総武本線および江戸川(江戸川区)の地理・歴史などを、わかりやすく解説してゆきます!
旅行初心者の方にも、やさしく解説してゆきます!
今回は、千葉県から東京へ戻る工程へ
今回は千葉県の旅をめでたく終え、東京へ戻ってゆく行程となります。
江戸川・荒川・隅田川を渡り、錦糸町・両国・浅草橋という地域に至ります。
千葉駅→稲毛駅→新検見川駅→幕張駅→津田沼駅→船橋駅→市川駅→(江戸川)→新小岩駅→(荒川)→平井駅→亀戸駅→錦糸町駅→両国駅→(隅田川)→浅草橋駅→秋葉原駅
※上記は全ての駅ではなく、スペースの都合上筆者が独断でピックアップしたもの
※錦糸町駅からは「支線」扱いであり、運転系統は「中央・総武線」となる
市川駅を出て、東京都に戻ってくる
前回に引き続き、市川駅(千葉県市川市)を過ぎると、再び東京都へ戻ってきます。
また、市川駅を出ると、千葉県と東京都の県境をなす江戸川を渡ります。
久しぶりの東京都
この江戸川を渡ると、東京都に入るわけです。
今回の旅では、本当に久しぶりの東京都ということになります。
思えば葛西臨海公園駅(東京江戸川区)を過ぎて、東京ディズニーランドの最寄駅である舞浜駅(千葉県浦安市)に入ってから以来ですね。
その時の記事は房総半島の旅の第2回になりますので、まだ見られていない方は以下の記事を是非ご覧ください。
房総半島一周の旅2 葛西臨海公園に到着!東京の貴重な海の景色 そして飛び交う飛行機
江戸川区の行程へ
ちなみに江戸川区という地名は、言うまでもなく、その名前の通り、江戸川区の東側を流れている江戸川に由来しています。
江戸川区は、都心へのアクセスも比較的良い地域になります。
それに加えて公園も多いことから、ファミリー層(家族持ちの人々)に人気のあるベッドタウンとして発展してきました。
「江戸川乱歩」「江戸川コナン」とは無関係
小説家・江戸川乱歩の名前は、アメリカの作家エドガー・アラン・ポーに由来しています。
なので、今回の江戸川とは無関係です。
(もちろん、江戸川コナンも無関係。)
江戸川乱歩は、ポーの作品を敬愛しており、その名前をもじって「江戸川乱歩」と名乗るようになりました。
江戸川乱歩の本名は、平井太郎 です。
江戸川乱歩の作品は、名探偵・明智小五郎が有名です。また、少年探偵団などが登場します。
江戸川
かつては渡良瀬川の下流部分だった、江戸川
江戸川は、元々は栃木県を流れる渡良瀬川の下流部分であり、その下流部分は太日川という名前でした。
渡良瀬川とは、主に栃木県を流れる川です。
つまり栃木県を流れる渡良瀬川は、下流部分で太日川と名前を変え、東京湾に注いでいたのです。
江戸時代に、ルートが東に付け替えられた利根川
ちなみに現在の渡良瀬川は、茨城県古河市のあたりで利根川と合流して、東の銚子へ注いでいます。
これは江戸時代になって、銚子へと注ぐように、東へと(幕府による工事によって)大きくルートを変更されたことが理由です。
これを、利根川東遷事業といいます。
銚子と利根川の関係については、以下の記事でも解説しておりますので、ご覧ください。
東京湾に注ぐ江戸川
現代の江戸川は、
- 茨城県南部の境町のあたりで、
- 利根川と分岐して南へ流れ、
- やがて東京湾に注ぐ
という川になります。
つまり渡良瀬川は、いったん利根川と合流し、さらに江戸川と分岐することになります。
そのため、現在でも渡良瀬川は(トータルでは)江戸川となって東京湾に注ぐ川である、ともいえます。
すなわち、
- 「利根川を間に挟むか」
を省けば、江戸時代までの(先述の)太日川とよばれていた時期と同じで、東京湾に注ぐ川です。
洪水被害の防止などの理由で、川の付け替えが行われた江戸時代
このように江戸時代には、
- 人々を洪水の被害から救うため
- 舟による水運(荷物を運ぶこと)で、舟が関東地方を自在に行き交うことができるようにするため
川のルートが人為的な工事によって、たくさん変更されているのです。
ここでは、江戸時代以前と現在では川(渡良瀬川・利根川・江戸川)のルートが異なっていた、ことを知っておくとよいでしょう。
荒川を渡る
東京都に入るとほどなくして、
- 小岩駅(東京都江戸川区)
- 新小岩駅(東京都葛飾区)
と過ぎます。
新小岩駅を過ぎると、荒川を渡ります。
元々は、荒川の一部だった隅田川
荒川は、元々は現在の隅田川でした。
つまり現在の隅田川は、明治時代までは「荒川」だったのです。
そこに新たに「荒川放水路」という、洪水に備えたより大きく真っ直ぐな川が作られて、そちらが荒川の本流となったわけでした。
放水路とは、洪水に備えて一時的に水を退避させるための、人工的な川です。
後にできた放水路の方が、荒川の本流となった
その荒川放水路が明治時代に出来たことに伴い、後から出来た放水路の方がメインの「荒川」という扱いとなりました。
そして、元々メインだった方の荒川は、後に「隅田川」に改められたのです。
荒川放水路ができるきっかけとなった「明治43年の大洪水」
ではなぜ荒川放水路が作られたのかというと、明治43年(1910年)に大規模な氾濫をおこし、甚大な被害が出てしまったことがきっかけです。
詳しくは、以下の記事をご覧ください。
鉄道唱歌 奥州・磐城編 第3番 赤羽を過ぎて、荒川の橋を渡る
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