那須をはじめ、栃木県北部の鉄道旅・観光・歴史について、詳しくない方にもわかりやすく解説してゆきます!
冬の北海道への旅シリーズ第2回は、宇都宮駅から那須(なす)方面へ向かう行程となります!
宇都宮駅(宇都宮市)に到着!
朝早く東京を出たため、ひと休み
列車は前回で、宇都宮駅(うつのみやえき、栃木県宇都宮市)に到着しました。
朝早くに東京を(宇都宮線で)出発してきたので、午前9時台に到着する宇都宮ではしばしの休憩となります。
餃子(ぎょうざ)の名所・宇都宮
宇都宮は餃子(ぎょうざ)の街として知られます。
なぜ宇都宮は、餃子の町なのか?
なぜ宇都宮が餃子の街なのかというと、戦争中に満州(まんしゅう)に常駐していた兵士たちが、戦争が終わって日本に帰ったときに、満州で食べていた(おいしかった)餃子の味が忘れられずに日本へ持ち込んで広めた、ということが起源とされています。
大谷石でできた、宇都宮駅前の餃子の像
宇都宮駅前の餃子像(ぎょうざぞう)は、宇都宮の名産である大谷石(おおやいし)で出来ています。
大谷石(おおやいし)は、宇都宮の歴史的な名石であり、江戸や東京の様々な建物(高級な建物も含む)の材料に使われてきた名高い石材のことをいいます。
大谷石については、以下の記事でも解説しておりますので、ご覧ください。

