道北・宗谷本線の旅6【中編】 廃止された抜海駅 そして利尻島の景色

道北・宗谷本線の旅について、わかりやすく解説してゆきます!
抜海駅・利尻島などの地理・歴史を、やさしく解説してゆきます!

日本最北の秘境駅・無人駅・木造駅、抜海駅(廃止)

抜海駅は、2025年3月に廃止となりました。
以下、2024年9月時点の情報が混じっていますので、ご注意ください。

やがて、抜海駅ばっかいえき(北海道稚内市抜海村)に到着します。

抜海駅(北海道稚内市抜海村)(※現在は廃止されています)

抜海駅ばっかいえきは、稚内市管理下の無人駅でした。
そして、いわゆる日本最北の秘境駅・木造駅・無人駅と言われていました。
そのため、鉄道ファンの間ではかなり名高い駅でした。

2025年3月のダイヤ改正をもって、抜海駅は廃止

しかし、地元民にとっての利便性の低さから、何度も廃止の議論が持ち上がり、なんとか稚内市が維持費用を負担させた持ちこたえているという形の駅でした。
しかし、残念ながら2025年3月をもって廃止となりました。

秘境駅とは?

ちなみに秘境駅とは、例えば

  1. めっちゃ山奥か人口閑散地域にあり、
  2. さらに列車の数が極端に少なく、
  3. 列車でもクルマでも、たどり着くのも難しい駅

というような意味合いで使われます。

日本一の秘境駅と呼ばれているのは北海道・室蘭本線の

  • 小幌駅こぼろえき(北海道虻田郡豊浦町)

であり、他にも

  • 九州・日豊本線の、宗太郎駅そうたろうえき(大分県佐伯市)
  • 飯田線いいだせんの、小和田駅こわだえき(静岡県浜松市天竜区)
  • 同じく飯田線の、田本駅たもとえき(長野県下伊那郡泰阜村)

などが主な秘境駅として挙げられます。

また、以前も紹介した

  • 糠南駅ぬかなんえき
  • 雄信内駅おのっぷないえき廃止

なども、ユニークな秘境駅です。
このように、北海道にはこうした秘境駅がたくさん存在し、鉄道マニア・鉄道ファンからの人気があります。

雄信内駅も、2025年3月をもって廃止となりました。

抜海駅の廃止議論から、廃止へ

抜海駅(北海道稚内市抜海村)

抜海駅は残念ながら、2025年3月のダイヤ改正をもって廃止されました。

これは、稚内市議会にて決定したわけです。

市民の税金の使い道を決める「市議会」

市議会とは、例えば

  • 道路や電柱を治す
  • 出産や介護なのどの補助金を拡充する
  • 学校にクーラーをつけたりする

といった「市で行う政策」に対して市民の税金を使いたいときに、その予算は果たして正しいのかを判定する会議です。

その会議には、主に市民の選挙で選ばれた政治家である市議会議員が参加します。

市議会は、多数決となります。例えば、

  • 賛成多数になれば「可決」となり、予算を使用して、政策は実行に移される
  • 反対多数になれば「否決」となり、予算は使用できず、政策は実行されない

ということになります。

賛成になるかどうかは、

  • 税金を使ってまでやる政策が、市民にとってメリットになるかどうか

で決まります。

しかし、例えば広島県安芸高田市のように、石丸伸二・前市長の決定が「嫌い」というだけで、反対多数で否決に回るということもあります。
ちなみに、この市長と市議会の対立は、YouTubeで相当バズり、有名になりました。

市民にとって駅にメリットがないと、駅は廃止となる

これらを踏まえた上で、話を戻します。

抜海駅の年間100万円にもおよぶ維持費用は、稚内市の税金から出た予算によって、支出されているわけです。

そのため、

  • 抜海駅の存在が、稚内市民にとってメリットが無い

ものと判断された場合、市議会で予算を否決されてしまい、維持管理費用はもう出せなくなり、駅は廃止となります。

まとめると、稚内市民にとって抜海駅の存在に価値が無いと判断されたら、駅は廃止されることとなるわけです。

惜しまれつつも廃止された、抜海駅

抜海駅は、抜海の町(集落)からは遠く、地元の稚内市民の移動の足としてはほぼ機能していません
抜海駅を維持させるために税金を使うなら、高齢者用のバス等や介護、出産育児などに対して税金を回してほしい、というような市民の意見も出てくるでしょう。

