冬の【東京→北海道】鉄道旅17(帰り)函館→新函館北斗→盛岡

函館を出発、本州・青森へ

朝、函館のホテルで起きると、函館駅から新函館北斗駅(しんはこだてほくとえき、北海道北斗市)まで向かい、北海道新幹線・東北新幹線で一気に盛岡駅(もりおかえき、岩手県盛岡市)まで向かいます。

なぜ盛岡に寄りたかったのかというと、「行き」の行程では新幹線で岩手県を全部すっ飛ばしてしまったからです。
「帰り」では岩手県に寄って帰ろうということです。

北海道の旅もこれで最後であり、北海道を離れるのが少し名残惜しく感じます。
というか、新函館北斗駅を出て、新幹線の窓のはるか向こうに映る函館山が、景色から消えていくたびに、本当に名残惜しく感じます。

函館駅を出発、新函館北斗駅へ
新函館北斗駅(北海道北斗市)
新函館北斗駅を出発!

「行き」でも通った青函トンネルを再びくぐり、約30分にもおよぶトンネルの暗闇を過ぎたあと、何日かぶりの本州に戻ってきます。
そして奥津軽いまべつ駅(おくつがるいまべつえき、青森県東津軽郡今別町)を過ぎて、新青森駅(しんあおもりえき、青森県青森市)まで戻ってきます。

新函館北斗駅からはやぶさに乗車、一気に盛岡へ

新青森駅からも、引き続き新幹線(東北新幹線)で盛岡駅まで一気に南下します。
この区間は時速260kmに速度が制限されており、新幹線なのになかなかスピードが出せない区間となります。

新青森駅。奥羽本線と交差する。(青森県青森市)
いわて沼宮内駅(岩手県岩手郡岩手町)

東北新幹線のうち、盛岡駅~新青森駅の区間は整備新幹線といって、国の法律(全国新幹線鉄道整備法)によって建設された区間になります。
それは全国を新幹線で結んで、便利にしようという法律であり、1960年代の東海道新幹線の成功を受けて、全国に新幹線を建設してゆき、日本全体を発展させていこうという目的の法律になります。

なかなか高速運転ができない、整備新幹線

整備新幹線は、なかなか利益の出にくい地方都市を走ることが多い都合上、設備も高速運転に対応していません。
整備新幹線には厳しい制限速度が決められており、現状では最高で時速約260kmが限界となってしまっています。
というのも、先述の法律(全国新幹線鉄道整備法)が1970年に作られたので、当時の基準で「速い」のが時速約260kmだからです。1970年代で時速260kmは確かに速いですからね。
なので、その時速260kmで走る前提の整備しかない区間であまりに高速で走ると、防音・騒音の問題にもつながりかねないため、速度が出せないのですね。

しかしこれ以上(例えば宇都宮~盛岡間と同じ、時速320kmまで)速度を上げようとすると、防音対策の工事などを行う必要が出てきてさらにコストがかさむので、そうなると運賃がさらに上がってしまうリスクもあります。
しかもこの区間(盛岡以北)は、JR社の設備ではなく、国の設備という扱いになります。JR社が国から線路を借りて(リース)して、新幹線を走らせているのですね
そのため、JR社の都合で線路設備を好き勝手にいじることはできないのです。そういう厳しい制約があるからですね。

しかし2030年に北海道新幹線が札幌まで延伸すると、東京~札幌の直通新幹線はどうやっても羽田空港~新千歳空港を飛ぶ飛行機には勝てません。
それは「4時間の壁」といって、「新幹線は4時間を越えると、飛行機には勝てない」と言われている(経験則がある)からです。
なので盛岡以北の区間も時速320kmまで引き上げ、また盛岡以南の区間も時速360kmまで上げるための工事が行われる構想があるとのことです。

けど昔の新幹線はせいぜい時速220kmほどでしたから、それに比べたら実は現状の時速260kmでも結構速いんですよね。
ただ宇都宮~盛岡間が時速320km、山陽新幹線の最高速度が時速300kmなので、どうしてもやや見劣りしてしまうわけですね。

北海道新幹線・札幌延伸で、札幌~盛岡も活性化?

