房総半島一周の旅について、わかりやすく解説してゆきます!
九十九里浜の地理・歴史などを、やさしく解説してゆきます!
今回は、九十九里浜・成東・旭などの地域へ
今回の房総半島の旅は、主に千葉県・房総半島の東海岸沿いである、九十九里浜・成東・旭といった地域の話題となります。
大網駅→東金駅→求名駅→成東駅
(総武本線)
成東駅→横芝駅→八日市場駅→干潟駅→旭駅→松岸駅→銚子駅
※上記は全ての駅ではなく、スペースの都合上筆者が独断でピックアップしたもの
夕陽が沈まない海・九十九里浜へ
大網駅(千葉県大網白里市)からは、バスで東の九十九里浜に向かうことになります。
九十九里浜は「夕陽が沈まない海岸」になります。
なぜ夕陽が沈まないのかというと、九十九里浜は完全に東(太平洋)の方を向いているからです(当たり前ですが・・・)。
Mi-Ke(ミケ)という歌手グループが1991年に発表して大ヒットした「想い出の九十九里浜」という曲が印象的ですね。
源頼朝が立てた「99本の矢に由来」

九十九里浜(千葉県大網白里市)
九十九里浜という由来は、源頼朝が99の矢を立てたことから、そのような名前になったとされています。
源平合戦で一度敗れ、房総半島に来ていた頼朝
源頼朝は1180年の「以仁王の挙兵」によって全国の源氏が平氏打倒のために立ち上がりました。
その後、神奈川県の伊豆半島に近いところにある「石橋山の戦い」で破れていました。
さらにそこから、神奈川県の真鶴という場所から相模湾・東京湾を渡り、房総半島に上陸していました。
詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

