冬の東北新幹線の鉄道旅と、盛岡の歴史などについて、初心者の方にも、わかりやすく解説してゆきます!
盛岡駅(盛岡市)に到着!
盛岡駅で降りて休憩します。

東北新幹線・盛岡駅で下車!(岩手県盛岡市)
「行き」のときは盛岡駅では降りずに通過したので(その日の夜までに函館へ着く必要があった)、今回は盛岡駅で降りることにします。

盛岡駅に到着!(岩手県盛岡市)
盛岡市の話題・観光・名物など
南部鉄器、羽二重織り
盛岡市は、伝統的工芸品である
- 南部鉄器
- 羽二重織りはぶたえおり
そして「わんこそば」や「福田パン」などが有名です。
福田パンは、盛岡市民・岩手県民によっては全国共通のパンだと信じられているそうです(^^;
盛岡市の名産については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

盛岡では、「捨てる」を「なげる」という
盛岡をはじめとする東北地方では、ゴミを「捨てる」ことを「なげる」と言うそうです。
「投げる」というと、むしろゴミを「放置する」というような意味にも聞こえてしまいます(^^; 東北出身の人が東京に進学・就職して、東京で通じなくてギャップを受ける言葉の一つとなるでしょう。
大阪では「ゴミをほる」という
一方、大阪では「ゴミをほる」といいます。
「ほる」は、”る“にアクセントを置きます。
また、ちょっと派生系で「(ゴミ)ほんねんで」「(ゴミを)ほかす」ともいいます。
「ほんねんで」は、2文字目の”ん”にアクセントを置きます。
「ほかす」は、”無アクセント”で発音します。
「ゴミほっといてや」!?
大阪で「ゴミほっといてや」と言われて、本当に「放置」してはなりません(当たり前ですが・・・)。
これも大阪に就職・転勤したときに、地方出身者が困惑するポイントです。
「ほっといてや」も”無アクセント”です。
“と”にアクセントを置くと、確かに標準語で「放置しておいてください」「そっとしておいてください」などの意味になります。
なので、大阪出身の方が”無アクセント”で「ほっといてや」と発音すると、真逆の意味である 「捨てなさい、処分しなさい」 という意味で使っているんだな、と察知できるかどうかがポイントです。
また、大阪出身の方は「ほっといてや」を標準語だと信じていて(方言とは知らずに)使っている可能性もあるので、もし意味が通じなかったら、念のために
「失礼ですが、捨てなさいという意味ですか?」
などのように確認することも(相手にとっては失礼にあたる可能性はありますが、コミュニケーションのミスマッチ防止のために)必要となってくるかもしれません。
このように日本語は、地方によって、またアクセントの違いによって、まったく真逆の意味になる言葉(方言)があり、怖かったりします。
また、方言だとは知らずに標準語だと思っていて、東京の就職先でうっかり使ってしまい通じなかった(しかも笑われて恥ずかしい思いをする)、などのケースもあると思います。
しかもそれが仕事というミスが許されないシチュエーションで、トラブルに発展してしまうケースもあるのです。
方言は普段の会話だと楽しいし、カワイイものもあります。
しかし、仕事となると上記のようなコミュニケーションミスマッチ・誤解釈も怖いため、地方出身者であるならば、できる限り標準語でしゃべれるようにもしたいものですね(もちろん、方言を否定する意図はありませんし、方言そのものは素晴らしいと思います)。
ちなみに東京出身者は、方言が羨ましいそうです。
江戸時代の盛岡を支えた、朴木金山
盛岡には、かつて江戸時代に朴木金山という金山がありました。
それは新潟県の佐渡金山と同じく、当時は世界的に珍しかった「金(ゴールド)」をたくさん輸出することで、その利益をもって幕府の財源+江戸時代の日本を豊かにしようとしたのです。
金山での仕事は、危険だけども給料も高いものでした。
今でいう「3K(きつい、汚い、危険)」です。
洞窟などの危険な場所で金を堀り出す作業を行うため、常に
- 落盤(天井が崩壊して落ちてくること)
- 酸素欠乏(=洞窟の奥深くまで、酸素が行き届かないことで起こる)
- 滑落(高い所から落ちる事故)
- じん肺(=小さい埃をたくさん吸うことで、肺がやられること)
などの危険があり、鉱山などこうした危険な職種は「なり手」が少ないため、給料が高くなる傾向があります。
危険なだけに給料も高いため、金山の近くにはたくさんの「遊女」などがいたようです。
遊女とは、男性からお金を受け取って、男性にとって様々なおいしい事をしてあげるのが仕事の女性のことです。
働き盛りのエネルギッシュな男性にとっては、余ったお金でそういう事をしたいでしょうし、女子にとってもお金が効率的に稼げることから、需要と供給のバランスが見事にマッチして、Win-Winな関係にあったわけです。
朴木金山は、なぜか「治外法権」が適用されており、隠れキリシタンの潜伏先となっていました。
そのため、そこには「聖母マリア像」などもありました。
治外法権とは、「法の適用」を免除される権利のことをいいます。
もっと簡単にいえば、そこで法を犯しても捕まらない・裁かれない、という特権です。
江戸時代ではキリスト教は禁止だったのですが、治外法権のある朴木金山ではキリスト教を信仰していても、なんら文句は言われなかったのです。
「隠れキリシタン」とは、江戸時代に鎖国をしていた日本においてキリスト教が禁じられていた中で、幕府に隠れてキリスト教を信仰していた人々です。
