冬の【東京→北海道】鉄道旅16(帰り)倶知安→長万部→函館

倶知安駅を出て、長万部方面へ 冬の真っ白な車窓をゆく

尻別川(函館本線の車窓より)(北海道)

前回から、札幌→東京の「帰り」の行程について解説しています。
前回で倶知安駅(くっちゃんえき、北海道虻田郡倶知安町)に到着したので、今回は倶知安駅から長万部駅(おしゃまんべえき)を経由して、本日の最終目的地である函館駅(はこだてえき)まで向かう(戻る)という行程になります。

倶知安駅を出ると、すぐ右側に「ニセコ大橋」という、黄色くて大きな橋が現れます。
ニセコ大橋は、尻別川(しりべつがわ)にかかる大きな橋であり、北海道道道66号線が走っています。
道道66号線は、ニセコの北西の岩内(いわない)と、ニセコの南東の洞爺(とうや)を、斜めに結ぶ道路です。

北海道では「道道(どうどう)」と言うんですよね。県ではなく道(どう)なので、「北海道県道」とは言わないわけです。

そして、ニセコ駅比羅夫(ひらふえき)・蘭越駅(らんこしえき)・熱郛駅(ねっぷえき)・黒松内駅(くろまつないえき)と進んでゆき、長万部駅(おしゃまんべえき)まで向かってゆきます。

尻別川と、羊蹄山(蝦夷富士)を横に進む
尻別川(函館本線の車窓より)(北海道)

この区間は尻別川(しりべつがわ)という、とても美しい川に沿って、まるで北欧ノルウェーのような真っ白な雪世界を進んでいきます。

また、窓の右後ろにはニセコアンヌプリ(標高:1,308m)の雄大な姿が広がります。

前回も書きましたが、2030年の北海道新幹線・札幌延伸に伴って廃止される区間なので、この景色を失うのがとても惜しい区間になります。
それだけ景色の綺麗な区間ということですね。

蘭越町(らんこしちょう)をはじめとするこの区間は、超がつくほどの豪雪地帯になります。

函館本線・冬の景色(北海道)

列車は、真っ白で広大な原野をひたすら進んでいきます。
これぞ北海道ならではの魅力であり、本州には無い素敵な景色です。

長万部駅に到着!1日ぶり

列車は再び、長万部駅(おしゃまんべえき、北海道山越郡長万部町)まで戻ってきます。
往復旅行のときは、「行き」のときにじっくり寄れなかった場所でも、「帰り」の行程であればじっくり寄れたりするのがメリットです

しかし長万部の「海」は「行き」の行程時(つまり、前日)にじっくり寄ったことと、次の列車(特急北斗)の待ち時間があまり無かったこともあり、今回は海には寄りませんでした。

長万部駅を出発、国縫(くんぬい)へ

長万部駅から南へ行くと、国縫駅(くんぬいえき、北海道山越郡長万部町)に着きます(特急北斗では通過)。
国縫(くんぬい)は、江戸時代までは「クンヌイ」とも書きました。地名はもちろん、アイヌ語由来です。

シャクシャインの戦いの舞台となった、クンヌイ(国縫)

クンヌイ(国縫)は、江戸時代の1669年に「シャクシャインの戦い」で激戦が繰り広げられた場所です。

古くから北海道(蝦夷地)では、和人(つまり、日本人)とアイヌ民族との仲が悪かったりして、様々なトラブルが原因で常に争っていました。

その最たる原因が、和人とアイヌの貿易(交易)において、和人だけが得をして(つまり儲かって)、アイヌ側が不利になる(つまり損をする)ような貿易(交易)を行っていたからです。

つまり、和人側がアイヌ側に差し出す「米」「食器」などの量よりも、アイヌ側が和人に差し出す「魚」「毛皮」などの量が多かった、ということです。
和人側が一方的に儲かるということは、逆にいえばアイヌ側は一方的に損をする、という事とイコールになります。

こうした事が長年に渡って続くと、アイヌ側の和人への不満は徐々に溜まってゆきます

そして極めつけは、室町時代の1457年、アイヌと和人の買い物をめぐる苦情・口論がきっかけでアイヌ人が殺されてしまい、それを引き金とした大規模な反乱である「コシャマインの戦い」が起きています。

「コマシャイン」ではなく、「コシャマイン」です。

詳しく話すと、1457年のある日、現在の函館市にいたアイヌの男性「オッカイ」が、和人(日本人)の鍛冶屋(かじや。刀を作る職人)に「小刀を作ってくれ」と頼みました。
しかし、その鍛冶屋が作って完成した小刀の切れ味が全然良くないため、「おい、全然切れないじゃないか!」とアイヌ男性が怒ったところ、鍛冶屋が「はあ?ふざけんな!」と逆に怒りだしてしまい、なんとアイヌ男性をその小刀で刺し殺してしまったのです。
これがきっかけでアイヌ全体が「和人もう許せん!」という雰囲気になり、リーダーのコシャマインを筆頭に反乱を起こしました。
これが「コシャマインの戦い」です。

