今回は、伊達氏の歴史と、福島・仙台の鉄道旅について、鉄道・観光・歴史に詳しくない方にも、わかりやすく解説してゆきます!
福島駅を出発し、仙台方面へ
福島駅(ふくしまえき、福島県福島市)を出ると、
- 伊達駅(だてえき)
- 桑折駅(こおりえき)
- 藤田駅(ふじたえき)
- 越河駅(こすごうえき)
と過ぎて、宮城県に入ります。
この地域については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

宮城県に入ると、
- 白石駅(しろいしえき)
- 岩沼駅(いわぬまえき)
- 名取駅(なとりえき)
を過ぎて、仙台駅(せんだいえき)に至ります。
この地域については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

というわけで、今回は福島→白石→仙台という行程になります!

仙台駅にて(宮城県仙台市)
伊達氏ゆかりの地 伊達氏の歴史を、わかりやすく解説!
福島県南部は、かつては伊達家の天下だった
福島県伊達市(だてし)は、仙台ではお馴染みの伊達政宗(まさむね)のはるか先祖が、平安時代にこの地を治めていたことに由来します。
福島県の南部(郡山市や須賀川市のあたり)をはじめとする一帯は、戦国時代あたりまでは伊達政宗を始めとする伊達家の天下でした。
秀吉による惣無事令「許可無しに争いをするな」
しかし、政宗は豊臣秀吉による惣無事令(そうぶじれい)に違反し、罰を食らって領土を没収されてしまいます。
惣無事令(そうぶじれい)とは、豊臣秀吉が制定した、「私的に争いを行ってはならない」という決まりです。
つまり、秀吉の許可がなければ、勝手に他の領地に侵攻してはならない、という決まりです。
しかし政宗は、この惣無事令に違反して会津(あいづ)を攻めてゆき、領土拡大を行おうとしました。
また、伊達政宗は1590年に豊臣秀吉が小田原の後北条氏(ごほうじょうし)を攻めた「小田原攻め」に遅れて来たため、これが秀吉の怒りを買ってしまいました。
秀吉の命令に違反、福島の領土を没収された伊達家
伊達政宗はこうした行いにより、
- 福島県の南部~中部の領土を没収される
- 現在の宮城県・岩手県あたりの領土のみを治める大名にさせられる
という「お仕置き(おしおき)」を受けました。
これを奥州仕置(おうしゅうしおき)といいます。
仕置(しおき)とは、罰を与えるという意味であり、現在でも「お仕置き(おしおき)」といいますよね。
伊達政宗は宮城県・仙台のイメージが強いですが、ここまでの話を踏まえると、元々は福島県もメインの領土であったわけです。
領土を拡大しようとしたのが、逆に(秀吉から罰として)領土を取られてしまうという、本末転倒の結果になったのでした。
ただ、これらの経緯により、伊達政宗は現在では初代仙台藩主としてとても有名なわけですね。
北海道の「伊達市」も、伊達家と関係がある?
北海道でも同名の伊達市(だてし)という街があります。
こちらは亘理伊達氏(わたりだてし)という、福島県・浜通りの亘理町(わたりちょう)を拠点にしていた伊達氏が、明治時代に北海道に夢とロマンを求めて移住(入植)したことにはじまります。
伊達市は、洞爺湖(とうやこ)に近い、室蘭本線の上にある街です。
明治時代は、北海道にたくさんの人が移住した
明治時代の北海道は、急ピッチな開拓(かいたく)によって石炭やニシン(魚)などがガッポリ採れるようになったのでした。
しかも、広大な平地・農地を生かして作物がたくさん採れて儲かるようになっていました。
そのため、当時は「北海道に行けば儲かる」というような風潮までありました。
そのため、亘理伊達氏(わたりだてし)が明治時代に北海道に移住した地域が、北海道伊達市になります。
北広島市の場合は?
また、現在の北海道日本ハムファイターズの本拠地である北広島市(きたひろしまし)も、明治時代に広島県の人々が移住したことが由来となっています。
なお、日本ハムファイターズは、元々は札幌市の札幌ドームが拠点でした。
しかし、様々なトラブルにより、札幌市の隣の北広島市に自前(自費)で球場を作って、2023年からは北広島市に拠点を移しています。
北広島市については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

