栃木県・日光の観光・歴史について、わかりやすく解説してゆきます!
旅行・観光初心者の方にも、やさしく解説してゆきます!

中禅寺湖(栃木県日光市)
栃木県・日光の観光へ
今回は、私(筆者が)以前に栃木県の日光の観光に行ったときの話になります。

まずは宇都宮駅からスタート!
まずは、東北本線・宇都宮駅(栃木県宇都宮市)からのスタートになります!
宇都宮駅からは日光線に乗り替えて、日光へと向かいます。
「日光見ずして結構というなかれ」
という、昔のことわざがあったりします。
つまり、奥州街道(昔の人が約20日かけて、徒歩または馬で青森までかよっていた道)において、
宇都宮に着いた時点で、
まずとりあえず日光に寄っていきなさい
というような内容の意味になるでしょう。
奥州街道と日光街道、さらに日光の歴史などは以下の各記事でも解説しておりますので、ご覧ください。


江戸時代までは「日光街道」で日光まで旅していた
江戸時代までは先述の通り、
- 奥州街道
- 日光街道
で、徒歩または馬で時間をかけて来る必要がありました。
ちなみに奥州街道と日光街道は、
- 江戸(東京)~宇都宮
までは道が共通です。
宇都宮にある分かれ道(昔は追分と呼ばれました)で、東北方面と日光方面へ、それぞれ分かれてゆきます。
昔は鉄道も高速バスもありませんでしたから、こうした(当時としては綺麗で大きな)街道を通って、はるばると日光参拝へ訪れていたのですね。
明治時代からは、「鉄道」で旅がイージーに
しかし明治時代になると鉄道(現在の東北本線と日光線)が開かれて、一気に人々の移動は便利になり、日光参拝・観光のハードルが下がったのでした。
やがて日光は、日本人のみならず多くの外国人も参拝に訪れるようになるほどの、一大観光地として発展してゆくことになったのでした。
約40分の乗車を経て、日光駅に到着!
宇都宮駅を出発して約40分ほどして、
- 日光駅(栃木県日光市)
に着きます。

※日光駅にて(栃木県日光市)

日光駅(栃木県日光市)
栃木県日光市をはじめとする日光の地は、古くから仏教の修行の地として栄えてきました。
日光の「中禅寺湖」
日光には、中禅寺湖や男体山のような、まるで神様が作ったかのような広大で、しかも神秘的な山々や湖が存在します。
その大昔、勝道上人というお坊さんによって発見されました。

中禅寺湖(栃木県日光市)
「修験道」の拠点
むかしむかし、仏教の修行のために(日光の)山奥深くに入りこんだお坊さんが、たまたまこんな巨大な湖(=中禅寺湖)と巨大な山(=男体山/なんたいさん)を見つけたのでした。
その時は
と思ったのかもしれません。
そのため、それ以降は
と人々に信じられてきたのですね。
このように、山奥で修行をすることを修験道といいます。
徳川家康を神様として祀まつる、日光東照宮
江戸幕府を開いた徳川家康は、最晩年を過ごした静岡・駿府で亡くなってからは、まず遺骨は
- 静岡県静岡市の、久能山東照宮
に納められました。
その翌年、家康の遺言により、日光のこの地に遺骨が納められたのでした。
「関八州の総鎮守」
徳川家康は、上記の遺言に加えて
と宣言していたのでした。
「関八州」とは?
関八州とは、関東地方のことです。
関東地方は武蔵国・相模国など8つの国があったため、関八州というわけです(現在は1都6県)。
これは、九州がかつて9つの国(現在は8県)だったため、九州ということと同じですね。
「総鎮守」とは
総鎮守とは、その地域の安全・治安・健康・豊作・繁盛などを守る、いわば守り神のことです。
昔は常に争い・疫病・凶作・自然災害などの恐怖がありましたから、こうした総鎮守は人々にとって重要な心の拠り所でした。
それが徳川家康を神様として祀る、日光東照宮という神社であり、関八州の総鎮守ということになります。
静岡県の久能山東照宮については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

