房総半島一周の旅22 千葉を経て習志野・船橋へ 日本武尊と郡都としての歴史

今回の房総半島の旅は、千葉駅を出て総武本線で東京方面へと引き返す行程となります。その途中、習志野・船橋といった街を通ります。この地域の旅行を楽しむための豆知識を、わかりやすく解説します!

(総武本線)
千葉駅→稲毛駅→新検見川駅→幕張駅→津田沼駅→船橋駅→市川駅→(江戸川)→新小岩駅→(荒川)→平井駅→亀戸駅→錦糸町駅→両国駅→(隅田川)→浅草橋駅→秋葉原駅

※上記は全ての駅ではなく、スペースの都合上筆者が独断でピックアップしたもの
※錦糸町駅からは「支線」扱いであり、運転系統は「中央・総武線」となる

千葉駅(ちばえき、千葉県千葉市)からで西へ総武線(そうぶせん)に沿っていくと、やがて習志野市(ならしのし)の津田沼駅(つだぬまえき)にまで至ります。
さらに、船橋駅(ふなばしえき、千葉県船橋市)や市川駅(いちかわえき、千葉県市川市)などの方面に向かって進んで行きます。

なお、今回の房総半島の旅ではゴール秋葉原駅(あきはばらえき、東京都千代田区)に設定しておりますので、まもなく房総半島の旅も終わりに近づきます

千葉から東京へ移動するには、青いカラーの総武線快速(そうぶせんかいそく)が便利です。総武線快速は神奈川県の逗子(ずし)・横須賀(よこすか)・久里浜(くりはま)方面へ向かう路線でもあります。また、黄色いカラーの中央・総武線(ちゅうおう・そうぶせん)もありますが、こちらは各駅停車であり、秋葉原駅を経て御茶ノ水駅(おちゃのみずえき、東京都千代田区)をはじめとする東京都心部の中央線に乗り入れます。

総武線快速と中央・総武線は、錦糸町駅(きんしちょうえき、東京都墨田区)までは同じ線路となりますが、錦糸町駅からは総武線快速は東京駅・神奈川県方面へと分岐し、中央・総武線は両国(りょうごく)・浅草橋(あさくさばし)・秋葉原(あきはばら)方面へと分岐してゆきます。

なので、千葉から秋葉原へ向かいたい場合は、錦糸町駅までは総武線快速で素早く移動し、錦糸町駅で中央・総武線に乗り換えることになるでしょう。乗り換えが面倒臭い場合は、各駅停車で時間はかかりますが千葉駅からずっと中央・総武線で行く選択肢もあります。各駅停車は快速列車よりも人が少ないため、ゆったり乗れる(座れる確率が高い)メリットもあります。急がないときは各駅停車という選択肢もありでしょう。

津田沼駅(つだぬまえき)は、習志野市(ならしのえき)の駅になります。

千葉県習志野市(ならしのし)は、かつて戦前に軍隊で栄えてきた町でした。つまり、戦前の日本において軍事施設で栄えてきた「郡都(ぐんと)」ということになります。

明治時代に篠原国幹(しのはら くにもと)という優秀な指揮官がいて、明治天皇がその指揮官に感銘を受けたことから、篠原に習え」→習志野(ならしの)となったのが地名の由来とされています(諸説あり)。

軍事基地を誘致することは、明治時代の各都市においてもメリットがありました。それは軍事基地があることによって、その街に住む兵士やその家族といった人々が増えるため、人口増が期待できます。そうなると、その人達に飲食・食材・家具・自動車などを提供するサービス業や本屋などの店も増えるため、町が発展していきます。すると結果的に、税収アップが期待できるからです。その税収を元に町の道路やビルなどの施設に投資してゆくため、町がさらに発展してゆきます

千葉県では他にも木更津(きさらづ)や館山といった地域でも軍事施設が栄えており、今でも自衛隊の基地(航空自衛隊・館山基地)や駐屯地(陸上自衛隊・木更津駐屯地)があります。ちなみに余談ですが、駐屯地(ちゅうとんち)とは陸上自衛隊に使われる用語であり、基地とは海上自衛隊・航空自衛隊に使われる用語です。陸上自衛隊はあくまで「移動」が前提でありあくまでその場所に「駐屯」しているという位置付けになります。なので陸上自衛隊に「基地」という用語は使いませんので注意しましょう。

しかし残念ながら日本は戦争に負けたため、こうした街の軍事施設はGHQによって徹底的に解体されていくことになります。また、戦時中はこうした軍都ほどB29などの爆撃機の空襲の対象になりやすいというデメリットもありました。当時の国際条約では民間人の殺傷は禁止でしたが、軍事施設に限っては破壊していいという決まりになっていたからです。

船橋習志野は、地図で見てもらえればわかるのですが、東京湾で最も奥深い位置にある場所になります。
東京湾に(首都東京を占領してやろうと画策し)侵入してくる外国船戦艦)にとっては、船橋習志野(ならしの)は、最も遠い位置にあります(もちろん千葉市も外国船にとっては遠い場所にあります。そしてもちろん、千葉市も軍都でした)。

つまりこれに何のメリットがあるのかというと、外国船(戦艦)にとっては最も遠く攻撃しにくいため、反撃の体制を整えるための時間稼ぎができるわけですね。

他方、東京湾の入口にあたる横須賀(よこすか)や館山(たてやま)も、入り組んだ入江の地形に位置するので、海軍の基地になりやすかったわけですね。
それは複雑な地形自然のバリヤーの役割を果たすからです。
これを「天然の良港」といいます。