「徳川埋蔵金」とは?栃木県にも眠っているといわれる伝説のお金
栃木県と群馬県には、「徳川埋蔵金(とくがわまいぞうきん)」という謎の巨額のお金が埋まっているという伝説があります。
徳川埋蔵金(とくがわまいぞうきん)とは、江戸時代の終わり(幕末)に、徳川家が隠して埋めたとされる巨額のお金のことです。
明治政府が出来たばかりの頃はまだ政府もお金が無く、それまで幕府の持っていた(であろう)巨額の御用金(ごようきん)に頼ろうとしていました。
御用金(ごようきん)とは、何か緊急のときに補助的に使われるための金のことです。
しかもその財源は身分の低い町人や農民に対してやや強制的に課したお金だったりします。
しかしその御用金が、かつて幕府の財政を担っていた勘定奉行の小栗忠順(おぐり ただまさ)という人物にによって持ち逃げ(トンズラ)されてしまうという流言(りゅうげん:つまり、デマのこと)が流れます。
しかも噂によれば「彼があそこに巨額の金を持ち運んでいたぞ!」などの様々な目撃証言からそれが人々に信じられてしまったことで、群馬県・栃木県のどこかに(お金が)埋められてしまったという設定が誕生することとなりました。
しかもその額は約400万両、現在の価値にして約20兆円ともいわれます。
現代の国家予算(約100兆円)の5分の1ですね。
単なる都市伝説の域に過ぎないのですが、各地で発見・出土・発掘された豪華な品物や、先述の「誰かが埋蔵金を持ち運んで埋めていた」などといったさまざまな根拠や証言から、その存在が真しやか(まことしやか)に信じられてきました。
結局、徳川埋蔵金はどこにある?
では、徳川埋蔵金はどこにあるのか。
所在地の候補として最も有力なのが、群馬県の赤城山(あかぎさん、標高1,828m)にある、という説です。
また、栃木県の日光(にっこう)や、群馬県の妙義山(みょうぎさん)なども有力候補とされています。
そして今でも徳川埋蔵金の存在を信じる人たちがこの巨額のお金を堀り当てようと、赤城山をはじめとして大規模な発掘調査が行われたり、その様子がメディアでも報道されてきました。
しかしいずれも発見には至らず、失敗に終わっています。
このように、人々の度重なる懸命の努力(?)むなしく、徳川埋蔵金の存在は未だに確認されていないのです。
あなたは徳川埋蔵金の存在を信じるでしょうか。
宇都宮駅を出発!黒磯方面へ 岡本駅・鬼怒川・宝積寺駅・氏家駅を過ぎ行く
休憩を終えて、宇都宮駅を出発します。
宇都宮駅からは、以下のように過ぎてゆきます。
岡本駅
・岡本駅(おかもとえき、栃木県宇都宮市)
宇都宮の一つ隣の駅として、この駅を過ぎるたびに個人的にいつも印象に残っている駅です。
私は岡本駅を過ぎる度に、「岡本駅周辺に暮らしている人なら、きっと宇都宮までの通勤・通学・買い物などが便利なのかなぁ」、などと思ったりしています。
まぁ、それは逆側の雀宮駅(すずめのみやえき、栃木県宇都宮市)でも同じことが言えますが(^^;)
鬼怒川を渡る
・鬼怒川(きぬがわ)
岡本駅を過ぎると渡る、大きな川です。
北関東では、
- 利根川(とねがわ)
- 渡良瀬川(わたらせがわ)
などと同じくらい重要な川です。
関東の奥座敷(おくざしき)・温泉街として知られる鬼怒川温泉(きぬがわおんせん)から流れ出る川です。
宝積寺駅
・宝積寺駅(ほうしゃくじえき)
烏山線(からすませんと)との分岐駅になります。
烏山線は、栃木県那須烏山市(なすからすやまし)の烏山駅(からすやまえき)に至る路線です。
烏山駅から先は行き止まりで、宝積寺駅から「ニョロッ」と出た形の路線のため、「盲腸線(もうちょうせん)」と呼ばれます。
ちなみに宝積寺(ほうしゃくじ)というお寺は京都の大山崎町(おおやまざきちょう)にあるお寺であり、栃木県には「宝積寺」というお寺は現在は存在しないようです。
氏家駅(さくら市)
・氏家駅(うじいええき)
栃木県さくら市の駅です。
さくら市は、2005年に
- 氏家町(うじいえまち)
- 喜連川町(きつれがわまち)
が合併してできた、新しい市になります。
千葉県の佐倉市(さくらし)とは読み方が同じですが、無関係になります。
栃木県出身のお笑いコンビ・U字工事の出身地・大田原市と西那須野
矢板駅(やいたえき、栃木県矢板市)を過ぎると、
- 野崎駅(のざきえき、栃木県大田原市)
- 西那須野駅(にしなすのかき、栃木県那須塩原市)
に着きます。
栃木県大田原市(おおたわらし)と西那須野町(現:那須塩原市)は、お笑いコンビ・U字工事(ユーじこうじ)の出身地になります。
U字工事の由来は、高校のときの同級生が、何気に黒板に落書きした「U字工事」というフレーズから来ているそうで、決して「ゆうじ」「こうじ」が本名だというわけではありません。
ツッコミ担当の福田薫(ふくだ かおる)さんは西那須野出身、ボケ担当の益子卓郎(ましこ たくろう)さんは大田原市出身です。
塩原温泉についての知識
箒川(ほうきがわ)と、塩原温泉郷
先述の野崎駅(のざきえき)の手前では、箒川(ほうきがわ)という、変わった名前の川を渡ります。
箒川(ほうきがわ)はユニークな名前の川ですが、その由来はいくつか説があります。
(1)洪水のときに川の水が周辺地域を水浸しにしてしまい、まるで箒(ほうき)のように周辺地域を洗い流してしまったから、箒川(ほうきがわ)となった、という説
(2)法(仏様の教え)に対して喜ぶ川→法喜川(ほうきがわ)→箒川(ほうきがわ)となった、とする説
箒川は、塩原温泉郷(しおばらおんせんきょう)から流れ出てくる川です。
西那須野駅(にしなすのえき、栃木県那須塩原市)からは、その塩原温泉郷(しおばらおんせんきょう)に至る塩原街道(しおばらかいどう)という名前の道路が通っています。
塩原温泉は歴史ある温泉なので、昔の人々が塩原温泉へ向かうために通っていた道ということですね。
西那須野から西へ約20kmほど山奥に行くと、その塩原温泉郷という伝統的な温泉街があります。
鉄道唱歌 奥州・磐城編 第15番でも、
温泉わずか五里(=約20km)あまり」
と歌われていますね。
この歌詞については、以下の記事でも解説しておりますので、ご覧ください。