房総半島で、次々に平氏に不満を持つ武士を味方につける
ここで頼朝は、平氏打倒のための兵士をかき集めるために、房総半島を奔走しまくっていたのです。
そして房総半島中の、平氏に不満を持つ武士を、次々に味方につけました。
その時に真っ先に頼朝の味方についたのが、千葉県の元祖とも呼ばれる一族である千葉氏です。
千葉氏の協力もあり、勢いづいた頼朝は平氏を打倒し、鎌倉幕府を開いたのでした。
房総半島で、真っ先の頼朝の味方についた千葉氏
また、平安時代後期頃から千葉県を支配していた一族である千葉氏は、先述の通り鎌倉幕府の成立に大きく貢献したため、頼朝からの信頼があつい一族でした。
そのため、千葉氏は鎌倉時代にかなり優遇され、また千葉氏の存在感があった時代でした。
室町時代になる、千葉氏は衰退 後北条氏の下に
しかし、室町時代になると内部分裂(恐らくですが、政権争いが原因と思われます)で衰退してしまいました、
そして、戦国時代になると相模国(現在の神奈川県西部)の後北条氏の下につきました。
主君・後北条氏の滅亡とともに、千葉氏も滅亡
1590年に、豊臣秀吉による小田原攻めによって、後北条氏は滅亡してしまいました。
後北条氏は秀吉の敵にあたたります。
そのため、敗北した後北条氏の味方だった千葉氏にも秀吉から罰を与えられてしまいました。
結果、千葉氏は滅亡してしまいました。
「東回り航路」のルートだった、九十九里浜
話が少しズレましたが、九十九里浜の話題に戻ります。
九十九里浜の沖は、江戸時代においては「東回り航路」のルートでした。
そもそも「東回り航路」とは?
「東回り航路」とは、江戸時代に河村瑞賢というお金持ちが造った、海の航路です。
なぜ海の航路なのか?というと、江戸時代には航空機も鉄道も高速道路もなかったため、大量の荷物を運ぶには船に荷物を載せて運ぶ、というやり方が都合がよかったためです。
東北地方のお米が、「東回り航路」によってもたらされた
「東回り航路」によって、仙台藩などで大量にとれたお米を銚子から利根川を経由して、江戸に持ち込むことができました。
ただしこれは、九十九里浜の沖を通らない、江戸へのショートカットのルートでした。
それによって得られた膨大な利益によって、伊達家の仙台藩は62万石の大きな藩だったのでした。
戦争末期「ダウンフォール作戦」の上陸候補地だった、九十九里浜
九十九里浜は太平洋戦争(大東亜戦争)における、ダウンフォール作戦においてアメリカ軍が日本を占領する時の上陸地候補に上がっていた場所でもありました。
「ダウンフォール作戦」とは?
ダウンフォール作戦とは、1946年に予定されていた、アメリカ軍による日本本土上陸作戦で、東京を占領して日本を降伏させることを目的とした作戦です。
日本は終戦間近、「ポツダム宣言」を受け入れずになかなか降伏せず、いつまでも戦争が終わる兆しが無かったからですね。
しかし実際には1945年8月15日に日本が降伏したため、ダウンフォール作戦が実施されることはありませんでした。
地形の問題から、九十九里浜は不適当と判断された
ダウンフォール作戦でもし米軍が日本本土に上陸するとき、とても広くて上陸しやすい九十九里浜が候補地にあがりました。
しかし、九十九里浜から東京までのルートは険しい道のりになります。
外房線や総武本線に乗っているとわかりますが、千葉方面へ抜けるには山間地帯を通らなければなりません。
そのため、九十九里浜で上陸した大量の兵士や戦車が大群で進むのには適していませんでした。
また、江戸川・荒川といった、東京の一歩手前の大きな川も米軍の侵入には不適でした。
もし川の向こうで日本軍のみならず民間人まで攻撃してきたら、また沖縄戦のような悲惨な戦いとなり、民間人・米軍双方に多大な犠牲が出ることが予想されたからです。
代わって、相模湾が上陸に適当とされていた
そのため、米軍は九十九里浜は上陸の候補地からは外し、神奈川県の相模湾を上陸の候補地としました。
相模湾は九十九里浜よりもやや狭いですが、
- 神奈川~東京の区間は、特に山間地帯もないこと
- 元々道路がとてもよく整備されていて(国道1号など)、進軍しやすいこと
- 東京に近いこと
など、さまざまなメリットから、相模湾を上陸候補地としたわけです。
米軍が、関東地方の地形をいかに研究して把握していたかがわかります。
大網駅からは、東金線に乗り換え
大網駅(千葉県大網白里市)からは、東金線に乗り換えます。
ここで西へ向かえば、蘇我駅(千葉県千葉市)に戻ってきます。
成東駅へ向かって進む
東金線に乗り換えると、東金市の中心駅である
- 東金駅(千葉県東金市)
を過ぎ、難読駅名としても知られる
- 求名駅(千葉県東金市)
に着きます。
やがて、総武本線と合流する駅となる
- 成東駅(千葉県山武市)
に着きます。
山武杉の産地・山武市と、「成東」の由来
千葉県山武市は、山武杉と呼ばれる杉で有名です。
「成田空港の東」という意味ではない!
成東という地名は、成田空港の東にあるため、まるで「成田の東」と思いがちです(実際には東というよりも、南にある)。
しあし実は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が日本神話で関東・房総半島を訪れたときに、波がすごく鳴っていたことから鳴濤に由来すると言われています。
濤は「波」という意味です。
日本武尊と房総半島の関係については、以下の記事でわかりやすく解説しているため、ご覧ください。

成東駅からは、総武本線に乗り換え
成東駅からは総武本線に乗り換え、引き続き海沿いを北東に進み、銚子方面を目指します。
成東駅から西へ進めば、
- 佐倉市
- 千葉市
- 成田市
に至ります。
こちらは銚子からの帰りに寄ることになるため、後に解説します。
成東駅を出ると、
- 横芝光町の駅である、横芝駅
- 匝瑳市の駅である、八日市場駅
を過ぎます。
旭駅(旭市)に到着
やがて
- 干潟駅(千葉県旭市)
を過ぎて、旭駅(千葉県旭市)に着きます。
旭将軍・義仲に由来!?千葉県旭市
千葉県旭市の由来は、源平合戦の武将である旭将軍こと・源義仲にあるとされています。
源義仲は、長野県の木曽・宮ノ越という場所において生まれ育ったため、木曽義仲とも呼ばれます。
詳しくは、以下の記事をご覧ください。

