房総半島一周の旅23 市川へ到着!国府台の歴史と、「国府台合戦」について解説!

総武本線および市川・国府台の地理・歴史などを、わかりやすく解説してゆきます!
旅行初心者の方にも、やさしく解説してゆきます!

今回は、市川駅へ

今回の房総半島の旅は、船橋駅を出て総武本線で徐々に東京方面へと向かってゆく行程となります。
そして、市川駅に至ります。

(総武本線)
千葉駅→稲毛駅→新検見川駅→幕張駅→津田沼駅→船橋駅→市川駅→(江戸川)→新小岩駅→(荒川)→平井駅→亀戸駅→錦糸町駅→両国駅→(隅田川)→浅草橋駅→秋葉原駅

※上記は全ての駅ではなく、スペースの都合上筆者が独断でピックアップしたもの
※錦糸町駅からは「支線」扱いであり、運転系統は「中央・総武線」となる

船橋駅を出て、市川駅へ

船橋駅ふなばしえき(千葉県船橋市)を出ると、市川いちかわ方面へと向かってゆきます。

また、久しぶりの東京都徐々に近くなってゆきます

やがて

  • 市川駅いちかわえき(千葉県市川市)

に到着します。

下総国の国府があった市川市

千葉県市川市いちかわしは、元々は下総国しもうさのくに国府こくふがあった場所ですね。

「下総国」とは

下総国は、房総半島の北側<r(つまり、千葉県北部)にあたる地域になります。

その下総国の中心地である国府があったため、この後紹介する国府台こうのだいという地域が存在します。

「国府」とは

国府こくふは、その国における政治の中心地です。
現代でいう、県庁などに該当します。

くにとは、奈良時代の律令制におけるエリア分けであり、現代の都道府県に該当します。

ただし、千葉県では昔は以下の3つの国が存在しました

  • 下総国しもうさのくに:千葉県北部
  • 上総国かずさのくに:千葉県中部
  • 安房国あわのくに:千葉県南部

下総 の方が「上」、上総の方が「下」に注意

ここで注意したいのが、

  • 下総しもうさの方が地図上は「」であり、
  • 上総かずさの方が地図上は「」にある

ので、その辺りは注意してくださいね。

なぜ上下が逆なのかについては、以下の記事(のだいたい真ん中あたり)でもわかりやすく解説しているので、ご覧ください。

房総半島一周の旅14 房総半島の南東の海岸沿い、御宿・大原・上総一宮をゆく
千葉県・房総半島の観光・歴史について、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

下総国の「国分寺」も存在した

また、市川市には下総国の国分寺こくぶんじもありました(現在も下総国分寺があります)。

国分寺こくぶんじは、奈良時代の聖武天皇しょうむてんのう勅願ちょくがんによって建てられたものです。

勅願ちょくがんとは、天皇直々じきじきのお願いのことをいいます。

市川の「国府台」

先述の通り、市川は下総国の国府があった場所であり、それにちなんで国府台こうのだいという場所が、江戸川のほとりにあります。

国府台こうのだいは、かつて戦国時代、

  • 後北条氏ごほうじょうし
  • 里見氏さとみし

が戦った場所でもあります。

後北条氏とは

後北条氏ごほうじょうしは、戦国時代に神奈川県の小田原おだわらを拠点とし、関東から伊豆半島あたりを支配した一族です。

初代は、北条早雲ほうじょうそううんという人物です。

名前こそ北条となっていますが、実は鎌倉幕府の執権しっけんだった北条氏とは、血縁関係はありません。
それは、単に「北条氏」というネームバリューが高いから(有名だから)、という理由で北条氏を名乗っていただけとなります。

そのため、鎌倉幕府の執権だった北条氏と区別するために、後北条氏ごほうじょうしと呼ばれるわけです。
後北条氏は、元々は伊勢氏いせしを名乗っていたのでした。

里見氏とは

里見氏さとみしは、戦国時代に房総半島一帯を支配した一族です。
元々は、房総半島南部の、館山たてやまを支配していました。

里見氏については、こちらの記事(当サイト)でも解説しているので、ご覧ください。

第二次国府台合戦

戦国時代に、後北条氏はとにかく関東地方で勢いづいていて、ついに房総半島まで攻め込まんとしていました

それを迎え撃ったのが、里見氏ということでした。
そして、市川の国府台で激戦となりました(第二次国府台合戦)。

里見氏の敗北、敗因は「油断」

しかしこの戦いでは里見氏の敗北となります。

その原因は、里見氏の油断です。
後北条氏は敗北したとみせかけて、わざと後退したのでした。

これに騙されて勘違いした里見氏が、余裕ぶっこいて酒に酔っぱらっていたところを、後北条氏の猛攻撃を食らって敗北したのでした

敗北により、下総国の支配を後北条氏へ譲ることに

この敗北を受けて、里見氏下総国の支配を後北条氏に許してしまうことになります。

これによって里見氏は上総国と安房国のみ(つまり、千葉県の南2/3の地域のみ)の支配となったわけです。

小田原攻めに遅れる 罰として里見氏は上総国まで失う

しかし、1590年の豊臣秀吉小田原攻めのときに、里見氏は遅れて駆けつけてしまったのでした。

そのため(一説によれば、私闘を禁じる惣無事令違反とも)、秀吉の怒りを買い、上総国まで没収されてしまいました。

そして上総国は、(後に関東地方の支配を任され江戸幕府を開くことになる)徳川家康に対して、差し出すことになるのでした。

戦国時代では、敵の敵は味方になります。
そのため、後北条氏(=里見氏の敵)の敵である豊臣秀吉は(里見氏からすれば)味方にあたるわけです。

その味方が、小田原を攻め落とそうとする時に遅れてかけつけたため、秀吉の怒りを買ったというわけですね。

しかし(先述の通り、後北条氏の領土となっていた)下総国も、小田原で後北条氏が滅亡したことで、秀吉に没収されることとなってしまいました。

真間の手児奈ちゃんの伝説

市川の国府台こうのだいには、真間の手児奈ままのてこなちゃんの伝説があります。

昔むかし。

市川の真間まま(現在の市川駅のやや北で、京成本線・市川真間駅があるあたり)に手児奈てこなちゃんという、それはそれは非常に可愛いお嬢さんがいました。

ところが、あまりにもモテすぎて求婚されナンパされまくり、手児奈ちゃんをめぐって男たちは争うようになります

これを見て、手児奈ちゃんは心を痛めるようになります。

私の心は、いくつにも分かつことができます。
しかし私の体は一つしかありません。
私がいなくなれば、男の人達は争わずに済むのです。

そう言って手児奈ちゃんは水に飛び込んでしまいました

この辺りの恋愛バランスは複雑です。
モテは一極集中するといわれ、一人の異性からモテる人は魅力的ですから、その他大勢の異性からもモテることにもなるのです。

それが現代の自由恋愛婚活においても複雑な構造をもたらす要因にもなっています。

以下の記事(の後半あたり)で、現代の婚活の男女のアンバランスについて詳しく解説してますので、ご覧ください

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第61番 松戸に到着!国府台と、真間の手児奈の伝説
鉄道唱歌 奥州・磐城編の歌詞を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

次回は、江戸川を渡り、東京都へ

市川駅を出ると、次は江戸川を渡り、東京都に入ります!ゴールの秋葉原は、もうすぐです。

ちゅうい!おわりに

この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。
そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。
再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。
何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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