総武本線および墨田区の観光・地理・歴史を、わかりやすく解説してゆきます!
旅行初心者の方にも、やさしく解説してゆきます!
今回は、墨田区の行程へ
前回は、
- 千葉県から東京都へと久々に戻ってきて、
- 江戸川区を過ぎゆく
という行程について解説してきました。
今回は、主に墨田区についての行程になります。
千葉駅→稲毛駅→新検見川駅→幕張駅→津田沼駅→船橋駅→市川駅→(江戸川)→新小岩駅→(荒川)→平井駅→亀戸駅→錦糸町駅→両国駅→(隅田川)→浅草橋駅→秋葉原駅
※上記は全ての駅ではなく、スペースの都合上筆者が独断でピックアップしたもの
※錦糸町駅からは「支線」扱いであり、運転系統は「中央・総武線」となる
江東区→墨田区
江戸川区をさらに西へ、都心部へ進むと、墨田区のエリアに入っていゆます。
平井・亀戸・錦糸町
荒川を渡ると、
- 平井駅(東京都江戸川区)
- 亀戸駅(東京都江東区)
- 錦糸町駅(東京都墨田区)
と過ぎてゆきます。
亀戸は「かめいど」と読みます。
いわゆる難読地名にあたるかもしれないので、「かめど」と読まないように気をつけたいところです。
乗り換え・秋葉原方面へ
錦糸町駅からは、秋葉原方面へと向かうことになりす。
そのため、各駅停車でイエローのカラーである中央・総武線に乗り換えて向かうことになります。
ここで総武線快速にそのまま乗っていると、東京駅に戻ってしまい秋葉原駅に着くことができません。
ただし、もし東京駅まで行ってしまった場合でも、
- 青春18きっぷ
- 北海道&東日本パス
ならば、山手線(または京浜東北線)に乗り換えれば2駅で秋葉原駅に着くことができます。
したがって、東京駅ではなく秋葉原駅に向かいたい場合は、この錦糸町駅で乗り過ごさないようにしましょう。
東京スカイツリー
錦糸町駅のホームからは、東京スカイツリーの姿がとてもよく見えることになります。
高さ634m 今や東京の新たなシンボル
東京スカイツリーは、東京の様々なビルが高層化したため、高さが足りなくなり電波が届きにくくなった影響を受けて、建設されました。
つまり東京スカイツリーは、634mという非常に高いところから、東京都中に(テレビやラジオなどの)電波を届けるために建設されたわけです。
高さが足りなくなった東京タワーに代わって出来た、東京スカイツリー
元々は1958年に出来た東京タワー(高さ333メートル)でも、高さは充分に足りていたのでした。
しかし、時代とともに東京都心部に高層ビルが増えてゆき、タワーが飛ばす電波がビルに遮られるようになったために、スカイツリーができたのでした。
吾妻橋からの、隅田川・スカイツリーの眺め
東京スカイツリーは、隅田川にかかる
- 浅草駅(東京都台東区)
付近の吾妻橋からの眺めがとてもよいです。
写真は、吾妻橋の北にある東武伊勢崎線の線路付近からのものです。

隅田川からの東京スカイツリーの眺め。東武伊勢崎線の付近より。(東京都台東区・墨田区)
高さ634mは、「ムサシ(武蔵)」を意味する
東京スカイツリーの高さは、634mになります。
ムサシ(武蔵)とも読めるため、おぼえやすいですね。
実際、日本人にとって馴染みある名前と合わせるため、あえてこの高さ(634m)になった、ともされています。
武蔵国とは
なお武蔵とは、武蔵国のことをいいます。
現在の
- 東京都
- 埼玉県
- 神奈川県の一部
に該当するエリアのことをいいます。
国とは、奈良時代の律令制におけるエリア分けのことであり、現代の都道府県に該当します。
東京スカイツリーと同じ高さの山
東京スカイツリーと同じ高さの山に、
- 山梨県大月市の岩殿山(標高634m)
- 新潟県の弥彦山(標高634m)
があります。
これらの山の詳細については、以下の記事でも解説しているため、ご覧ください。
中央線鉄道唱歌 第15番 大月の名所・岩殿山 主君・武田勝頼に背いた部下とは
鉄道唱歌 北陸編 第39番 三条からは弥彦線に乗り換え、弥彦神社へ 祈るは国の(皆の)平和のため
錦糸町駅(墨田区)
錦糸町駅は、元々は「本所駅」と呼ばれていました。
現在でも本所という地名が錦糸町駅のやや北に残っています。
松尾芭蕉が「おくの細道」の旅をスタートさせた、深川
本所と南の深川は、1657年に江戸で起きた明暦の大火とよばれる大火災で、住む場所を失った人々が逃れてきたことで、新たに発展してきた歴史ある街です。
深川は、江戸時代に松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅をスタートさせた場所でもあります。
かつての伝馬制に由来する、「馬喰町」
ちなみに錦糸町駅からそのまま南西に向かうと、馬喰町というエリアがあります。
馬喰町は、江戸時代に馬の栄養を与えていたことが由来の町となります。
