIさんの脱退を、ギタリストのhideさんは必死に止めようと説得し続けましたが、洗脳の闇が深かったのかToshIさんの意向は1ミリも変わらず、結局脱退の撤回は叶いませんでした。
高く美しく特徴的な声で歌うボーカルのToshIさんが脱退した以上、「X JAPANの曲はToshIさん無しにはもはや成り立たない」「ToshIさんに代わるX JAPANに相応しいボーカリストは存在しない」という結論に達したことで、1997年をもってバンドは解散に追い込まれました(9月に解散発表、12月にラストライブ)

その翌年の1998年5月、ギタリストのhideさんが死亡してしまいます。
当初は「自殺」と報道され、YOSHIKIさんが涙を流しニュースで何度も報道されたりする等して、世間を騒がせました。
hideさんはX JAPANが解散したのが相当ショックだったのか、まるでそれを吹き飛ばすかのように、解散後は即座にソロ活動を開始させており、しかもかなり勢い付いており人気もあったので、この時誰もhideさんが死ぬとはとても思ってはいなかったことでしょう。
ただ当時のhideさんは、朝まで居酒屋をハシゴ(複数の居酒屋を飲み歩くこと)するような生活を繰り返していました。心のどこかではやはり、これまで命を懸けて活動してきたX JAPANの解散という、hideさんにとって人生で最も大きかったであろう喪失体験が重かったのかもしれません。
そしてある朝方、酔っ払って自宅に帰ってきたところを、(恐らくですが)マッサージのためにドアノブにタオルをひっかけ、タオルを首に巻いている途中で意識不明となり、呼吸困難となって死亡してしまったのです。

YOSHIKIさんも、hideさんの死が到底受け入れられず、またToshIさんの洗脳報道も受けたりしてX JAPAN解散後はとにかく苦しみ続けました。インタビューでは過去の自分の(hideさんやToshIさんに対する)行いを攻め続けるような発言を繰り返したり、また2000年代は自身のソロプロジェクトが滞りいつまでもデビューできないなど、この時期はX JAPANにとってはマイナスなニュースが相次ぎました。

しかし、YOSHIKIさんが1999年に天皇陛下(当時)の前で華麗なピアノ演奏を披露したり、小泉純一郎首相(当時)によって「Forever Love」が自民党のCMソングに起用されたり、またヨーロッパ等海外の多くのバンドがX JAPANの曲をカバーする(例えばDragonlandというバンドが日本語で歌った「Rusty Nail」など)など、明るい話題もありました。つまり、バンド解散後の2000年代もX JAPANの人気は日本国内ならず世界的にも増え続けていたのです

そんな中、2007年にX JAPANは10年ぶりに再結成します。
しかも再結成のきっかけは脱退したToshIさんからYOSHIKIさんに再結成の話題をもちかけたことでした(YOSHIKIさんは最初ToshIさんを信じられなかったようです)。
この時はまだ、ToshIさんは例の団体からの洗脳が解けていたわけではありませんでした。
つまり、ToshIさんはこの時点でまだ例の団体から利用されており、先述の通り(ToshIさんの著書によると)ToshIさんがX JAPANや自身のソロコンサートで稼いだお金が12年間で10億円以上も団体に渡っていたといいます。
しかし度重なる矛盾から、ToshIさんは団体と主催者に対して疑問を持ちはじめ、2010年にToshIさんはついに団体と主催者との決別を表明し、洗脳もようやく解けて「完全復活」となった形となりました。
この時、私を含めた多くのX JAPANのファンがToshIさんに対して「お帰りなさい!」という気分になったと思います。

その少し前の2009年には、LUNA SEA(ルナシー)のギタリストのSUGIZOさんが正式メンバーとして加入しています。

2011年に、1991年に脱退したベーシストだったTaiji沢田泰司)さんが亡くなられました。
泰司さんは、Xを脱退した後はLOUDNESS(ラウドネス)という1980年代のロックシーンを席巻したバンドでプレイしましたが、その後レコード会社との契約が切れたり、妻から離婚を突き付けられたり、精神的に荒れたり、仕事を無くしたりして、1990年代後半には上野公園で放浪生活を送るなど、かなり苦労されていました。

また、Taijiさんに代わって加入したベーシストのheathさんも2023年に残念ながら亡くなられてしまいました。

現在はメンバーも皆もはや60歳に近い年齢ですが、未だに若々しく、美しいビジュアルを保っています。
また、X JAPANの人生は本当に波乱万丈(はらんばんじょう)で、トラブル続きの人生だったと思います。
そうした苦しみや困難を乗り越え、「紅」「Forever Love」「Rusty Nail」などに代表される数々の名曲があるわけです。
YOSHIKIさんの作る曲はどれも美しくて激しく、YOSHIKIさんのピアノはとても美しい。派手にブッ叩きまくるドラムも見ていて全く飽きません。
ToshIさんのボーカルは本当に美しく、やはりX JAPANのボーカルはToshIさんあってのものです。
X JAPANの存在と音楽は、これからも多くの人によって永遠に語り継がれるでしょう。

館山市には、YOSHIKIさんが高校時代に悲しいことがあった時によく訪れていたという北条海岸(ほうじょうかいがん)があります。
館山駅から近いので、途中下車の際には是非とも寄ってみましょう。

北条海岸(千葉県館山市)

次回は、館山駅を出発して、安房鴨川駅(あわかもがわえき)方面へ向かってゆきます!

注意
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