冬の【東京→北海道】鉄道旅13 倶知安→小樽 アイヌと義経の歴史のあと

倶知安駅を出て、小樽方面へ

倶知安駅(くっちゃんえき、北海道虻田郡倶知安町)からは、小樽(おたる)方面を目指します。
途中、小沢駅(こざわえき)・銀山駅(ぎんざんえき)・然別駅(しかりべつえき)といった駅を過ぎてゆきます。

倶知安駅を出発!(函館本線の車窓より)(北海道)

この地域についてはしばらく勉強不足だったため、以下の2年前の以下の記事を書いたときから私(筆者)の知識レベルがあまり成長しておらず、正直申し上げてあまり書くネタがありません
しかしその代わり、この付近の人気の観光地・積丹半島(しゃこたんはんとう)についてかなり興味を持って調べたので、それは後述します。

2年前に書いた仁木町・然別駅あたりについての記事は、以下の各記事になります。基本的な知識を解説していますので、是非解説ご覧ください

鉄道唱歌 北海道編 南の巻第16番 栄える後志の村々

鉄道唱歌 北海道編 南の巻第17番 線路はみな雪に埋もれてしまう!

鉄道唱歌 北海道編 南の巻第18番 然別、余市 ついに日本海側へ!

人間、やはり常に成長しなければなりません。
成長をやめた瞬間、人生の意義というものが急激に損なわれ始めます。

小樽付近の人気観光地・積丹半島(しゃこたんはんとう)

今回の旅とは直接関係ないのですが、小樽・余市の北西に伸びる、人気の観光地・積丹半島(しゃこたんはんとう)について少し紹介します。

積丹半島(しゃこたんはんとう)は、先述の通り、小樽市の北西に延びる半島のことです。
シャコタン」とは、アイヌ語で「夏の村」という意味になります。
アイヌ語で「コタン(古丹、古潭)」とは、「村、集落」という意味になります。

コタン」という用語(アイヌ語)は北海道では非常によく出てくる地名なので、覚えておくと便利でしょう

積丹半島は、神威岬(かむいみさき)という景勝地が人気です。

カムイ(神居、神威)とは、アイヌ語で「神様の」という意味です。
例えば、カムイコタン(神居古潭)だと「神様の宿る場所」という意味になります。摩周湖(ましゅうこ)にある山「カムイヌプリ」だと「神様の宿る山」です。
また知床(しれとこ)にある「カムイワッカ」だと、「神様の水」になります。

他にも「特急カムイ」や、北海道を舞台とした漫画「ゴールデンカムイ」でもお馴染みですね。

他にも覚えておきたいアイヌ語

ワッカ=水
ナイ(内)=川
ベツ、ペッ(別・部)=川
ヌプリ=山
ホロ、ポロ(幌)=大きな
ト=沼、湖

です。

これらのアイヌ語も北海道の地名では非常によく出てくるので、覚えておくと便利です。

判官贔屓?北海道・積丹半島まで逃げてきた、源義経

北海道には、あの源頼朝(よりとも)の弟である、源義経(よしつね)の伝説がたくさんあります。

源義経(よしつね)は、九郎判官(くろうほうがん)とも呼ばれ、兵庫・神戸での「一ノ谷の戦い」や山口県・下関での「ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)」において平氏を破り、源氏の勝利に大きく貢献しました

しかし「一ノ谷の戦い」における平氏への奇襲攻撃が非常識かつ(相手に対し)無礼な戦法であるとして、兄の頼朝の怒りを買いました。

一ノ谷の戦い」については以下の記事で詳しく解説しておりますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 山陽・九州編 第4番 「一ノ谷の戦い」 源義経による奇襲 源平の古戦場