大正天皇にも愛された、塩原温泉郷
塩原温泉郷(しおばらおんせんきょう)は、平安時代の西暦806年に、ある僧侶がその深い山の中に入って、お湯を発見したという、いわゆる開湯伝説(かいとうでんせつ)からその歴史が始まっています。
開湯伝説(かいとうでんせつ)は、例えば
というストーリーとなっていることが一般的です。
これと同じようなストーリーは、弘法大師・空海(こうぼうだいし・くうかい)などのお坊さんによる発見のものが全国各地に多くあります。
つまり、そのお湯を最初に発見したお坊さんは空海であることが多いといえます。
例えば、伊豆・修善寺(しゅぜんじ)の、独鈷の湯(とっこのゆ)など。
空海は真言宗(しんごんしゅう)の布教のために、全国を行脚(あんぎゃ:旅すること)したいたので、その時に各地で温泉を発見した、という伝説があるのです。
※ただし塩原温泉郷は空海の発見ではなく、あくまで別のお坊さんによる発見になります。
こうした知識を知っておくとその地域の温泉の歴史を理解するのに便利になるので、覚えておくとよいでしょう。
箒川の景色が作る、那須塩原郷の温泉街の景観
塩原温泉郷のど真ん中を流れている川が、先述の箒川(ほうきがわ)という川になります。
この温泉街の真ん中を流れる箒川が、とても風流で「ザ・温泉街」といった景観を作り出しているわけですね。
川の水が地面を削って深くなることで、いわゆる「峡谷」ができるわけです。
この峡谷の中の狭い平地に、所狭し(ところせまし)と温泉旅館やホテルなどが建ち並び、温泉街が形成されているというわけです。
尾崎紅葉「金色夜叉」の起草がなされ、また舞台ともなった塩原温泉郷
塩原温泉郷は、金色夜叉(こんじきやしゃ)というストーリーで有名な、明治時代の尾崎紅葉(おざきこうよう)という作家にゆかりある土地です。
尾崎紅葉は、塩原温泉の清琴楼(せいきんろう)という温泉宿でこの小説の草稿(原稿を書くこと)を行いました。
舞台のメインは静岡県の熱海(あたみ)なのですが、物語のラストが塩原温泉に移るという形になっています。
大正天皇にも愛された、塩原温郷
また、塩原温泉郷は皇太子時代の大正天皇にも気に入られ、御用邸(ごようてい)が出来ました。
塩原御用邸(しおばらごようてい)は、大正天皇に(塩原温泉郷が)気に入られたことによって建てられた御用邸です。
御用邸(ごようてい)とは、天皇陛下の別荘のことを言います。
栃木県には、他にも日光(にっこう)や那須(なす)にも御用邸がありました。
塩原と日光の御用邸は現在は廃止されていますが、那須の御用邸は現在でも皇室の御用邸として使われており、天皇陛下ご一家が夏になると那須御用邸でご静養されたりしています。
大正天皇の御用邸として、他にも静岡県の沼津御用邸(ぬまづごようてい)などもあります。
大正天皇は幼い頃から病弱だったため、少しでも夏が涼しくて景色のいい、風光明媚な地域が御用邸の場所として選ばれたのでした。
明治時代の那須の発展を支えた、那須疎水
那須地域は明治時代、
- 会津(あいづ:福島県西部)~東京間
の交通の強化を図るため、明治時代に「那須疎水(なすそすい)」ができたことにより開拓(かいたく)され、発展してゆきました。
