冬の函館本線・函館~森の区間の鉄道旅を、楽しく解説してゆきます!
渡島富士の地理・歴史を、わかりやすく解説してゆきます!
函館観光を終え、函館駅を出発! 長万部方面へ
前回は、函館観光でした。
今日からは函館駅を出発し、札幌へと向かいます。
函館駅から長万部駅までは、「特急北斗」に乗車します。
また、長万部から先は、函館本線の普通列車で倶知安・小樽方面を目指します。

函館駅を「特急北斗」で出発!(北海道函館市)
特急北斗の車内はとても快適ですが、外国人観光客の方々がとても多く車内はほぼ外国人であり、日本人はほぼ私だけでした。(^^;)
満席だったため、デッキに追いやられた
座席に座れなかったため、半ば弾き出される形で、安定のデッキ族になってしまいました(^^;)
むしろデッキの方が気楽でよくないですか?(^^)
他の客との距離も近いため、外国人の方にナンパされそうになった(^^;)
坂道にも強い、特急北斗
新函館北斗駅(北海道北斗市)を過ぎると山岳地帯に入り、急な勾配を登ってゆきます。
普通列車の気動車・キハ40の場合は、坂道に弱いのか、この区間の坂道を登るときはなかなか一苦労です。
しかし特急北斗の車両は性能が高いのか、グングンと坂道を登ってゆきます。
実際、この勾配区間(新函館北斗駅~仁山駅~大沼駅)はボトルネックになったため、七飯駅からは藤城支線という別ルートが存在しています。
勾配を避けるための、藤城支線
藤城支線は、新函館北斗駅を経由しない、勾配をゆるやかにした、やや大回りの別ルートになります。
今でも函館駅発の列車は、一部の列車が藤城支線経由のため、鉄道ファンを中心に人気路線となっています。
小沼・大沼・北海道駒ヶ岳(渡島富士)の横を過ぎ行く
坂道を登ってトンネルを出ると、窓の左側には
- 真っ白で凍った、小沼
- 渡島富士・北海道駒ヶ岳
が登場します。
そして北海道の松島ともいうべき、大沼国定公園を過ぎてゆきます。

渡島富士・北海道駒ヶ岳(函館本線の車窓より)(北海道)
1640年に噴火した、渡島富士
渡島富士こと北海道駒ヶ岳は、1640年に大噴火を起こしました。
そのときの噴火で、元々あった山の頂上部分が吹っ飛んでしまったため、現在のような若干いびつな形になっています。
大沼公園と北海道駒ヶ岳については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

北海道駒ヶ岳の噴火が与えた、アイヌ民族への影響

北海道駒ヶ岳(渡島富士)(函館本線の車窓より)(北海道)
この江戸時代(1640年)の渡島富士の火山噴火が原因で、周辺各地の川に火山灰が降り積もってしまいました。
そのため、アイヌ民族にとっては大事な川が汚れてしまいました。
川が汚れたことで、アイヌ人と松前藩が争いに
川が汚れたことで、アイヌの人々にとって重要な魚釣りが思うように出来なくってしまい、それによって深刻な食糧難に陥ることになってしまいました。
そうなると今度は、魚の採れる綺麗な川をめぐって、アイヌ同士あるいは松前藩の人間とも争うようになりました。
松前藩とは、函館の南西にある松前町を拠点にしていた、江戸時代に北海道(蝦夷地)を統治するために置かれていた、日本人・江戸幕府による藩のことをいいます。
アイヌの怒りが爆発 「シャクシャインの戦い」へ
そこへさらに様々なトラブル要因(いずれ解説します)が重なった結果、アイヌ民族の松前藩への怒りが爆発してしまったのでした。
結果、1669年に起こった「シャクシャインの戦い」という、道南を巻き込んだ大規模な反乱の一因ともなってしまいました。
「シャクシャインの戦い」についての詳細は、また別の機会で詳しく解説します。
大沼公園~森駅までは、駅間距離が長い