しかし「コシャマインの戦い」は、和人側の圧倒的武力によってアイヌ側は鎮圧されてしまい、結果的にアイヌ民族への抑圧はさらに増してしまうことになります。

この時の和人のトップは「蠣崎氏(かきざきし)」といいました。
江戸時代になって、蠣崎氏は「松前氏(まつまえし)」に改姓しています。

蝦夷地を支配していた松前藩に対する、アイヌの不満

江戸時代になると、松前藩(まつまえはん)が幕府に変わって(命じられて)、北海道(蝦夷地)とアイヌを支配する担当となりました。

松前藩(まつまえはん)とは、函館の左下(南西)の位置に存在した、現在の松前町(まつまえちょう)を拠点にしていた藩です。
本州に最も近い位置に、藩の拠点(松前城)が築かれていたわけですね。
松前藩は、先述の蠣崎氏(かきざきし)から苗字を改めた「松前氏」が代々支配していくことになりました。

そしてこの松前氏の蝦夷地統治のやり方が横暴・圧政だったため、アイヌ民族と何度も衝突したり、反乱を起こされたりするのです

その一つの例として、和人(松前藩)が川で「砂金(さきん)」を採る「砂金堀り(さきんほり)」を行っていった事で川は汚れ、シャケなどの魚は全然採れなくなりました

砂金(さきん)とは、砂に含まれるわずかな金を取り出して、「金」という貴重な資源を取り出すことです
ではなぜ川に「金」が含まれているのかというと、川の上流にある(金鉱脈のある、金をたっぷり含んだから金が溶け出して、に混じって川となって流れ、下流・河口に届くからです。この河口にある砂金から「金」を取り出して、「金」を外国に輸出して、幕府の利益(財源)にする、ということを江戸時代は行っていたのでした。また、砂金が流れてきた川を上流へ上流へと進む(登っていく)と、そこには金鉱脈(金がたっぷり埋まっている地層)がある「金山(きんざん)」へたどり着く、ということもあったようでした。

こうして松前藩・和人が砂金堀りのために川で仕事を好き勝手にやりまくると、川が汚れてしまい、アイヌ民族にとっては魚釣りが出来なくなってしまいました。

アイヌ民族にとって、命よりも大事だった「川」の存在

アイヌの人々にとって、「」という存在は、魚や飲み水を恵んでくれる、神様のような存在であり、神聖なものでした

北海道では、
厚別(あつべつ)」「江別(えべつ)」「岩見沢(いわみざわ)」「茶志内(ちゃしない)」「砂川(すながわ)」「滝川(たきかわ)」「深川(ふかがわ)」「旭川(あさひかわ)」「長万部(おしゃまんべ)」「木古内(きこない)」「幌内(ほろない)」「幌別(ほろべつ)」「稚内(わっかない)」

など、挙げればきりがないほどに、
「~(ペッ)」「~(ペッ)」「~(ナイ)」「(=川と同義)」など、「川」にまつわる地名が非常に多いといえます

それは、アイヌ民族が」の存在を「神様」のように重宝していたためですね。
(さわ)は「」という意味であり、「ペッ(別)」「ナイ(内)」はアイヌ語で「」という意味です。

以下の言葉は、すべて英語の「River」に訳されます。
(かわ)※日本語
(さわ)※日本語
・別、部(ベツ、ペッ)※アイヌ語
・内(ナイ)※アイヌ語

これらの知識は、北海道の旅行のときに便利なので、覚えておくとよいでしょう。

そんなアイヌ民族にとって神聖な川を、先述した和人による「掘り」によって汚されてしまい、アイヌ民族の和人に対する不満はさらに増大することとなったのです。

渡島富士、有珠山の噴火 汚れる川

さらに、1640年には北海道駒ヶ岳渡島富士(おしまふじ)が、1663年には有珠山(うすざん)が噴火してしまいます。
これによってさらに川は汚れてしまい、魚は採れなくなってしまいました

こうなると、きれいな川をめぐってアイヌ同士で争いが頻発したりします。
現在の日高半島(ひだかはんとう。北海道の南へ突き出た半島)よりに存在した、アイヌの集団・派閥グループである「メナシクル」のリーダーであるシャクシャインと、西のアイヌの集団のリーダーであるオニビシが対立し、お互いに殺し合いになるまでに血塗れの争いに発展してしまいました。
ちなみに「メナシ」というのはアイヌ語で「東の」という意味です。なのでシャクシャインのいる「メナシクル」は東の日高地方だと覚えておきましょう。