開拓(かいたく)とは、未開の(誰の手もつけられていない)何にもない土地を、人々の手によって土地・畑を耕し、水を通し、生産ができて利益を上げられるための土地にすることをいいます。
明治時代までの那須地域は「手にすくう水なし」と呼ばれたほど水不足だったので、人工的に川を作って、近隣の那珂川(なかがわ)という川から飲み水を引っ張ってきたのでした。
あと、この人工的な川(疎水)のもう一つの役割として、「水運」がありました。
鉄道が一般的になる以前の明治時代には、舟に荷物を載せて運ぶのが一番効率が良かったからですね。
しかし明治時代になって、現在の東北本線の原型となる「日本鉄道」という会社が鉄道を敷いていってからは、交通のメインは水運から徐々に鉄道に移っていくこととなりました。
江戸時代の終わりから、蝦夷地(北海道)強化のため、栃木県・那須を往来する人々が増えた
日本は江戸時代の末期(1800年代)からロシアの「南下政策」におびえるようになりました。
南下政策とは、ロシアが凍らない港(不凍港/ふとうこう)を求めて、暖かい南の地域に進出してくることです。
ロシアは真冬はマイナス20度の極寒は当たり前なので、海が凍ってしまって軍艦が出せないからですね(そうなると、ロシアが先に他国の軍艦に攻められてしまう)。
しかしそうなると日本にとっては脅威なので、最もロシアに攻められる可能性の高い蝦夷地(えぞち:北海道)の防衛のために、江戸(東京)~蝦夷(北海道)の往来が急増するようになります。
すると、この栃木県や福島県を通る人々の数も増えるようになりました。
そうなるとこの那須地域も発展させていく必要があるため(さすがに何もない土地じゃマズいですよね)、那須疎水による開拓によって(生活に必要な)水が行き渡るようになり、発展してきました。
左に見える、那須高原と那須の山々
那須塩原駅(なすしおばらえき、栃木県那須塩原市)の辺りから徐々に、窓の左側には白い雪をかぶりはじめた那須の山々が姿を表してきます。
その那須岳(なすだけ)の中でも最も高い茶臼岳(ちゃうすだけ)は、標高1,915mもある、かなり高い山になります。
それだけ高い山だと、冬の時期になると山の上には雪を被ってくるわけです。
新幹線の駅名から決まった、「那須塩原」の市名と、市名決定に至る論争の歴史
那須塩原市(なすしおばらし)は2005年に合併して出来た新しい市ですが、その新しい市名を決める際に、元々存在した那須塩原駅の駅名が(その周辺の地域のイメージとして)すっかり定着していたことから、
「駅名→市名」
になったという珍しいケースになります。
その那須塩原駅も、1982年の東北新幹線開業に合わせて、
ということで出来た名前です。
元々、那須塩原駅は「東那須野駅(ひがしなすのえき)」という名前だったのでした。
しかし、新幹線が止まる相応しい駅名を考えるときに「那須塩原駅」の駅名に決定するまで、かなり論争に論争を重ねて揉めるという歴史の上に出来た駅名です。
例えば、単に「那須駅」という名前だと「塩原温泉郷」のネームバリューが生かせないから「塩原」のフレーズも駅名に入れて欲しい、などの理由です。
那須塩原(なすしおばら)の名前決定のエピソードについては、以下の記事でも解説しているため、ご覧ください。