義経は源平合戦で大きく貢献したにも関わらず兄から敵対視されたことで、奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)を頼って岩手県・平泉まで逃げてきます。
しかし義経が平泉で匿(かくま)われていることが鎌倉(神奈川県)にいた頼朝にバレてしまい、奥州・平泉まで兵を送られてしまいました。
そして奥州藤原氏は滅ぼされ、義経も平泉の衣川館(ころもがわやかた)で自害に追い込まれてしまいました(あくまで”自害”ですが、実質的には殺されたようなもの)。

岩手県・平泉義経については、以下の記事でわかりやすく解説していますので、ご覧ください

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第33番 平泉に到着! 金色堂、安倍氏、奥州藤原氏など戦いや栄華の歴史

この義経の自害があまりにもかわいそうだったため、人々の同情を誘い、「判官贔屓(はんがんびいき)」といって実は義経は死なずに生きていたというストーリーや都市伝説が生み出されました。

その内容は、義経は自害したと見せかけて実は生き延びており、岩手県を脱出してさらに青森県にまで逃げて、津軽海峡を渡って北海道へたどり着いた、というストーリーです。
もっと凄いものだと、北海道からさらにモンゴルに渡り、チンギス・ハンとして降臨したという説まであります。

また、後述する明治時代の北海道最初の鉄道である「官営幌内鉄道(かんえいほろないてつどう)」にも、「義経(よしつね)」という名前の蒸気機関車が存在しました。これは言うまでもなく、先述の北海道に逃げてきたという義経の伝説に由来するものですね。

義経に恋慕う女の呪い 「女人禁制」となった所以

そうして北海道にたどり着いた義経が訪れたのが、積丹半島(しゃこたんはんとう)の神威岬(かむいみさき)になります。
義経にすごく恋心を寄せるアイヌ民族の女性・チャレンカでしたが、義経は既に大陸へ向かうという意向を固めていたため、恋愛をしている暇はありませんでした。

義経が自分の気持ちに察してくれないので、チャレンカは嫉妬で怒り狂い、積丹半島の近くを通る船を(呪いか何かのパワーで)みんな海難事故に陥れてしまう、というジンクスが生まれてしまいました。

この不気味な事件がきっかけで、「女の恋心からくる嫉妬と呪いが、海難事故を招く」と誤って人々に認識されてしまった結果、積丹半島・神威岬は「女人禁制」という風習が生まれてしまうことになったのです。
昔の人々は、呪いや祟り(たたり)の存在をすごく恐れていましたからね。

もちろんこの女人禁制は明治時代には解除されているため、現在では女性でも全然入ることが出来ます。というか、女子旅YouTuberもたくさん積丹半島・神威岬を訪れています。

余市町に到着!小樽へはもう少し

余市(よいち)は江戸時代までは「ヨイチ」と書き、もちろんアイヌ語に由来します。

元々余市には「ヨイチアイヌ」という、アイヌ民族の派閥グループがありました。

余市駅(よいちえき、北海道余市郡余市町)を過ぎると、ここから日本海側に沿って、小樽方面に進みます。
そして蘭島駅(らんしまえき、北海道小樽市)・塩屋駅(しおやえき、北海道小樽市)を過ぎて、小樽駅(おたるえき)に至ります。

この区間は、2030年の北海道新幹線・札幌延伸により、廃止される予定となっています。
その後(廃止された後)は、余市~小樽間はバスで運行される予定になります。
しかし余市(よいち)はかなりの人口ある町であり、余市から小樽への通学・通勤需要があるため、鉄道の廃止を撤回してほしいという動きが少なからずあります。

やがて、小樽へ到着

やがて、小樽駅(おたるえき、北海道小樽市)に到着します。 

ここで、かなりの街(都会)に到着しました。ここまではずっと真っ白な山岳地帯真っ白な原野を通ってきましたからね。
札幌に近い都市圏に、ようやくやってきたという雰囲気になります。
小樽市はかなりの街であるにも関わらず、所属する後志総合振興局(しりべしそうごうしんこうきょう)の振興局所在地ではありませんので、勘違いしないように注意です。

