
今回の房総半島の旅は、江戸時代の街並みの景色が残る水郷・佐原の旅になります!そしてこの地域の旅行を楽しむための豆知識を、わかりやすく解説します!
(総武本線)
銚子駅→松岸駅
(成田線)
松岸駅→香取駅→成田駅→酒々井駅→佐倉駅
(総武本線)
佐倉駅→四街道駅→都賀駅→東千葉駅→千葉駅
※上記は全ての駅ではなく、スペースの都合上筆者が独断でピックアップしたもの
銚子駅を出て、佐原駅へ
銚子駅(ちょうしえき、千葉県銚子市)を出て成田線(なりたせん)に沿って西へ進むと、やがて佐原駅(さはらえき、千葉県香取市)に着きます。

水郷・佐原の町並み
千葉県香取市(かとりし)は、なんといっても水郷(すいごう)・佐原の町並み(さわらのまちなみ)が有名です。

「水郷」とは?
水郷(すいごう)や「水の都」という言葉は、だいたい江戸時代まで町中に舟が通るための(人工的に造られた)川があった町に対して使われる言葉になります。
なぜ「水郷」が発展したのか
昔(江戸時代まで)は「トラック(軽トラ)」や「貨物列車」などといった便利な運び方は無かったため、舟に大量の荷物を載せて運んだ方が効率が良かったのです。
その舟が、町中を通るために掘られたのが運河になります。つまり、運河は人工的な川ともいえます。
また、
- 現在でも町中に、運河のような川が流れている
- 江戸時代の建物が、現在でも残されている貴重な街並みがある
という特徴を持った町並みが、いわゆる佐原の町並みということになります。
現在の水郷はどうなっている?
明治時代になると、貨物列車が出来て、さらに高度経済成長期になるとトラックや道路が出来てくるようになります。
そうなると、運河は用済みとなって埋め立てられるのが普通です。
かつては江戸(東京)や大阪にも、たくさんの運河があり、「水の都」「水都」などと呼ばれていました。
しかし、
- 佐原の町並み
- 北海道の小樽運河(おたるうんが)
- イタリアのヴェネチア(ベニス)
などのように、地域の人々の懸命な取り組みによって伝統的な運河が残され、観光地化されているケースも存在するのです。
伝統的な町並みが残っているのは、なぜ?
加えて、日本の主要都市は太平洋戦争(大東亜戦争)中に空襲で焼き払われ、江戸時代の建物はほぼ残されていません。
しかし空襲を免れた都市は、現在でも江戸時代の建物が残っているケースもあります。
佐原の町並みも、その一つだといます。
佐原には伝統的な江戸時代の街並みが残っているため、「小江戸(こえど)」とも呼ばれます。
また、京都に似た町のことを小京都と呼ぶこともあります。
伊能忠敬の出身地
佐原の町並みは、伊能忠敬(いのう ただたか)という人が生まれた街でもあります。
江戸時代、初めて地図を作った伊能忠敬
伊能忠敬(いのう ただたか)は、江戸時代に、日本で初めて地図を作った人物になります。
伊能忠敬は、なんと16年もかけて全国を測量したのです。
「測量(そくりょう)」とは、地形(海岸や山など)の長さなどを計るなどして、地図を作成したりする作業のことをいいます。
北海道(蝦夷地)の測量をして、はじめて地図を作った
北海道の函館山(はこだてやま)にも、伊能忠敬が北海道で初めて測量をしたという記念碑がありました。
伊能忠敬は非常に好奇心旺盛で、ひとつの事が気になったら、とことん調べずにはいられないという性格だったそうです。
当時の北海道は蝦夷地(えぞち)と呼ばれていたわけですが、現代の我々は北海道の形がクレヨンしんちゃんの野原みさえの髪型のような形だって誰だってわかっています。
しかし、江戸時代の蝦夷地は、島の形はおろか、はたして島なのか大陸なのか、陸続きなのかすらわかっていませんでした。
しかし伊能忠敬が測量・地図作成のために蝦夷地を探検するようになってからは、徐々に蝦夷地・北海道の形が判明するようになり、伊能忠敬はかなりの精度で北海道の地図を作りました。
伊能忠敬の北海道測量については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
江戸時代は、いち早く地図を作るかが重要だった
また、当時の蝦夷地は、ラッコの毛皮(極寒を凌ぐために超重要)や漁場などをめぐって、ロシアとの領土の奪い合いのようになっていました。
また江戸時代当時の世界は、新しく発見した大陸については、いち早く地図を作成した国が、その大陸の所有者とみなされる、という風潮(なんとなくのルール)があったのでした。
そのため、ロシアの脅威を常に感じていた日本(江戸幕府)が、蝦夷地の地図作成をいかに重要視していたかがわかります。
地図を作った伊能忠敬は偉大だ
私(筆者)は大の地図マニアなので、伊能忠敬は偉大な人だと思います。
地図って、眺めているだけだ楽しくないですか?(^^;)
小学生のころ、教室で地図ばかり眺めていて、よく馬鹿にされたものです(^^;)

今でも、地図はとても大好きだよ!それを作った伊能忠敬さんは凄い人だね!