那須高原の「殺生石」
那須塩原駅・黒磯駅の西にある那須高原(なすこうげん)の那須湯本(なすゆもと)には、殺生石(せっしょうせき)という謎の伝説の石があります。
私(筆者)が那須の殺生石に行ったときのレポートについては以下の記事でも解説しています。

殺生石に関しては、以下の記事でも既に紹介していますので、ご覧ください。

黒磯駅でちょっと休憩!
宇都宮駅から約1時間かけて北上してきた列車も黒磯駅(くろいそえき)止まりであり、ここで乗り換えのために降りることになります。

黒磯駅にて少し休憩!(栃木県那須塩原市)
黒磯駅(くろいそえき、栃木県那須塩原市)ではちょっと乗り換え待ちの休憩時間があるため、待合室で少し自販機休憩をします。
ここから福島県・新白河駅(しんしらかわえき)までは飲み物を買う機会があまりないので、ここで購入しておきます。
黒磯駅は直流・交流の切り替え点
黒磯駅は、いわゆる「直流」「交流」の切り替え点となります。東北本線では「交流」の区間となるからです。
電車はいうまでもなく「電気」で走っているわけですが、その電気には「直流」「交流」の二種類があります。
それぞれ長所・短所があるので、その状況や地域によって使い分けられているわけです。
首都圏からここ(黒磯駅)までの区間は「直流」方式でやってきたわけですが、ここから北の、東北地方では「交流」となります。
直流電化のメリット・デメリット
直流電化ではたくさんの「変電所」を必要とするため、その変電所の(設備や人件費などの)ために維持・管理コストがかかります。
変電所とは、直流の電圧を下げるための設備のことをいいます。
発電所で作られた電気は、約50万ボルトというありえない高さの電圧で送られてくるため、まともにこの電圧で使うと感電や大火災などの事故につながってしまいます。
なぜこんな高い電圧で送るのかというと、遠ければ遠くなるほど電圧が弱くなるという「電圧降下」という現象が起こるからです。
これは水道を流れる水に例えると、初めは勢いよく(高い水圧で)流さないと遠くまで流れてくれない、というのと同じです。
最初はそれだけ高い電圧で流すため、各地の「変電所」とよばれる設備で徐々に電圧を下げ、数百~数千ボルトなどの実用的な電圧に下げて、家庭・家電や電車などに供給されているというわけです。
交流電化のメリット・デメリット
一方、交流電化は変電所を(直流電化ほどは)必要としません。
なぜかというとトランス(変圧器)で電圧の増幅が行える(いじれる)ため、直流に比べて電圧のロス(電圧降下)の影響を受けにくくできるためです。
なので交流電化は、変電所をたくさん建てたり維持管理しなくてよい分、コストがかかりません。
しかし車両本体に変圧器を積む必要があるため、車両一体あたりのコストが上がるというデメリットが(交流電化には)あります。
結局、直流と交流、どっちがいいの?
したがって、列車本数がめちゃくちゃ多い都市部では、車両コストを下げられる直流電化が向いています。
変電所の数も増えますが、利用者の多い都市部では充分に(設備投資の)元が取れるため、問題ありません。
一方、人や列車本数が少ない都市部以外では、交流電化の方がコスパが良いといえます。
なぜ黒磯駅以北は、交流電化なのか
東北地方(黒磯駅以北)では、鉄道の歴史としては比較的遅い1959年になってようやく電化(交流電化)がなされました。
それまでは気動車が走っており、東北地方の電化はずっと遅れていたのです(直流電化すらなされていなかった状況でした)。
やはり気動車よりも電車の方が(加速・坂道登りの面で)性能がいいですから、輸送量が増える東北本線ではなるべく電化したいところでした。
海外では早い段階(20世紀前半くらい)から交流電化の研究は進められていたのですが、日本で交流電化の研究が進んだのは1950年代に入ってからであり、やや遅れていた感はあります。
1950年代に入ってようやく東北本線でも電化しようと思ったときに、直流電化にすると変電所をたくさん作ることでコストがかかるため、ちょうど研究も進んできた交流電化を採用しよう、ということになったわけですね。
黒磯駅の「デッドセクション」
黒磯駅はここまで解説してきた通り直流・交流区間の境界地点のため、「デッドセクション」と呼ばれる設備が存在します。
デッドセクションとは、そこだけ電気が通らないという区間になります。
直流区間と交流区間の境目に位置するため、そこだけ電気が供給されないという区間となります。
デッドセクションの区間では電気が通ってない(電車に電気が供給されない)ため、その区間では惰性(だせい。加速でスピード出したままの勢い。「慣性(かんせい)」とも)で走ることになります。
黒磯駅を出発、福島県・新白河方面へ
黒磯駅を出ると、那須町(なすまち)の黒田原駅(くろだはらえき)、そして栃木県最北端となる豊原駅(とよはらえき)を過ぎます。

豊原駅(とよはらえき、栃木県那須郡那須町)を過ぎると、福島県との境となる黒川(くろかわ)にさしかかります。
この峠は東北本線最高地点となり、その標高は400mにもおよびます。
豊原駅と黒川については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。


東北本線・移動中の筆者

東北本線・移動中の筆者
ようやく北関東・栃木県の北部に来て、冬であればこのあたりから辺り一面には徐々に雪の景色も出てきます。
そして北国らしく気温も徐々に下がってゆき、福島県に入り、東北地方に入ってきます。
やがて白河の関(しらかわのせき)をも過ぎます。
白河の関については、以下の記事で分かりやすく解説していますので、ご覧ください。

やがて終点・新白河駅(しんしらかわえき、福島県白河郡西郷村)に到着します。

新白河駅(福島県白河郡西郷村)
今回は長くなったので、新白河駅以降は次回に解説します!
終わりに:新白河駅に到着 今回は長くなり過ぎすみません!
今回は一段と長くなり過ぎてすみません。私も執筆作業でヘトヘトになりました(^^; 栃木県の那須・塩原の歴史をたくさん調べてたら面白くなって、夢中になっていました!
ではまた次回お会いしましょう。
コメント