振興局(しんこうきょく)とは、北海道を細かいエリアに分けて管轄する行政機関です。というのも、北海道は広すぎて、道庁所在地の札幌市だけでは面倒みきれないため、振興局が管理する細かい(全部で14の)エリアに分かれているのですね。
小樽市は後志総合振興局の管内(かんない)に含まれます。その中心地である振興局が人口最多の小樽市ではなく、実は倶知安町(くっちゃんちょう)にあるわけです。ここは勘違いしないように気をつけましょう。というか小樽市は札幌市に近いため、札幌市と同じ石狩振興局(いしかりしんこうきょく)の管内だと勘違いしそうです。こちらも勘違いしないよう要注意です。

小樽の「手宮線」 北海道最初の鉄道のあと

小樽には、明治時代に後述する幌内炭鉱(ほろないたんこう)から掘り出された石炭を運んでいた、手宮線(てみやせん)がありました。
現在でも手宮線跡(てみやせんあと)が、小樽市のまちなかに残っています。

なぜ大量の石炭を運んでいたのかというと、明治時代の日本は、北海道を強く豊かな地域をするぞ!という雰囲気があって、北海道を開拓し、大量のエネルギーが必要だったからです。
明治時代になって、北海道には石炭をはじめとするたくさんの資源が眠っていることがわかり、多くの人々が北海道に移住して、炭鉱でたくさんの石炭を掘り出していました。そうした人々を乗せるにも、石炭などの資源を運ぶにも、鉄道とそれを動かすための石炭は必須だったのです。

明治時代になったばかりの日本は(約200年以上に及んだ鎖国のために)、欧米諸国から約年100近くも遅れをとっていた後進国であり、そうした欧米諸国に追い付け追いこせという雰囲気の時代でした

そういった背景から、鉄道でニシン石炭などの貴重な資源を運んできたのが、小樽の港になります。
ニシンとは、春になるとよく採れる魚になります。ニシンは寒い海にしか住まない魚なので、北海道はまさにニシンの漁場なのです
ではなぜニシンは敢えて寒い海にしか住まないのかというと、恐らくですが天敵から逃れるため、などの理由が考えられます。

「お雇い外国人」の力で作られた、官営幌内鉄道

手宮線(てみやせん)は、北海道最初の鉄道とも言われています。
それは官営幌内鉄道(かんえいほろないてつどう)の一部です。
官営(かんえい)とは、いわば国が主体の運営ということですね。つまり国をあげて資金を投入していくので、相当な気合いの入れようだったというわけですね。
幌内(ほろない)とは、北海道の真ん中あたりにある地名で、札幌の東・岩見沢(いわみざわ)のさらに東に位置する地域です。
明治時代に幌内地域でたくさんの石炭が掘り出せる炭鉱が見つかったので、幌内炭鉱で掘り出した石炭を鉄道でたくさん運んでやろうというのが、当時の日本の北海道開拓の目的の一つでした。

石炭は現在でいう「ガソリン」であり、非常によく燃えてくれてエネルギー効率が良く、とにかく売れて色んな業界が買ってくれたため、「黒いダイヤモンド」とも呼ばれていました。
鉄道を走らせるにも、蒸気船も動かすにも、何を動かすにも明治時代には石炭が重要でした。
いざ戦争になったときも、兵士食糧を運ぶのも当時はみな鉄道だったので、鉄道の動力源・エネルギーとなる石炭を多く持っている国が勝つのは自明でした。

明治時代の鉄道建設には、外国から「お雇い外国人」を招いて、作っていったわけです。
お雇い外国人」とは、まだ欧米の技術から取り残されていた日本が、お金を払って技術指導を受けるために雇った外国人のことです。
その時のお雇い外国人の1人に、ライマン(ベンジャミン・スミス・ライマン、Benjamin Smith Lyman)という方がいました。