馬喰町の地名(の漢字)をよく見ると、「馬を食わせる」ですから、確かにわかりますね。
江戸時代の交通手段は馬または徒歩がメインだったため、
- 馬のエサやり
- 疲れた馬の交換・手入れ
- 馬の休憩
などの馬のメンテナンスはとても重要だったのです。
車だったら
- ガソリンを補給したり、
- 傷んだ箇所をメンテナンスしたり、
- 車検を行ったりする
のと同じですね。
同じく伝馬制に由来する、「伝馬町の由来」
近隣にある伝馬町という地名も、やはり馬に関連する地名になります。
伝馬町は、その昔に馬を交換していたことに由来します。
馬は、何10kmも(当時の言い方であれば何”里“も)走ると疲れてしまいます。
そのため、長距離移動するときは「駅」とよばれる場所で、馬の交換をしていたのでした。
「駅伝」という言葉の由来にも
すなわち、「駅」で新しい馬と交換して、引き続き旅・移動を続けるイメージです。
まるでタスキをつないで走る「駅伝」みたいですね。
まるでお正月の箱根駅伝みたいな。
そう、もうお気づきだと思いますが、これが「駅伝」の由来です。
この馬を交換する行為を「伝馬」「駅伝」などのようにいい、先述の陸上競技の一つ「駅伝」の由来となっています。
両国駅(墨田区)に到着
錦糸町駅から中央・総武線で秋葉原方面へと向かうと、やがて
- 両国駅(東京都墨田区)
に着きます。
「両国」とは? 二つの国にまたがる土地
ここで両国とは、武蔵国と下総国の両方の国にかけられた橋である、「両国橋」に由来します。
- 武蔵国:現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部(横浜市あたりなど)
- 下総国:千葉県の北部
国とは先述の通り、今でいう「都道府県」に該当する奈良時代の律令制におけるエリア分けです。
元々、千住大橋にしか、橋がからかっていなかった
江戸・隅田川には元々、やや北の千住大橋にしか、橋がかかっていませんでした。
それは恐らくですが、軍事的な理由が考えられます。
- 全国各地の江戸幕府に不満を持つ大名が反乱を起こし、江戸に攻めて来ないようにするため
があります。
また、当時の橋は、ひとたび大雨・洪水が起きると、何度もかけても流されていたのでした。
そのため、
- 当時の川は、今ほど真っ直ぐでなく氾濫しやすかったこと
- 橋そのものの耐久性や、技術面もあまり良くなかったから
などの理由があります。
江戸初期「明暦の大火」という大火事
しかし江戸時代初期の1657年に、明暦の大火という大火事がおこりました。
先述の通り、両国の隅田川には橋がかかっていなかっていませんでした。
そのめに、火災が起きても人々は川を渡ることができず、多くの人々が火に巻き込まれてしまい、10万人もの尊い命が奪われてしまいました。
それを幕府が反省したことによって、隅田川へ新たにかけられた橋が、両国橋というわけです。
江戸で2番目にできた両国橋
両国橋は、千住大橋に次ぐ江戸で2番目にできた橋ということになります。
千住大橋も、現在の隅田川にかかる、やや北にある橋です。
千住大橋は、江戸時代には単に「大橋」と呼ばれ、江戸で最初にかけられた橋です。
火事を避けるためにできた大きな道「広小路」
こうした大火災からの火をよけるために、広小路とよばれる大きな道路や、火除地と呼ばれる広場が幕府によって設けられました。
つまり、火災がおきたとき延焼(燃え移ること)を防ぐため、より大きな道ができたのです。
この大きな道のことを、広小路というわけです。
その他の広小路の例「上野広小路」
例えば、上野にあるとても大きな道である、上野広小路が有名ですね。
上野広小路も、明暦の大火で起きた火災から逃れるためにできた、大きな道路です。
またこの大きな道路は、上野にある寛永寺に参拝する、たくさんの人々が通るためにも使われてきました。
江戸の歴史は、火事との戦いそのものだった
「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉があります。
江戸(=江戸時代の東京)では、木造建築がメインであり、住宅が密集していたのでした。
そのため、ひとたび火事がおこると、あっという間に燃え移るほどでした。
すなわち、江戸の歴史は火事との戦いそのものといっても過言ではないほどでした。
しかし、一度大規模な火災が起こるたびに、
- 道を広くしていった(広小路)
- なるべく燃え移りにくいような住宅の構造になっていった
- 「火消し」など、消防なとめの技術や組織力が向上していった
など、人々の努力は繰り返されてきたわけです。
享保の改革で知られる徳川吉宗も、江戸の火災対策にも力を入れていました。
相撲の聖地・両国国技館(墨田区)
両国は、お相撲さんの本拠地である国技館が有名です。
「国技」とは?