ラブライブ!(Liella!)伊達さゆりさんの場合は?
ラブライブ!スーパースター!!のLiella!(リエラ)の声優である伊達さゆりさんは、宮城県仙台市の出身です。
そのため伊達さゆりさんは、伊達政宗はじめとする伊達家と何らかの関係があるのか、誰もが気になると思います。
羽州街道との分岐点となった、桑折
伊達駅を出ると、次は桑折駅(こおりえき、福島県伊達郡桑折町)に着きます。
桑折(こおり)は、
- 奥州街道(おうしゅうかいどう)
- 羽州街道(うしゅうかいどう)
の分岐点、つまり追分(おいわけ)のあった場所になります。
追分(おいわけ)とは、昔の言葉で「分かれ道」という意味です。
ここから、
- 北東へ進めば、仙台へ向かう「奥州街道」
- 北西へ進めば、険しい蔵王(ざおう)の山・峠を超えて山形(やまがた)へ至る「羽州街道」
ということになります。
江戸時代、参勤交代で使われた羽州街道
羽州街道(うしゅうかいどう)は、江戸時代に山形・秋田の大名が参勤交代で江戸に向かうためによく使われた道路でした。
昔はもちろん新幹線などありませんでしたから、馬と徒歩で約20日もかけて遙々(はるばる)と移動していたわけです。
その途中で止まるための「宿場町」もあちこちに用意されていました。
大名などのエラい人は、「本陣(ほんじん)」という豪華な宿場に泊まっていました。
「桑折」の由来は?
なお、「桑折(こおり)」の由来は、前々回も解説した「郡山(こおりやま)」と同じく、「郡(こおり、ぐん)」から来ているとも言われています。
「郡」とは、「国(くに)」よりも細かいエリア分けのことをいいます。
現在でも「郡」はありますが、当時と違って「郡役場」のようなものは無く、「郡長」のようなトップの人もいません。
かつて源頼朝と奥州藤原氏の軍がぶつかった、国見町
桑折駅を出ると、やがて藤田駅(ふじたえき、福島県伊達郡国見町)に着きます。

藤田駅(福島県伊達郡国見町)
藤田駅(ふじたえき)のある国見町(くにみちょう)は、平安時代末期に源頼朝(よりとも)が奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)を倒すために兵を送った「阿津賀志山の戦い(あつかしやまのたたかい)」の舞台となりました。
阿津賀志山の戦い
阿津賀志山(あつかしやま)は、現代の厚樫山(あつかしやま)のことです。
厚樫山(あつかしやま)は、国見町のやや北にある、標高わずか約285mの低い山です。
1185年に「壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)」で勝利した源氏の源頼朝は、ようやく全国を支配するための役人である「守護・地頭」を各地に置き、これによって全国を支配したかのように思えました。
檀ノ浦の戦いについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

しかし東北地方では、岩手県の平泉(ひらいずみ)を拠点として大儲け・大栄華を誇っていた奥州藤原氏がいました。
もちろん源頼朝はこの奥州藤原氏の存在が気に入らないため、奥州・平泉へ向けて兵を派遣します。
その頼朝の軍と、迎え撃つ奥州藤原氏の軍が激突した大規模な戦いが、この国見町で起きた「阿津賀志山の戦い」になります。
頼朝軍の勝利、奥州藤原氏の敗北
結果は奥州藤原氏の軍の敗北(頼朝軍の勝利)であり、結局、平泉は頼朝の軍に(金色堂などを残して)ことごとく焼き払われ、1189年に奥州藤原氏は滅亡、頼朝は1192年に鎌倉幕府を開いています。
源頼朝と奥州藤原氏の戦いについては、詳しくは以下の記事でもさらに詳しくわかりやすく解説しているため、ご覧ください。

福島県はここまで、やがて宮城県(白石市)へ
藤田駅を過ぎて、越河駅(こすごうえき、宮城県白石市)からは宮城県に入ります。

白石駅(宮城県白石市)

白石城(宮城県白石市)
白石駅を過ぎて、東白石駅(ひがししろいしえき)の辺りからは、左手に美しい白石川(しろいしがわ)の景色が見えてきます。

白石川の景色(東北本線の車窓より)(宮城県
またはるか向こうは、雪のかかった山形県の蔵王(ざおう)の山々が見えてきます。
ここの景色は東北本線の中でもかなり素晴らしい部類に入ると個人的には思っています。
そして
- 大河原町(おおがわらまち)
- 柴田町(しばたまち)
を過ぎ、阿武隈急行線との分岐点である
- 槻木駅(つきのきえき、宮城県柴田郡柴田町)
を過ぎます。すると、阿武隈川(あぶくまがわ)も近くなります。