2030年に北海道新幹線札幌まで延伸すると、盛岡~札幌までの移動の需要が増えるでしょう。
そうすると、この区間の利用者も増加すると考えられるため、航空機との競合のためにも速度が(時速320kmほどまでには)改善されることでしょう。

約2時間の新幹線乗車を経て、盛岡駅に到着!

新函館北斗駅から約2時間ほどの乗車を経て、盛岡駅(もりおかえき、岩手県盛岡市)に到着します。新幹線でも2時間の距離であり、函館から盛岡がいかに遠いか(+上述のスピードアップの面で苦戦しているか)がわかります。

東北新幹線・盛岡駅で下車!

盛岡駅で降りて休憩します。

「行き」のときは盛岡駅では降りずに通過したので(その日の夜までに函館へ着く必要があった)、今回は盛岡駅で降りることにします

盛岡市は、伝統的工芸品である南部鉄器(なんぶてっき)や羽二重織り(はぶたえおり)、そして「わんこそば」や「福田パン」などが有名です。
福田パンは、盛岡市民・岩手県民によっては全国共通のパンだと信じられているそうです(^^;

盛岡市の名産については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第35番 盛岡の名物や観光 羽二重織・南部鉄器・岩手山・わんこそばなど

盛岡では、「捨てる」を「なげる」という

盛岡をはじめとする東北地方では、ゴミを「捨てる」ことを「なげる」と言うそうです。
「投げる」というと、むしろゴミを「放置する」というような意味にも聞こえてしまいます(^^;
東北出身の人が東京に進学・就職して、東京で通じなくてギャップを受ける言葉の一つとなるでしょう。

また、大阪では「ゴミをほる」といいます。
ほる」は、”“にアクセントを置きます。
また、ちょっと派生系で「(ゴミ)ほんねんで」「(ゴミを)ほかす」ともいいます。

「ほんねんで」は、2文字目の”ん”にアクセントを置きます。
「ほかす」は、”無アクセント”で発音します。

大阪で「ゴミほっといてや」と言われて、本当に「放置」してはなりません当たり前ですが・・・)。
これも大阪に就職・転勤したときに、地方出身者が困惑するポイントです。

「ほっといてや」も”無アクセント”です。

“と”にアクセントを置くと、確かに標準語で「放置しておいてください」「そっとしておいてください」などの意味になります。
なので、大阪出身の方が”無アクセント”で「ほっといてや」と発音すると、真逆の意味である
捨てなさい、処分しなさい
という意味で使っているんだな、と察知できるかどうかがポイントです。

また、大阪出身の方は「ほっといてや」を標準語だと信じていて(方言とは知らずに)使っている可能性もあるので、もし意味が通じなかったら、念のために

失礼ですが捨てなさいという意味ですか?」などのように確認することも(相手にとっては失礼にあたる可能性はありますが、コミュニケーションのミスマッチ防止のために)必要となってくるかもしれません。

このように日本語は、地方によって、またアクセントの違いによって、まったく真逆の意味になる言葉(方言)があり、怖かったりします。
また、方言だとは知らずに標準語だと思っていて、東京の就職先でうっかり使ってしまい通じなかった(しかも笑われて恥ずかしい思いをする)、などのケースもあると思います。
しかもそれが仕事というミスが許されないシチュエーションで、トラブルに発展してしまうケースもあるのです。

方言は普段の会話だと楽しいしカワイイものもありますが、仕事となると上記のようなコミュニケーションミスマッチ・誤解釈も怖いため、地方出身者であるならばできる限り標準語でしゃべれるようにもしたいものですね(もちろん、方言を否定する意図はありませんし、方言そのものは素晴らしいと思います)。