大沼公園の横を過ぎ行く(函館本線の車窓より)(北海道)
北海道では、基本的に一旦発車すると、次の駅まではかなり長いです。
北海道では駅間距離(駅と駅の間の距離)が長く、一旦駅を出発すると次の駅までなかなか着きません。
なぜ北海道では、駅と間の距離が長いのか?
ではなぜ駅間距離が長いのかというと、それは(途中に)元々存在していた駅が(人口減少などを理由に)廃止になったために、止まる駅数が必然的に少なくなり、結果的に駅間距離が長くなっているわけです。
北海道駒ヶ岳の周辺の線路、たとえば函館本線、砂原支線(※)にも、いくつかの廃駅跡があります。
※砂原支線:大沼駅と森駅から、それぞれ東に延びて、北海道駒ヶ岳を大きく東に迂回する、というルートを経由する、函館本線の一部です。
かろうじて残っている、廃駅跡
そうした廃駅跡には、
- かろうじて、駅の遺構が残っているもの
- 解体されて、面影が残っていないもの
- 信号場(列車の行き違いを行うために、片方の列車が一時的に退避するための場所)として活用されている廃駅
もあります。
廃駅跡めぐり・廃線跡めぐりは、鉄道マニアの心をくすぐるため、YouTubeでもたくさん動画がアップされています。
私もたまに観たりします。
「渡島(おしま)」の由来
北海道の南西(左下)に突き出た半島のことを、渡島半島といいます。
そして、函館~長万部のこの地域のことを「渡島総合振興局」の管内にある、というような言い方をします。
明治時代になってから、北海道にも「国名」がつけられるようになった
明治時代になって蝦夷地が北海道に改められてからは、北海道にも日本風の国名(律令国としての名前)をつけられるようになったのでした。
その結果、渡島国と呼ばれるようになりました。
例えば、胆振国・十勝国・北見国などもそうです。
北海道の南西部を管理する、渡島総合振興局
渡島総合振興局は、この渡島地域の行政の中心機関のことになります。
北海道はあまりに広いので、札幌市だけでは全道の面倒は見きれません。
なので北海道は「振興局」によって、14の細かいエリアに分かれているのです。
そのうち、函館を中心とする北海道の南西のエリアを、渡島総合振興局が管轄しているのです。
その渡島総合振興局の所在地はもちろん、人口約24万人で最も栄えている函館市になります。
渡島総合振興局の影響範囲が及ぶ(=管内にある)のが函館~長万部のエリアにあたるため、このまとまった地域を「渡島総合振興局管内」といった言い方をするわけですね。
江戸時代、津軽海峡をはるばる「渡ってきた島」→渡島
渡島は、元々は江戸時代にこの地域をよく訪れていた南部藩・津軽藩の人たちが
- 「わたりしま(渡り島)」
と呼んだことに由来します。
江戸時代の本州の人々にとっては、津軽海峡という海を、
- はるばる渡って来る島だ
と思われていたから、
- 「わたりしま(渡り島)」
と呼んだわけです。
それが
に、時代とともに変化したというわけです。
つまり「渡島」の地名は、一見したらアイヌ語由来っぽくもありますが、実際には日本語由来だったわけですね。
南部藩とは
南部藩とは、盛岡藩の別名であり、現在の岩手県盛岡市の原型となる、江戸時代の藩です。
南部氏という一族が親・子・孫で代々支配していたため、「南部藩」と呼ばれるわけです。
北海道の警備を命じられてやってきた、津軽藩と南部藩
南部藩・津軽藩は、江戸幕府からロシアの進出に備えて、蝦夷地の警備を命じられて、北海道に渡ってきたのです。
江戸時代後期にもなると、ロシアが「凍らない港」を求めて南の暖かい地域に進出してきたりしていました。
ロシアは極寒の地なので、冬は海が凍ってしまい、軍艦が出せないために、南の暖かい地域に進出していたのです。
また、ロシアは当時鎖国中だった日本に通商(貿易をしてお互いに利益を出すこと)を求めて、根室や長崎にやってきたりもしていました。
しかし日本は「鎖国中」のため、こうしたロシアの動きを「侵略目的かもしれない」という感じで警戒するようになり、ロシアに近い蝦夷地の警備をすることになったのでした。
こうして、幕府に命じられた南部藩・津軽藩の人々が蝦夷地の警備にあたるため、北海道のこの辺りによく来ていたのです。
道南地域に残る、南部陣屋の跡
なので、この渡島地域のあちこちには、南部藩の武士の拠点となった「南部陣屋」の跡地があります。
陣屋とは、いわば「お城の小さいバージョン」のことです。
つまり、簡易な防御施設を備えた要塞のようなイメージです。
本気で立派なお城を造ると、逆に幕府への反乱の拠点となる恐れがあり脅威だったため、幕府は新しい城を建てる許可をなかなか出さない、という時代でした。
しかし、この南部藩と津軽藩は、戦国時代から様々なトラブルが原因で対立することが多く、お互いが(悪い意味で)様々な因縁の仲にありました。
盛岡でおこった、相馬大作事件
そして江戸時代後期の1821年にその不満が爆発し、南部藩(盛岡藩)の武士が(参勤交代から帰ってきた)津軽藩の武士の殺害を企てるという未遂事件が発生しています。
これを「相馬大作事件」といいます。
相馬大作とは、事件を企てた南部藩の人物が名乗った仮の名前(本名ではない)です。
相馬大作事件については、また別の機会で詳しく解説します。
津軽藩士殉難事件
また津軽藩も、道東の網走・オホーツク海近辺の警備にあたったところ、本州とは比較にならないほどの厳しい寒さに耐えきれず、武士が次々倒れていくという、「津軽藩士殉難事件」という事件も起きています。
こちらもいずれ、別の機会で詳しく解説します。
次回は、森・長万部へ
次は、森・長万部方面へ向かってゆきます!
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