旭市にゆかりある、木曽義昌
偉大なる義仲の子孫だった!?
旭市にゆかりある木曽義昌という人物がおり、彼は長野県の木曽路をルーツとする木曽氏という一族でした。
彼ら木曽氏は旭将軍・義仲の末裔であることを自称しており(真実かどうかについては諸説あります)、その木曽義昌が戦国時代に、ここ旭市の地に入ってきたのです。
木曽氏については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

「鳥居峠の戦い」で、武田勝頼と戦った木曽義昌
木曽義昌は戦国時代、木曽路から諏訪湖へと抜ける峠道にある
- 「鳥居峠の戦い」
において、織田信長の側につき、甲斐(山梨)の武田勝頼を攻め、追い詰めたのでした。
「鳥居峠の戦い」については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

義昌が干拓した地・干潟八万石
話がズレましたが、木曽から千葉・旭に移り住んで来た義昌は、当時存在していた椿の海を干拓し、干潟八万石という大きな農業用地を作り上げました。
「椿の海」とは?
「椿の海」とは、現在の千葉県旭市に戦国時代まで存在していたといわれる、大きな海のことをいいます。
大昔、ある神様がそこに植えてあった椿の木を引き抜いてできた海だという伝説から、「椿の海」という名前になったそうです。
「干拓」とは?
「干拓」とは、海や湖の水を「水門」などて干上がらせ(水を排出して無くし)、陸地を作ることで田んぼ・畑にして、農業用地を広げることです。
これにより生産量が上がり、幕府の税収アップが期待できるわけ、です。
干潟八万石に由来する、干潟駅
「干潟八万石」とは、先述の木曽義昌が、現在の旭市にあった椿の海を干拓したことでできた陸地・農業用地です。
この干潟八万石に由来する鉄道の駅が、総武本線・干潟駅(千葉県旭市)です。
旭将軍・義仲とは?
なお、旭市の名前の由来になったと思われる旭将軍こと源義仲は、平安時代末期に行われた源平合戦のときに、破竹の勢いで京都に入ってきた武将です。
彼は長野県出ると木曽の宮ノ越で生まれたので、木曽義仲とも呼ばれます。
京都に入ってきたとき、彼は東の方から「まるで朝日が昇るようにやってきた」ため、「朝日将軍」または「旭将軍」の異名がつきました。
義仲については以下の記事で解説しておりますので、ご覧ください。

なお、私(筆者)は義仲を尊敬しておりますので、筆者のハンドルネームも、旭将軍・義仲に由来しています(^^;)
義仲を尊敬する人は多い
このように、義仲を尊敬する人は多いといえます。
この地を訪れた木曽義昌も、旭将軍・義仲を尊敬していたことから、「旭市」という地名になったものと思われます。
また、宮崎県延岡市の中核をなす企業である旭化成も、広い意味では義仲に由来しています。
延岡市と旭化成については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

旭市のもう一人の偉人・大原幽学
旭市は大原幽学という人物にもゆかりある場所です。
大原幽学は江戸時代に、人々に農業を教えたりました。
しかしそれも虚しく、残念ながら幕府の迫害にあい、失意のうちに自殺するという悲劇の最期となってしまいました。
農業で千葉県内一位の旭市
旭市は農業において、千葉県内一位の収穫高を誇ります。
このあたりは「近郊農業」も盛んです。
近郊農業とは、東京などの大都市に近い場所で行う農業です。
東京に近いことから、消費人口の多い東京は素晴らしいマーケットになり、たくさんの野菜を売ることができるというメリットがあります。
また、出荷に時間やコストもかからないため、高い鮮度を保てるというメリットもあります。
次は、銚子へ
旭駅を出ると、次は銚子に止まります!
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