ちなみに東京出身者は、方言が羨ましいそうです。

江戸時代の盛岡を支えた、朴木金山

盛岡には、かつて江戸時代に朴木金山(ほおのききんざん)という金山がありました。
それは新潟県の佐渡金山(さどきんざん)と同じく、当時は世界的に珍しかった「金(ゴールド)」をたくさん輸出することで、その利益をもって幕府の財源+江戸時代の日本を豊かにしようとしたのです。

金山(きんざん)での仕事は、危険だけども給料も高いものでした。今でいう「3K(きつい、汚い、危険)」です。

洞窟(どうくつ)などの危険な場所で金を堀り出す作業を行うため、常に落盤(らくばん:天井が崩壊して落ちてくること)・酸素欠乏(=洞窟の奥深くまで、酸素が行き届かないことで起こる)・滑落(かつらく:高い所から落ちる事故)・じん肺(=小さい埃をたくさん吸うことで、肺がやられること)などの危険があり、鉱山などこうした危険な職種は「なり手」が少ないため、給料が高くなる傾向があります。

危険なだけに給料も高いため、金山の近くにはたくさんの「遊女(ゆうじょ)」などがいたようです。
遊女(ゆうじょ)とは、男性からお金を受け取って、男性にとって様々な(おいしい)事をしてあげるのが仕事の女性のことです。

働き盛りのエネルギッシュな男性にとっては、余ったお金でそういう事をしたいでしょうし、女子にとってもお金が効率的に稼げることから、需要と供給のバランスが見事にマッチして、Win-Winな関係にあったわけです。

朴木金山は、なぜか「治外法権(ちがいほうけん)」が適用されており、隠れキリシタンの潜伏先となっていました。そのため、そこには「聖母マリア像」などもありました。
治外法権(ちがいほうけん)とは、「法の適用」を免除される権利のことをいいます。もっと簡単にいえば、そこで法を犯しても捕まらない・裁かれない、という特権です。江戸時代ではキリスト教は禁止だったのですが、治外法権のある朴木金山ではキリスト教を信仰していても、なんら文句は言われなかったのです。

隠れキリシタン」とは、江戸時代に鎖国をしていた日本においてキリスト教が禁じられていた中で、幕府に隠れてキリスト教を信仰していた人々です。
例えば、見た目は「仏像」であっても実際には「聖母マリア」の像だったり、一見したら「普通のお墓」でも、よく見ると「十字架」が刻まれていたりしました。
このようにして、江戸時代に隠れキリシタンたちはあの手この手を使って、隠れてキリスト教を信仰していたのでした。
イエス・キリストは、罪を犯した人や自己肯定感の低い人を許して(赦して)くれるという教えなのですから、江戸時代のように重い年貢飢饉災害などに苦しむ人々の心の拠り所(よりどころ)になりやすかった、というのもわかる気がしますね。

ではなぜ朴木金山が治外法権の対象だったのかについてですが、おそらくですが・鉱山という危険な労働環境だと事故が多発しやすいため、いちいち法の適用をしていられなかったことが挙げられると思いますが、真相はわかりません。あと勝手な想像なのですが、人手(ひとで)が足りなすぎて、ある程度の自由を認めるというメリットを労働者に提供するために治外法権があったのかもしれません。

現在では、工事現場や工場などのような危険性の高い職場においては、労働安全衛生法などの法律によって、労働者が怪我や病気にならないよう、厳しい管理下にあります。

江戸時代の盛岡を震撼させた、杉田大作事件

江戸時代後期の1821年5月、相馬大作事件(そうまだいさくじけん)という、盛岡藩の武士が参勤交代から帰ってきた津軽藩の武士を殺害しようとし、未遂に終わったという事件がありました。

