冬の【東京→北海道】鉄道旅11【後編】 長万部の海を堪能!【わかりやすく解説】 

冬の函館本線の鉄道旅を、楽しく解説してゆきます!
北海道・長万部の観光・歴史などについて、わかりやすく解説してゆきます!

長万部駅に到着

前回の森駅から進んでくると、

  • 長万部駅おしゃまんべえき(北海道山越郡長万部町)

に到着します。

長万部駅(北海道山越郡長万部町)

長万部駅にて(北海道山越郡長万部町)

長万部駅にて(北海道山越郡長万部町)

長万部で降りたときは、ようやく着いた~!って感じでしたね(^^

長万部駅にて(北海道山越郡長万部町)

長万部駅にて(北海道山越郡長万部町)

長万部駅は、1930年代に長輪線おさわせんが開業してから、電車を待つ人たちで、多くの客人たちで賑わいました。

長輪線おさわせんは、かつて存在した、室蘭本線むろらんほんせんの一部の路線でした。
それは、

  • 長万部駅
  • 輪西駅わにしえき(現在の東室蘭駅)

を結ぶ路線でした。
現在は、室蘭本線に編入されています。

室蘭本線は、今や函館本線と合わせて、札幌方面への重要なルートの一部となっています。
特急北斗が通るのも、長万部から先は室蘭本線ですからね。

かつては長万部を経由して、重要な資源・石炭を運んだ長輪線

長輪線おさわせんは、1923年から1928年にかけて、

  • 長万部駅~東室蘭駅(当時は輪西駅)

を結ぶ路線として開業しました。
その後、1931年に室蘭本線に編入され、

  • 道南地方(だいたいこの長万部~函館がある地域)
  • 道央地方石炭がガッポリとれる場所)

を結ぶ、とても重要なルートとなりました。
戦前の日本は、何を動かすにも石炭がとにかく重要でした。
特に北海道の真ん中には石炭がたくさん採れる場所があったため、そこから鉄道に載せて運んでいたのでした。
特に、しだいに函館本線

  • 長万部~小樽間

にある、とてもきつい山側の急勾配を避ける必要が出てきました。
鉄道は坂道にとても弱いため、勾配の多いルートはボトルネックになってしまうからです。
そのため、海側を経由して、より平坦なルートである室蘭本線の方が、札幌へ向かう主要ルートとして発展してゆきました。

長万部の地名は、アイヌ語に由来

詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

鉄道唱歌 北海道編 南の巻第11番 長万部に到着!
鉄道唱歌 北海道編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます! 鉄道旅行を楽しむためのノウハウを、初心者でも楽しめるよう解説してゆきます!

多くの鉄道関係者で盛り上がった、長万部の町

長万部の町には、こうして2つの鉄道の開通に伴い、鉄道関係者やその家族などが住んでいました。

また、

  • アイヌ民族
  • 明治時代に北海道を切り開いて強い土地にするための、開拓者として移り住んできた人々

もいました。

魚釣りで儲けて、生計を立てている人もいました。

  • 1897年に函館本線が開通し
  • その後、室蘭本線も開通

したことで、鉄道関係者やその家族が長万部に移り住むようになりました。

ちなみに、こうした2つの路線が交わる駅が鉄道の街になりやすい理由は、

  1. 多くの人々が集まってくることにより、いわゆる「交通の要衝」となるため
  2. 人が出たり来たりするという流れが活発になることにより、商業施設や住宅地などが発展しやすくなるため

となります。

1つの駅に、複数の路線があるメリット

複数の路線が利用できるようになることで、

  • あちこちへ行けるという、移動の選択肢が増える
  • より広く遠くへ、様々な地域へのアクセスが容易になる

というメリットがあります。

また、これにより、通勤・通学や買い物など、様々な目的で利用されるようになります。

こうして、駅周辺が発展してゆき、人も増えてゆき、利便性が向上ゆくわけです。

列車の待ち時間を利用して、長万部の海を堪能

長万部駅では乗り換えに時間があったため、まで行ってみました!

長万部駅近くの海にて撮影!(北海道山越郡長万部町)

長万部駅近くの海にて撮影!(北海道山越郡長万部町)

長万部駅近くの海にて撮影!(北海道山越郡長万部町)

長万部駅近くの海にて撮影!(北海道山越郡長万部町)

長万部の海(北海道)

長万部の海(北海道)

長万部の海は、内浦湾(噴火湾)の最も奥に部分に位置しています。

長万部の海・噴火湾

噴火湾ふんかわんは、日本ではまだ江戸時代の1796年に、イギリスの探検家であったブロートンさんが、この湾から噴煙を上げる火山を見たのでした。
そのとき、

  • Volcano Bay(噴火湾)」

と名付けたことが、その由来とされています。

江戸時代の北海道は、まだ日本ではなかったのでした。
そのため、ブロートンさんのようなイギリス人でも来ることができたのでした。

江戸時代の「蝦夷地」は、まだ日本ではなかった

江戸時代のように鎖国だった日本でも、当時の蝦夷地えぞちは、日本とは異なる扱いだったのでした。
つまり、蝦夷地は正式な日本ではなかったのです。

蝦夷地が「北海道」に改められ、正式に日本の一部に組み入れられたのは、明治時代から。

そのため、ブロートンさんのような外国人が訪れることは、可能だったのでした。

イギリスのウィリアム・ロバート・ブロートンは、まだ鎖国中だった江戸時代の1796年にはるばる日本にやってきて、蝦夷地えぞち(現在の噴火湾ふんかわん)を探検し、測量を行いました。

測量そくりょうとは、主に地図などを作成するために必要な作業です。

この江戸時代後期って、とにかくたくさんの外国船が日本にやってくるため、幕府が危機感を募らせていた時期でもありました。

なぜイギリス人が蝦夷地で「測量」をしたのか?

ちなみに、江戸時代のイギリス人が蝦夷地(現在の北海道)を測量した目的は、主に

  • 国防上の理由(敵の事情に詳しくなるため)
  • 地球の大きさを知るための、学術的な調査・研究(=例えば世界地図を作ったり、地球儀ちきゅうぎを作ったり)

でした。

あと、シンプルに「休憩」「補給」の目的もありました。

江戸時代後期から、外国船が多く現れるようになった

江戸時代は、世界的にまだ航空機が発展していなく、船の移動がメインだったのでした。
そのため、補給や休憩などの目的で、日本に立ち寄ることがありました。

彼は、プロビデンス号とよばれる舟ではるばると日本へと来航してきたのでした。
そして、長旅によるエネルギーを補給するために、燃料や水を得るために、蝦夷地に寄った(寄港した)のでした。

その後、船体を修理したり、蝦夷地の地形などの調査を行いました。
また、アイヌの人々との交流も記録されています。

しかし、松前藩まつまえはんから警戒をされてしまったのでした。

幕末の「薪水給与令」

幕府が出した薪水給与令(しんすいきゅうよれい)は、1842年に幕府が発布した法令です。
これは、日本の近くに来た外国船に対して、燃料や水、食料を供給することを許可したものです。

さすがに1840年代になると、日本が外国 と戦争してもかなわないことは、幕府にとって明白だったのでした。

これにより、武力衝突を避けることを目的としていました。

個人的などうでもいい話

このとき、夜にある事実が発覚するのでした。
実は最近、「うっすら」線が現れていたのです。

長万部の海より

次は、倶知安方面へ

今回はここまでです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。
そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。
再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。
何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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