なぜ徳川家康は、日光の地で祀られることを選んだ?
ではなぜ徳川家康が、
と言ったのかに関しては、様々な説があります。
説1)久能山東照宮から富士山に向けて直線を引き、さらにその延長線上に日光の地があるため。
(これはガチなので、ぜひ地図で確認してみてください!面白いですよ。)
説2)江戸城から真っすぐ北に直線を伸ばすと、日光の地にたどり着くため。
さらに永遠に北へ直線で辿ると、北極星にたどりつくため。
すべての星は北極星を中心に廻っている(地球から見た場合)ため、まるで徳川家康がこの世のすべてを、北極星となって見守っているかのようにも思える。
あなたは、なぜ徳川家康が日光の地を選んだと思うでしょうか。
日光の神社と、「手伝普請」
日光東照宮は、三代目の徳川家光のときに大規模に(豪華に)改修されています。
そのとき、各地の藩に対して、手伝い(建設事業・公共事業など)をなかば強要し、無理やり建設費や材料費・人件費などを負担させて建設されました。
これを手伝普請といい、各藩が幕府に逆らうための財力を持たせないようにするため、わざと費用を負担させ、さまざまな(公共の)建設工事をさせていったことをいいます。
その他の「手伝普請」の例
この「手伝普請」により、江戸時代には川の氾濫を防ぐための工事も行われたりしました。
それは川の堤防を造ったり、川を広くして水を溢れにくくしたり、カーブを減らしてまっすぐな川にしたりすることです。
そういった工事は、他にも
- 愛知県・三重県の、木曽三川の工事
- 千葉県の、印旛沼干拓
などがあります。
それによって木曽三川工事における薩摩藩のように、過酷な工事によって多くの人々が犠牲になった藩もあります。
木曽三川工事については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

印旛沼干拓については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

日光駅からは、バスで一気に山を登り、中禅寺湖へ
日光駅からはバスで、日光の観光の超目玉ともいえる、
- 中禅寺湖
- 男体山
- 華厳の滝
などがあるエリアまで、ぐんぐんと登ってゆきます。
標高1,269mにもおよぶとても標高の高い場所まで行くため、かなり急な坂とカーブの多い山道を登ってゆきます。
以前に神奈川県・箱根の山へ行ったときも、急な坂と急カーブが多いと感じましたが、日光もそれに負けじと劣らない(むしろ日光の方がキツい?)険しさであると感じました。
なぜ山奥ほど、急カーブが多くなるのか?
なぜ山奥では急カーブが多いのかというと、カーブを多くして大回りするこで距離を稼ぎ、少しでも勾配をゆるくしているのですね。
直線距離で結ぶと急すぎて登れないばかりか、滑落事故の危険すらあるからです。
雪が積もる冬であるならば、なおさらですね。
こうした急カーブの連続を、ヘアピンカーブ、もしくは「つづら折り」といいます。
ヘアピンカーブは、マリオカートではもはやお馴染みですね。あれは曲がりきれない・・・
標高1,269m・中禅寺湖へ到着!
バスで急で険しい坂道を約40分登り続け、ついに中禅寺湖のエリアに到達します。
標高1,200mを越える地点になるため、気温はかなり冷えます。

中禅寺湖(栃木県日光市)

中禅寺湖より(栃木県日光市)
中禅寺湖は、先述の通り勝道上人というお坊さんによって発見されました。
上人とは、お坊さんに対して敬意をこめて付ける、敬称のようなものです。
大昔の仏教は山奥で修行することがメインであり、まるで神様のように大きく神秘的な山ほど、信仰の対象になりやすかったのです(それは富士山も同じ)。
昔の僧侶がこの地にたどり着いたときは、それはそれはこの世の楽園を見つけたかのように、感動したでしょうね。
中禅寺湖のそばには、男体山(標高2,486m)がまるで富士山のようにそびえ立ちます。
「華厳の滝」に移動
そして、日光で最も有名な滝ともいえる、華厳の滝のエリアへと移動します。
華厳の滝は、先述の中禅寺湖から流れ出る滝です。
中禅寺湖も、過去に先述の男体山が噴火したときの堆積物によって、水が塞き止められて(水が溜まって)できた湖になります。

華厳の滝(栃木県日光市)

華厳の滝(栃木県日光市)
本当に滝の流れがすごくて、
「うおーすごい!」という感想しか思い浮かびませんでした(^^;
まるで松尾芭蕉が江戸時代の「おくのほそ道」における東北地方の旅で、日本三景・松島の景色を見たとき、
と、何一つ感想の言葉が口から出てこなかったのと同じですね。

「華厳の滝」の前より。(栃木県日光市)
華厳の滝については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

日光駅へ戻り、東京へ帰宅

※日光駅に戻り、帰還!(栃木県日光市)
華厳の滝を見終えて、再びバスで山を降りて、先述の日光東照宮や陽明門あたりの観光を終えました。
日光は国際的に有名な観光地であるためとても外国人の方々が多く、外国人にナンパされた後、再び日光駅から宇都宮駅に戻りました。
外国人の方とも英語でコミュニケーションしたりして、楽しかったです!
おまけ:筆者の自撮り写真

「東京スカイツリーと同じ高さです。」の表示。ここは標高634mの位置とのこと。栃木県日光市。

中禅寺湖にて(栃木県日光市)
日光の中禅寺湖のあるエリアは、バスで本当に高いところに登ったところにあるので、本当に神秘的エリアで、また仏教の修行の場にとして、また観光地としてもふさわしくなる理由がとてもよくわかった気がしました!
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