相馬大作(そうま だいさく)とは、とある盛岡藩の武士(=殺害を企てた人物像)がそう名乗ったことに由来し、決して本名が「相馬大作」というわけではありません。「相馬」という名前は福島県ではネームバリューの高い名前なので、自身に権威性・カリスマ性を持たせるために、あえて「相馬」の名前を名乗ったのかもしれませんね。

盛岡藩は江戸時代を通じて「南部氏」という一族によって支配されてきたため、「南部藩」とも呼ばれます。
なので以下、盛岡藩のことを「南部藩」という呼称で統一します

津軽藩(つがるはん)は、現在の青森県弘前市(ひろさきし)を拠点にしていた藩です。

なぜ南部藩の武士(相馬大作)が津軽藩を狙ったのかというと、簡単にいえば戦国時代からずっと因縁の仲にあった津軽藩に対して、南部藩の不満と怒りが爆発したからですね。

元々、津軽藩は南部藩から派生して出来た藩なので(津軽藩側はこれを否定)、おそらく南部藩としては津軽藩は「格下」という見方だったのでしょう。
つまり南部藩は津軽藩のことを「下」に見ていたため、江戸時代における参勤交代で江戸に行った時は、江戸城では南部藩の扱いが「上」であって、津軽藩の扱いが(南部藩にとっては)「下」でなくてはなりません。

封建社会であった江戸時代に、平等という概念はありません。つまり、常に誰かが「上」であって、誰かが「下」の立場なのです。
まず「士農工商」という身分制度があるため、身分の「低い側」が「高い側」に対してはもちろんタメ口はきけません。
しかし同じ「武士」であっても、上級武士と下級武士とでは、同じ扱い・待遇なわけがなく、下級武士が上級武士に対してタメ口を聞くことなどは許されません。
さらに、同じ上級武士どうしであっても、50万石の武士と、10万石の武士では平等・対等なわけもありません。
このように、江戸時代は徹底した「上下社会」であるという前提がまずあります。
ただ一ついえるのは、徳川将軍こそが「最上位」ということだけです。

参勤交代で江戸に赴(おもむ)くと、江戸城では格の高い大名が優遇され、低い大名はそれに比べて冷遇されることになります。
ここで、南部藩と津軽藩は、江戸城での扱いが「同一」であり、これは南部藩としては屈辱的なことでした。
元々津軽藩を下に見ていた南部藩としては、津軽藩と同じ扱いをされるのは、これは屈辱なわけです。

しかも南部藩は、戦国時代に津軽氏より(青森県にあった)南部氏領土を攻められ、占領されてしまったという屈辱的な歴史がありました。
しかも江戸時代には津軽藩が幕府の老中(偉い人)と仲良かったこともあり、津軽藩は優遇されてどんどん出世してゆき、江戸幕府からの評価が上がり、格が上がってゆきました。
そうなると、南部藩にとっては津軽藩がいつの間にか自分達と「同等の扱い」か、下手をしたら南部藩の方がむしろ「格下の扱い」のようになっていったのでした。

そうして長年にわたって不満が溜まりに溜まった結果、津軽藩のエラい武士が参勤交代から(東北地方へ)帰ってきたところ、待ち受けていた盛岡藩の武士・相馬大作に切られてしまいそうになったのですね(未遂)。
これが「相馬大作事件」です。

この相馬大作事件は江戸の人々にもかなり衝撃を与えたようで、
赤穂事件(あこうじけん)の再来
みちのくの忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」
などのように呼ばれたりもしました。

赤穂事件(あこうじけん)が何かについては、以下の記事でも詳しく解説していますので、ご覧ください

鉄道唱歌 山陽・九州編 第9番 相生駅から、47人の赤穂義士ゆかりの地へ

次回は最終回 盛岡駅を出発、仙台→東京へ帰還

次回は最終回で、盛岡駅を出て仙台から東京へ帰還します。

今回はここまでです。
最後まで読んでくださってありがとうございました!

【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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