ここで国技とは、その国の伝統的なスポーツのことをいいます。
例えば、
- 日本では相撲
- カナダではアイスホッケー
- スペインでは闘牛
- アメリカではフットボール
などのようになります。
※アメリカでは野球も非常に重要なスポーツですが、国技とまでは正式に認定されていないようです。
つまり、相撲は日本の国技であり、国を挙げての伝統的なスポーツということになります。
※日本でも、野球の方が相撲よりも人気のスポーツです。
しかし、野球は明治時代以降にアメリカから日本に伝わったスポーツであるのに対して、相撲は後述するように、神話時代から存在するスポーツになります。
そのため、日本の国技は相撲ということになります。
特に両国国技館は、大相撲の東京場所が年に3回開催されています。
そのため、「相撲の聖地」として知られています。
相撲では、その試合が開かれる開催地のことを、「場所」という表現をします。
例えば、大阪で開催される相撲の試合のことは「大阪場所」のように呼ばれます。
相撲の由来・起源となった「大国主命の国譲り」
では、なぜ相撲が日本でこれだけ重要なスポーツなのか。
それは、それは古事記などの日本神話に、その起源が確認できるからです。
つまり相撲の起源は、先述の通り「古事記」などの日本神話にさかのぼります。
それは「大国主命の国譲り」というエピソードにおける、大国主命と天照大神の戦いに由来します。
このとき、
- 「タケミナカタ(大国主命側)」
- 「タケミカヅチ(天照大神側)」
という神様が戦いました。
この戦いがまさに力くらべであり、相撲のようでした。
この戦いで、大国主命側が敗北したことで、天照大神に日本という国をゆずったというエピソードです。
これにより、天照大神と神武天皇を祖先とする、日本の天皇による世の中がはじまったのでした。
また、敗北したタケミナカタは長野県の諏訪に封じ込まれ、これが長野県諏訪市の諏訪大社の起源ともなりました。
さらに詳しいことは、以下の記事でもわかりやすく解説しておりますので、ご覧ください。
中央線鉄道唱歌 第32番 軍神・タケミナカタの鎮座する、諏訪大社の上社
両国に存在する、江戸東京博物館
また、両国には江戸の文化についての展示が豊富な「江戸東京博物館」があります。
とても勉強になるため、訪れる価値は非常に大きいです。
吉良上野介の邸宅があった両国
両国は、47人の赤穂義士によって敗れた吉良上野介の邸宅があった場所になります。
地元の兵庫県赤穂市で、ボス(浅野長矩/あさの ながのり)を殺され(自害に追い込まれて)しまった47人の赤穂義士たちは、両国の吉良邸に侵入し、討ち入りを果たしました。
これにより、吉良上野介は滅ぼされてしまいました。
赤穂義士についての詳しくは、以下の記事をご覧ください。
鉄道唱歌 山陽・九州編 第9番 相生駅から、47人の赤穂義士ゆかりの地へ
墨田区・台東区の間を流れる、隅田川
隅田川は、墨田区・台東区の間を流れている川です。
隅田川は、滝廉太郎の「花」という曲で有名ですね。
滝廉太郎は、他にも
- 「荒城の月」
- 「箱根八里」
などの曲で知られます。
浅草橋駅(台東区)に到着
両国駅を過ぎると、隅田川を渡り、
- 浅草橋駅(東京都台東区)
に着きます。
今回の旅のゴールである秋葉原はもうすぐそこです。
浅草橋における、柳橋とよばれる花街
浅草橋には、柳橋とよばれる花街がありました。
花街とは、いわゆる遊郭で構成される街ということになります。