当時の日本人はライマンら「お雇い外国人」の意見をしっかり聞き、鉄道の線路建設に関する技術などを教わりながら、なんとか線路を建設してゆきました。
なぜなら明治時代の日本人にとっては、1872年に開通したばかりの鉄道はまだ新しすぎる技術であり、鉄道先進国(1820年代には既に鉄道があった)の欧米のサポート無しではまだまだ鉄道建設の技術が弱かったからです。
江戸時代にずっと鎖国していた日本は、海外の最新技術から取り残されている状態だったため、まだ後進国だったわけです。

「お雇い外国人」の指導によって線路の測量を行い、これにより安全で建設コストが安く済むルートを考えていったのです。
これを線路建設の前にしっかりやっていないと、線路が崩れて危険な事故につながったり、線路建設の難易度が上がってコストが上がり、(営業開始しても)元が取れなくなって赤字になったりするためです。

最初は、幌内炭鉱(ほろないたんこう)のある空知(そらち)地方から、まだ鉄道が開通していない石狩川(いしかりがわ)を使った水運に頼るのがいいと考えられました。
石狩川札幌市の北東で日本海に注ぐため、その海(日本海)を通って船で石炭を小樽へ運び、さらに小樽で大きな船に積み替えて日本全国へ石炭を送る、ということを(当初は)行ったわけです。
最初はこの方がコスト削減となるため、ライマンの方式を採用することにしました。
しかし後に札幌~岩見沢(いわみざわ)~幌内までの線路も出来たため、やがて水運からオール貨物列車の時代となりました(そうなると、今度は水運が衰退する)。

こうして北海道最初の鉄道となる官営幌内鉄道は、着々と進んでいったのでした。もちろんそれは現在の函館本線の原型となっています。岩見沢~幌内までの「幌内線」は、1987年に廃止されています。詳しくは以下の記事をご覧ください。

鉄道唱歌 北海道編 北の巻第9番 岩見沢と、かつての幌内炭鉱への道

小樽の発展と衰退 そして北海道屈指の観光都市へ

明治時代に札幌が北海道の中心(開拓・発展のための拠点)となると、小樽は北海道の入口・玄関口の一つとして発展してきた歴史があります。
その時、近江商人(おうみしょうにん)の活躍があったとされます。
近江商人(おうみしょうにん)とは、現在の滋賀県を中心に活躍していたヤリ手の商人です。
こうした商人たちは、船で荷物を運んで各地に売りさばくという行為を得意としていたので、明治時代に急速に発展しつつあった(人口が急増したことで商品を買ってくれる客が多かった)小樽でもこれを行った(儲かった)というわけですね。

江戸時代は貨物列車や高速トラックなどはありませんでしたから、日本海を大きく西に廻るルートの船によって荷物(商品)を運んでいました。
これを北前船(きたまえふね)といいます。
小樽もその北前船が寄って来て停泊するという重要な港でした。

戦後になると、エネルギーが石炭から石油に変わってしまい、炭鉱がだんだんと閉鎖してゆき、石炭を運ぶ需要が無くなってきました
そのため、港湾や石炭が衰退すると、小樽の街も衰退していくこととなりました。
しかしこれだと小樽の人々は食っていけなくなるため、それまで町にあった「運河」を埋め立てずに観光用として取り残し、保存・維持することで観光資源を確保し、観光都市として発展してきた歴史があります。
これによって観光客の皆さんに街で買い物・飲食・宿泊してもらうことで街に金を落としてもらい、市民の生活が立ち行くというスタイル(観光都市)に変貌したというわけです。

こうした観光都市へのシフト・路線変更は、小樽に限った話ではなく、函館や全国他の都市でも行われています。
観光客の誘致や、移住者の誘致は、どの地方都市にとっても重要課題・重要政策になっています。

小樽を出て、札幌方面へ

次回は、小樽駅を出て、札幌方面へ向かいます。

今回はここまでです。
最後まで読んでくださってありがとうございます!

【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

コメント

タイトルとURLをコピーしました