下総国一宮、旧・官幣大社 香取神宮
また香取市には、
- 下総国(しもうさのくに)の一宮(いちのみや)
- 近代社格制度(後述)における、旧・官幣大社(かんぺいたいしゃ)
である、香取神宮(かとりじんぐう)が存在します。
下総国とは?
下総国(しもうさのくに)とは、現在の千葉県北部のエリアにあたります。
国(くに)とは、奈良時代の律令制におけるエリア分けであり、現在の都道府県に該当します
千葉県は、他にも
- 上総国(かずさのくに。千葉県中部)
- 安房国(あわのくに。千葉県南部)
からなります。
「一宮」とは?
一宮(いちのみや)とは、その国で最も格式の高い神社をいいます。
さらに二宮(にのみや)、三宮(さんのみや)と続きます。
「官幣大社」「近代社格制度」とは?
官幣大社(かんぺいたいしゃ)とは、明治時代に定められた「近代社格制度」において、最も格式の高い神社のことです。
明治時代は「富国強兵」といって欧米列強に負けない国作りを目指していました。
そのため、より天皇家に近い重要な神社を、格式の高い神社として定めていたのでした。
佐原駅を出て、成田方面へ
佐原駅を出ると、列車は大きく南西へ進み、成田方面へと向かってゆきます。
その時、印旛沼(いんばぬま)の東のエリアを通過します。
印旛沼干拓とは
印旛沼(いんばぬま)は、干拓(かんたく)によって、湖の面積が狭まったという歴史があります。
干拓(かんたく)とは、湖や海の水をわざと干上がらせて、平地(農地)を作り、米などの農産物の生産量を上げようとする施策です。
なぜ、印旛沼干拓を行ったのか?
ではなぜ、干拓までやって平地(農地)を増やす必要があったのか。
まず、日本は山間部が多くて平地が少なく、農業に適した土地が少ないことが挙げられます。
また、江戸時代は平和で人が死ににくい世の中であり(もちろんそれは大変素晴らしいことですが)、人口が爆発的に増えたことにより、圧倒的な米・食糧不足に陥ったことが挙げられます。
さらに、幕府の税収(年貢)がやばくなったことが挙げられます。
その原因は、幕府の「予算やりくり」の問題や、飢饉(ききん)が続いたことなどにより、不作に陥ったことなど様々です。
米の生産量を増やすために、干拓・農地拡大を行った
以上のことから、わざわざ干拓という大掛かりな工事を行い、とにかく田んぼを増やし、米の収穫高を上げる必要があったのわけです。
干拓は、オランダでも有名
干拓は、オランダでも有名です。オランダは干拓によって水をせき止めて出来た土地であるため、海面よりも低い位置に街が形成されています。
オランダには「~ダム」という地名(例:アムステルダム、ロッテルダムなど)が多いと思います。
ダムとは堤防という意味で、これは堤防によって水を塞(せ)き止めされ、干拓よってできた土地であることを示します。
水を排出する「風車」
またオランダは風車のイメージも強いと思いますが、これは干拓で塞き止めた水を排出するために存在しています。
風で歯車を回し、そのときに生じたエネルギーで水を吸い上げ、水を干上がらせるのです。
その吸い出して余った水は、堤防の外に排出するということを行ってきたのでした。
印旛沼にも、オランダ風の風車があります。
何度も挫折した、印旛沼干拓
印旛沼干拓(いんばぬまかんたく)は、江戸時代に取りかかったものの、何度も挫折してしまっています。
例えば大雨や台風などで、せっかく作った(水を塞き止める)水門が決壊したりして、その度に挫折に追い込まれしまったのです。