遊郭とは、ダイレクトにいえばお金を払って女性との●行為をやらせてもらえる、というお店のことです。
ただ、遊郭は風紀を乱しやすい(性病も蔓延しやすくなる)ということで、江戸時代では吉原遊郭しか、幕府によって公認されていませんでした。
幕府非公認の遊廓「岡場所」
しかし、吉原遊郭は、実際に女性と体の関係に至るまでには、様々な手続きが必要となり、面倒なものだったのでした。
しかも、江戸の中心地からやや離れていたこともあり、立地的に不便で料金も高く、手軽さに欠けていたのでした。
そのため、あちこちに「岡場所」と呼ばれる(より便利で安くて手軽な)、幕府非公認の遊郭が存在していたのでした。
非公認の遊郭は、幕府も黙認していた
もちろん幕府も、こうした非公認の遊郭(岡場所)の存在には気づいていたでしょう。
しかし、何でもかんでも取り締まってしまうと、世の中の男性たちの性欲の捌け口が無くなってしまうことになります。また、生活に切羽詰まった女性たちにとっても、遊廓が無くなると稼ぎ口が無くなってしまい、かえって治安が悪化するリスクも懸念されました。
幕府にとっては、それによって暴動などがおきるよりは、下手に取り締まったりするよりは遥かにマシだったのでした(鎮圧するにも幕府にとっても多大なコスト)
こうした事情もあり、おそらく幕府としては(表向きは禁止しつつも)、非公認の遊廓の存在を黙認していたということでしょう。
厳しい改革で、江戸の遊郭は取り締まられた
しかし、
- 「寛政の改革」で有名な松平定信
- 「天保の改革」で有名な水野忠邦
らは、これらの改革でやたら厳しい規制を行ったため、こうした岡場所をどんどん取り締まってゆき(エ●本も取り締まった)、人々の楽しみを奪ってゆきます。
したがって、こうした厳しい改革による取締りから逃れてきた人々(つまり女性)が、花街を形成して出来たのが、浅草橋の柳橋ということになります。
厳しすぎた松平定信の政治
ちなみにこうした厳しい改革への批判は、
という歌に代表されます。
田沼とは、松平定信よりも前に政治を行っていた老中・田沼意次のことをいいます。
この歌の意味は、あまりにキレイ過ぎる川では魚は生きていけない(例えば、もし害虫を全部駆除してしまったら、その害虫を食べる動物も生きていけなくなり生態系が乱れるのと同じ)、何でも厳しすぎる世の中はかえって生きづらい、といった内容を歌っています。
江戸時代の遊郭のスペシャリスト・藤本箕山
ちなみに超余談ですが、江戸時代には藤本箕山と呼ばれる、日本中の遊郭を旅してまわったという遊郭のスペシャリストがいました。
現代で例えるならば、遊郭系YouTuberとなっていたでしょう。
元々家が大金持ちだった彼は、遊郭での女性との時間に感動し、すべての財産を遊郭につぎ込んでしまいあっという間に財政破綻してしまいました。
もちろん周囲の人々からは馬鹿にされます。
しかし彼は遊郭通いを決して諦めず、不屈の精神で日本の津々浦々の遊郭を探訪し、「色道」として遊郭の素晴らしさを極めます。
そして長年の遊郭通いの経験から、色道を極めた藤本箕山は、「色道大鏡」という遊郭大百科を制作・完成させるという、前代未聞の偉業を達成させています。
江戸時代にはとてもユニークな才能を持った天才がいたのだと思い知らされますね。
次回で最終回 秋葉原駅へ
浅草橋駅を出ると、今回の旅のゴールであら秋葉原駅に至ります。
次で房総半島一周の旅シリーズは最終回であり、秋葉原の話題となります!
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