つまり、首都・東京に攻め込まんとする外国船が東京湾に侵入しようものなら、まず入口にあたる横須賀・館山で滅多打ちに叩きます。ここで横須賀・館山が戦ってくれている間に、万一の場合に備え、船橋・習志野では充分な反撃体制を整えるわけです。しかし横須賀・館山が攻略され乗っ取られたら、次は木更津などで、最終的に船橋習志野で迎え討つことになるのです。そして、東京湾を挟む三浦半島房総半島には、沿岸部のあちこちに砲台がありました(今でも砲台跡があります)。

しかし太平洋戦争(大東亜戦争)末期にもなると、時代は戦艦よりも戦闘機爆撃機の時代となっていたため、こうした高高度を飛ぶ戦闘機・爆撃機に対してせっかく配備した大砲の弾が届かないなど、日本軍はかなり苦戦したことと思います。

習志野津田沼)には、「折れ曲がった線路」がよくあります。
それは、新京成線のルートに顕著にあらわれています。
それだけ曲がりくねっている理由は、軍隊の運転の練習のためだったとされています。

習志野にはかつて鉄道に関する軍隊が存在し、その役割は敵国の鉄道を破壊したり、また敵国に上陸した際に鉄道を建設するという役割がありました。現代の軍隊は戦闘機戦車などがメインですが、明治~昭和初期の世界ではまだまだ鉄道がメインの移動手段であり、兵隊・武器・食糧など何を運ぶにも鉄道はとても重要なインフラでした。逆をいえば、鉄道が無いばかりに敵国に兵隊・武器・食糧を送れなかったら味方が全滅してしまい国が敗北・滅びるリスクまでありました。なので鉄道の有無は、国家の存亡にかかわる重大事項だったのです。その鉄道に関する重要拠点もまた、習志野だったのです。

千葉県船橋市(ふなばしし)は、千葉県第二の大きな街になります。船橋市は東京にも近く、また総武線快速があり都心部へのアクセスがとてもよいので、県庁所在地の千葉市よりもむしろ東京に通学・通勤するという、いわゆる「千葉都民(ちばとみん)」が多いといえます。

このように、千葉県に住んでいつつも東京都に通勤・通学する「千葉都民」が一般的になってきた理由として、やはり船橋・習志野・市川といった地域が、鉄道(主に総武線快速)の発展・スピードアップによって東京へのアクセスが向上したのが理由といえます。また、常磐線(じょうばんせん)の快速でも都心へのアクセスが便利な千葉県松戸市(まつどし)・柏市(かしわし)といった地域も、県庁所在地の千葉市よりもむしろ東京都心への指向性が強いため、「千葉都民」にあたる人々多いエリアとなります。もちろん、埼玉県や神奈川県に住んでいるものの東京に通学・通勤する「埼玉都民」「神奈川都民」や、滋賀県・奈良県に住んでいるものの大阪府・京都府へ通学・通勤する「滋賀府民」「奈良府民」と呼ばれる存在の人々もあります(Wikipediaに載っていて、ある程度は世間で認知されていると思われるものを選びました)。

ただ、これらの「千葉都民」などのフレーズは(Wikipediaには載っており、メディアや報道などでも使用例はあるものの)正式に世の中に認められた用語ではなく、どちらかというと俗語に近いので、日常会話ではあまり多様しない方がよいでしょう。あまり親しくない人に対して「あなたは千葉都民ですよね?」などという感じで会話すると(受けとる側の人によっては)失礼にあたる可能性があるので、控えた方がいいでしょう。「千葉都民」などの用語はあくまで地理・経済を考察するための豆知識として知っておいてください。

船橋市の由来は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)船で造った橋」に由来します

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)古事記などの日本神話に出てくる戦いの神様であり、第12代天皇である景行天皇(けいこうてんのう)の息子にあたります。この父の景行天皇に命じられて、地元の大和国(やまとのくに。現在の奈良県)を出発して東国(とうごく。つまり関東地方)の遠征に出たのでした。

日本武尊の東国遠征については、以下の記事でもわかりやすく解説しているので、ご覧ください。

房総半島一周の旅6 袖ヶ浦・木更津・君津・富津を進む 日本武尊にゆかりある海の地域

大和国を出発して東へ東へ進み、まるでRPGのようにモンスターや敵を倒しながら神奈川県の三浦半島に到達した日本武尊は、命からがらなんとか東京湾を渡って房総半島へ上陸します。

その日本武尊が、現代の船橋市に流れる海老川(えびがわ)にさしかかったとき、川をわたるときに船で橋を作ったことから船橋の由来となりました。

また、海老川(えびがわ)の由来も、源平合戦のときに房総半島に上陸していた源頼朝(よりとも)に対して、村人がエビを献上したことに由来しています。源頼朝も、日本武尊のように房総半島に上陸していた時期があったのです。源頼朝の房総半島上陸については、以下の記事でもわかりやすく解説しているので、ご覧ください。

房総半島一周の旅8 源頼朝ゆかりの地、安房勝山へ はるばる海を渡ってきた土地

このように、日本の各地には日本武尊に由来する地名がたくさんあります。その一つに、静岡県焼津市(やいづし)があります。日本武尊に由来する地名については、以下の記事でもわかりやすく解説しているので、ご覧ください。

鉄道唱歌 東海道編 第22番 焼津はマグロの漁獲量トップクラスの街 日本武尊ゆかりの地

習志野・船橋といったエリアではどんどんニュータウンが開発されてゆき、東京に近く便利で住みやすい街となっていっています。それは家族一家で住みやすく、子育てもしやすいような施設や仕組み(病院・公園・診療所・広く住みやすい住居・育児関連の補助金の制度など)が整えられてゆき、まさに東京のベッドタウンという役割も果たしているでしょう。

船橋市は、その地方のマスコットキャラクターである「ふなっしー」も人気です。

次は、市川駅(いちかわえき)に止まります!

注意
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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