ちなみに日高地方へは、かつて苫小牧駅(とまこまいえき、北海道苫小牧市)から出る日高本線(ひだかほんせん)にて襟裳(えりも)に近い様似(さまに)まで続く路線でしたが、度重なる豪雨の被害によって線路が復旧することなく、2021年までには大半の区間が廃線となってしまっています。

川の利権をめぐる、アイヌ同士の争い

その西側のアイヌ集団のリーダー・オニビシを、シャクシャインは殺害してしまいました。
リーダーのオニビシを殺された西側アイヌは、「東側のシャクシャイン許せん!」ということで、松前藩に対して「武器を貸してくれ」と、武器の提供をお願いします。
しかし、さすがに松前藩としてはアイヌ同士の面倒な争いに巻き込まれたくなかったため、その武器提供要求は拒否されてしまいます。

そんな中、西側アイヌの一人が松前藩からの帰りの途中で倒れてしまい、「松前藩によって毒殺されたからだ!」というデマが流れます。
もちろんこれは真実ではなく、天然痘(てんねんとう)という病気で倒れたわけですが、アイヌ民族は完全にそのデマを鵜呑み(うのみ)にしてしまったのです
そして「松前藩(和人)もう許せん!」ということで、長年にわたる松前藩によるアイヌ抑圧もあり、以前と同じようにアイヌ民族の和人への怒りが爆発し、いよいよ松前藩と戦う決意をするのです。

シャクシャインの呼び掛けによる蜂起

ここでアイヌ民族のリーダー・シャクシャインが登場します。

シャクシャインは杖を持って大きく右手を上げ

誇り高きアイヌの者共よ、よく聞け!今はお互いにいがみあってる時ではない!
今こそアイヌ民族全員が団結して、立ち上がる時なのだ!

と叫び、それまで対立していたアイヌ同士をまとめ上げました
そして松前藩(和人)と戦うことを決意したのです。

これが1669年に起きた、「シャクシャインの戦い」になります。

そしてシャクシャイン率いるアイヌ軍は、道南(どうなん)の松前藩をめがけて南下し、進軍してゆきます。
そして、国縫(くんぬい)までさしかかります。
先述の通り、当時はカタカナで「クンヌイ」と呼んでいました。アイヌ語由来の地名だからですね。

しかしシャクシャイン率いるアイヌ軍は奮戦むなしく、江戸幕府から武器や兵士の援助を次々に受けまくっていた松前藩の軍に対して、徐々に歯が立なくなってゆきます。
シャクシャインの軍は一応鉄砲は持っていたのですが、松前藩の軍より数が少なくて、「弓」と「矢」が主体の攻撃でした。これだとなかなか勝つのは難しいわけですね。

そしてシャクシャインの軍は、次々に敗退・後退してゆきます。
そして地元の日高(ひだか)・シブチャリ(静内)の地方へと、東へ東へ後退していくのです。

やがてシャクシャインは松前藩から(騙されて)嘘の和解を持ちかけられ、講和会議となりました。
そして酒の席にて酔っ払って油断していたところを、松前藩の役人に切り殺されてしまい、シャクシャインは死亡、リーダーを失ったアイヌ民族は敗北となりました。

松前藩に敗れたアイヌは、さらに松前藩による圧政に苦しむことを余儀なくされます。
その後も1789年の「クナシリ・メナシの戦い」という反乱や、明治時代になってアイヌ語を禁止されて日本語の使用を強要されるなど、こうしたアイヌ民族への抑圧が現代でも影を落としているのです。

八雲から森・新函館北斗を経て、一気に函館へ

八雲駅(やくもえき)から先も「特急北斗」で一気に森駅(もりえき)・新函館北斗駅(しんはこだてほくとえき)を経て、函館駅(はこだてえき)へと向かってゆきます。

正直、この辺りの車内ではかなり疲れていたのか、あまり覚えていません
窓の左側には噴火湾(内浦湾)の景色が凄かったと思うのですが、あまり覚えていません。

夜に函館駅に到着 何日かぶり しかし疲労でどこにも行けず

夜に函館へ着いたときは、もはや疲労バタンキューでした(^^;
函館へ来たのだからせめてラッキーピエロでも行こうと思ったのですが、「行き」の行程で函館観光は充分にやったことと、疲労が凄すぎてどこにも行かず、そのままホテルで寝てしまいました。

明日は函館を出発、再び本州へ

明日は函館を出発し、新函館北斗駅から本州へと戻ります。

今回はここまでです。最後まで読んでくださってありがとうございました!

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