国の生産量アップのために、印旛沼干拓が急がれた
江戸時代の中頃までは、印旛沼干拓の目的はあくまで「農地の拡大」「米の増産」「税収アップ」などでした。
しかし江戸時代後期になると、この頃は外国船が日本に貿易を迫って東京湾に出没するようになってきました。
万が一、戦争になったときに備えて平地と農地を確保する、米・作物の増産で国力をアップさせる、などの目的も含まれていました。
もし米・作物がたくさんあれば、より多くの兵士を食わせることができ、軍事力の拡大に繋がるからです。
万一に備え、陸地を確保する目的もあった
さらに、外国の戦艦に東京湾の入口をもし封鎖されてしまうと、当時の日本はまだ舟で荷物を運んでいましたから、江戸への(江戸からの)物流が完全にストップしてしまうリスクがありました。
それを防ぐ目的で、陸地を多く確保するために、印旛沼干拓を進める必要性が世論で(当時の世間的に)起こったともされています。
干拓工事を、強制的に命じられた藩たち
これら(幕末の外国の接近)は、ある意味国の緊急事態なので、幕府は全国各地の藩(はん:江戸時代の「都道府県」のようなもの)に対して、半ば強制的に印旛沼干拓を命じたのでした。
これによって全国各地の藩が印旛沼干拓の工事にかり出されるようになり、工事にかかる人件費や工費、材料費などは基本的に藩が負担させられてしまい、幕府が出してくれるわけではありませんでした。
これによって各藩は多大な出費と負担を強いられることになりました。
また、幕府はこれによって、わざと藩の勢いが拡大することを意図的に防いでいたのでした。
わざと藩の財力を削っていた幕府
なぜ藩の財力や勢力を弱体化させる必要があったのかというと、幕府に対する謀反や反乱を防止するためです。
その理由は、室町幕府の失敗にさかのぼります。
室町時代、鎌倉を監視する「鎌倉府」というものが、神奈川県の鎌倉に置かれていたのでした。
しかし、彼らが京都の足利将軍に対して逆らって反乱を起こし、それが戦国時代の到来と室町幕府の崩壊に繋がってしまう、一つの原因となったという失敗体験がありました。
遠隔地にある組織が、幕府に不満を持ち、反乱を起こしたわけです。
なので江戸幕府は地方に反乱を起こさせないように、あの手この手で各藩の勢力を削ごうとしていたのでした。
藩の財力を意図的に削ぐ「手伝普請」
なので公共事業という名目で、各藩に負担を強いていたのでした。
これを「手伝普請(てつだいふしん)」といいます。
つまり「参勤交代」の目的と同じですね。
参勤交代も、旅費のために多大な負担を藩や大名に強いることで、財力を減らさせることが目的でした(他にも、藩と幕府の主従関係を再確認させる目的もありました)。
その時、印旛沼干拓に従事した藩には、
- 庄内藩(しょうないはん):山形県
- 沼津藩(ぬまづはん):静岡県
- 秋月藩(あきづきはん):福岡県
などの藩がありました。
戦後、ようやく完成した印旛沼干拓
印旛沼干拓がようやく無事終わったのは、なんと戦後になってからです。
人々の並々ならぬ苦労がうかがえます。
今では、かつての大きな印旛沼があった地域には、広大な農地・田んぼが広がっており、人々の生活・経済を支えているわけですね。
次は、成田へ
次は、成田(なりた)に止まります!
ちゅうい!おわりに
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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