例えば、見た目は「仏像」であっても実際には「聖母マリア」の像だったり、一見したら「普通のお墓」でも、よく見ると「十字架」が刻まれていたりしました。
このようにして、江戸時代に隠れキリシタンたちはあの手この手を使って、隠れてキリスト教を信仰していたのでした。
イエス・キリストは、罪を犯した人や自己肯定感の低い人を許して(赦して)くれるという教えなのですから、江戸時代のように重い年貢や飢饉・災害などに苦しむ人々の心の拠り所になりやすかった、というのもわかる気がしますね。
ではなぜ朴木金山が治外法権の対象だったのかについてです。
それは、おそらくですが・鉱山という危険な労働環境だと事故が多発しやすいため、いちいち法の適用をしていられなかったことが挙げられると思います。
ただし、真相はわかりません。
あと勝手な想像なのですが、人手が足りなすぎて、ある程度の自由を認めるというメリットを労働者に提供するために治外法権があったのかもしれません。
現在では、工事現場や工場などのような危険性の高い職場においては、労働安全衛生法などの法律によって、労働者が怪我や病気にならないよう、厳しい管理下にあります。
江戸時代の盛岡を震撼させた、相馬大作事件
江戸時代後期の1821年5月、相馬大作事件という、盛岡藩の武士が参勤交代から帰ってきた津軽藩の武士を殺害しようとし、未遂に終わったという事件がありました。
相馬大作とは、とある盛岡藩の武士(=殺害を企てた人物像)がそう名乗ったことに由来します。
なので、決して本名が「相馬大作」というわけではありません。
「相馬」という名前は福島県ではネームバリューの高い名前なので、自身に権威性・カリスマ性を持たせるために、あえて「相馬」の名前を名乗ったのかもしれませんね。
盛岡藩は江戸時代を通じて「南部氏」という一族によって支配されてきたため、「南部藩」とも呼ばれます。
なので以下、盛岡藩のことを「南部藩」という呼称で統一します。
津軽藩は、現在の青森県弘前市を拠点にしていた藩です。
なぜ南部藩の武士(相馬大作)が津軽藩を狙ったのかというと、簡単にいえば戦国時代からずっと因縁の仲にあった津軽藩に対して、南部藩の不満と怒りが爆発したからですね。
元々、津軽藩は南部藩から派生して出来た藩になります(津軽藩側はこれを否定)。
そのため、おそらく南部藩としては津軽藩は「格下」という見方だったのでしょう。
つまり南部藩は津軽藩のことを「下」に見ていたため、江戸時代における参勤交代で江戸に行った時は、江戸城では南部藩の扱いが「上」であって、津軽藩の扱いが(南部藩にとっては)「下」でなくてはなりません。
封建社会であった江戸時代に、平等という概念はありません。
つまり、常に誰かが「上」であって、誰かが「下」の立場なのです。
まず「士農工商」という身分制度があるため、身分の「低い側」が「高い側」に対してはもちろんタメ口はきけません。
しかし同じ「武士」であっても、上級武士と下級武士とでは、同じ扱い・待遇なわけがなく、下級武士が上級武士に対してタメ口を聞くことなどは許されません。
さらに、同じ上級武士どうしであっても、50万石の武士と、10万石の武士では平等・対等なわけもありません。
このように、江戸時代は徹底した「上下社会」であるという前提がまずあります。
ただ一ついえるのは、徳川将軍こそが「最上位」ということだけです。
参勤交代で江戸に赴くと、江戸城では格の高い大名が優遇され、低い大名はそれに比べて冷遇されることになります。
ここで、南部藩と津軽藩は、江戸城での扱いが「同一」であり、これは南部藩としては屈辱的なことでした。
元々津軽藩を下に見ていた南部藩としては、津軽藩と同じ扱いをされるのは、これは屈辱なわけです。
しかも南部藩は、戦国時代に津軽氏より(青森県にあった)南部氏領土を攻められ、占領されてしまったという屈辱的な歴史がありました。
しかも江戸時代には津軽藩が幕府の老中(偉い人)と仲良かったこともあり、津軽藩は優遇されてどんどん出世してゆき、江戸幕府からの評価が上がり、格が上がってゆきました。
そうなると、南部藩にとっては津軽藩がいつの間にか自分達と「同等の扱い」か、下手をしたら南部藩の方がむしろ「格下の扱い」のようになっていったのでした。
そうして長年にわたって不満が溜まりに溜まった結果、津軽藩のエラい武士が参勤交代から(東北地方へ)帰ってきたところ、待ち受けていた盛岡藩の武士・相馬大作に切られてしまいそうになったのですね(未遂)。
これが「相馬大作事件」です。
この相馬大作事件は江戸の人々にもかなりの衝撃を与えたようで、 「赤穂事件の再来」 「みちのくの忠臣蔵」 などのように呼ばれたりもしました。
赤穂事件が何かについては、以下の記事でも詳しく解説していますので、ご覧ください。
鉄道唱歌 山陽・九州編 第9番 相生駅から、47人の赤穂義士ゆかりの地へ
おまけ:筆者の自撮り写真
ここでは、スペースの都合上、本文中に載せられなかった写真を載せてゆきます!

盛岡駅に到着!(岩手県盛岡市)

盛岡駅に到着!(岩手県盛岡市)
次回は最終回 盛岡駅を出発、仙台→東京へ帰還
次回は最終回で、盛岡駅を出て仙台から東京へ帰還します。
今回はここまでです。
最後まで読んでくださってありがとうございました!
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