阿武隈川も近くなる(写真奥)(東北本線の車窓より)(宮城県)
常磐線との分岐点・岩沼駅を過ぎて、仙台へ
槻木駅(つきのきえき)を過ぎると、常磐線(じょうばんせん)との分岐点・合流点である、岩沼駅(いわぬまえき、宮城県岩沼市)に着きます。
岩沼駅については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

常磐線(じょうばんせん)は、福島県の海岸沿いを通り、はるか南の日暮里駅(にっぽりえき、東京都荒川区)まで続く長大路線です。
常磐線の旅については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

岩沼駅を過ぎると、名取駅を経て、仙台駅へ
岩沼駅を過ぎると、
- 名取駅(なとりえき、宮城県名取市)
を過ぎ、どんどん仙台の方へ向かっていきます。
名取駅では、「仙台空港アクセス線」と合流します。
「仙台空港アクセス線」はJR東日本の線路ではありませんが、大抵は仙台駅から名取駅を経由して、直接乗り入れています。
仙台空港は海側に近いため、2011年の東日本大震災のときは滑走路が巨大な津波に大きく飲み込まれてしまいました。
仙台駅に到着!東北最大の都市だけあり、大都会が広がる
やがて、仙台駅(せんだいえき、宮城県仙台市)に到着します。

仙台駅(宮城県仙台市)

仙台駅に到着~!(宮城県仙台市)
宮城県仙台市(せんだいし)は東北第一の都会ということもあり、駅で降りるととんでもない都会具合に毎回驚かされます。

仙台に到着~!(宮崎県仙台市)
仙台市は伊達政宗(まさむね)で有名ですが、詳しくは以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

仙台の歴史的交差点「芭蕉の辻」 江戸時代はこの交差点を中心に栄えた
仙台市には、「芭蕉の辻(ばしょうのつじ)」という交差点があります。
「辻(つじ)」とは、昔でいう「交差点」という意味になります。
仙台「芭蕉の辻」とは?
「芭蕉の辻」は、
- 南北に延びる「奥州街道」と、
- 仙台城・大手門から東西に延びてクリスロードへ延びる、大町通(おおまちどおり)
との交差点です。
江戸時代の仙台では、この芭蕉の辻を中心として、町割り(町を区分して管理しやすくすること)が行われていました。
つまり、この「芭蕉の辻」を基準にして仙台の町が構成されていった、といってもいいでしょう。
交差点は、栄えやすい
この「芭蕉の辻」は奥州街道・大町通の両方から行き交う・往来する人々が集まりやすく、最も繁盛しやすい立地となっていました。
そのため、江戸時代の仙台ではこの「芭蕉の辻」は、仙台の町でも特に繁華する場所となりました。
現代でも多くの人々が行き交う場所といえば「駅周辺」「駅前」ということになりますよね。
そのため、必然的に仙台駅のような大きな駅周辺はビルが建ち並び、大都会になりやすいといえます。
ただし地方都市の場合だと「イオンモール」などが存在する郊外地域の方が、栄えてくる傾向にあります。
その一方で、地方都市ではむしろ駅前の方が廃れがちの傾向にあります。これは、日本社会の課題となっています。
松尾芭蕉とは関係ない
ちなみに「芭蕉の辻」は、松尾芭蕉とはいっさい関係ありません。
最初は「場所の辻(ばしょのつじ)」という名前だったそうですが、長年をかけて訛(なま)り、「芭蕉の辻」に変化したとされています。
また一説によると、伊達政宗のスパイだった、この地に住んでいた僧侶の名前が「芭蕉」だったから、ということです。
しかし松尾芭蕉は「おくの細道」の旅のときに、仙台から
- 塩釜(しおがま)
- 松島(まつしま)
方面へと向かったはずなので、松尾芭蕉ゆかりの場所でもおかしくないと思いますよね(^^;)
仙台駅からは、東北新幹線で
仙台駅からは、今回は東北新幹線で乗っていくことになります。
その日のうち(夜まで)に、北海道・函館まで着きたいからですね。
新幹線代を出せばホテル代を省略して、在来線のみなら2日かかる行程を、1日で一気に移動できます。
「やはぶさ」号では、時速320kmものスピードで、盛岡まで一気にゆきます。
在来線では
- 松島駅
- 小牛田駅(こごたえき)
- 一ノ関駅(いちのせきえき)
と順に過ぎていくわけですから、在来線(東北本線)に乗り慣れている身としては、それらの駅をみな真っ直ぐにすっ飛ばしていく新幹線は本当に凄いな~と思う限りです。
今回はここまでです。次回は、新幹線で仙台駅を出発します!
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