こうした様々な市民の意見を踏まえて、廃止が決定となったのでした。

日本最北端の秘境駅・木造駅の抜海駅が廃止されたことは、多くの鉄道ファンとしては悲しい限りであることでしょう。

しかし、むしろ稚内市の努力でここまで延期に延期を重ね、稚内市民の税金で年間100万円を維持負担してくれたことで残ってきたことには感謝すべきことなのかもしれません。

抜海駅から、原野を走り抜く

抜海駅(跡)を出ると、次の

  • 南稚内駅みなみわっかないえき(北海道稚内市)

まで、約13分という長い距離を走ります。
しかし、抜海駅は廃止となりましたので、勇知駅~南稚内駅までは駅が存在しなくなったため、約24分間も停車せずに走り続けることになりました。

ここからの車窓・景色は圧巻で、本当に「北海道に来て良かった」と心から思えるような景色になります。

広がる原野(宗谷本線の車窓より)

窓からは果てしない(本州ではまず見られないような原野が広がり、感動すらします。

広がる原野(宗谷本線の車窓より)

原野げんやとは「いまだ手付かずの土地」のような意味になります。
つまり人類が誕生してから、未だ全然人の手がつけられていないまま今に至るような土地です。

鉄道唱歌 北海道編 南の巻の第一番で

千里の林 万里の野

と歌われていますが、まさにその通りの景色が広がっています。

鉄道唱歌 北海道編については以下の記事でわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 北海道編 南の巻第1番 北海道の旅に出発!
鉄道唱歌 北海道編を、小学生にもわかりやすく解説しています。鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説します。

牧場と、たくさんの白い入れ物 「牧草ロール」

また、この地域には牧場もたくさんあります。
北海道といえば広くて大きな牧場を想像する人も多いと思いますが、まさにその牧場です。

広がる牧場。バックには利尻島・利尻富士。(宗谷本線の車窓より)

広がる牧場。バックには利尻島・利尻富士。(宗谷本線の車窓より)

そして牧場には、たくさんの「白または黒の四角い入れ物」が転がっているのがわかります。
これら牧場に転がる白い入れ物たちは「ロールベールラップサイロ」と呼ばれるものです。

牧草ロール(ロールベールラップサイロ)は、牛や馬のエサである「牧草」を入れておくものになります。

牛や馬は、「牧草」を食べて育つわけです。
しかし、その牧草を食べやすくし負担を軽減するために、牧草ロールという入れ物に入れて、食べやすいように牧場に置いておくわけです。

広がる牧場。バックには利尻島・利尻富士。(宗谷本線の車窓より)

広がる牧場。バックには利尻島・利尻富士。(宗谷本線の車窓より)

牧草は、北海道のように夏でも涼しい場所でよく育ちます。
明治時代になって

北海道でバリバリ農業をやろう!

という国の雰囲気になったときに、寒い北海道では、米・稲がまともに育ちませんでした

当時、稲がまともに育たなかった北海道 代わりに牧畜が盛んになった

そうして困り果てていたところ、

  1. 農業に詳しい外国人のアドバイスを受けたことにより、
  2. 牧草・牧畜といった、冷涼地・寒冷地ならではの農業に切り替えた(シフトした)

というわけですね。

加えて、馬や牛は寒さに強く、暑さに弱い動物です。
つまり汗をかきにくいため、体温調節がやりにくく、熱中症で倒れるリスクの高い動物になります。
なので、馬や牛は、北海道で育てるにはベストだったわけです。

本州とは比べ物にならないほど平地が多く、農業や牧場に有利な北海道

しかも北海道は、本州とは比べ物にならないほどの平らな土地・平原が多いので、農業や牧場にはとても適した土地になっています。

本州では、基本的に山地がほとんどであり、平らな土地も限られています。
そのため、その点北海道は「食の宝庫」と呼ばれるほどの農地になっています。
それが大成功となったわけです。

窓の左側に登場する、利尻島・利尻富士

窓の左側に登場する、利尻島・利尻富士。(宗谷本線の車窓より)

窓の左側に登場する、利尻島・利尻富士。(宗谷本線の車窓より)

さらに窓の西には利尻島りしりとう利尻富士りしりふじが見えることとなります。
この絶景区間では、列車はやや速度を落として運転してくれます。

利尻りしりは、アイヌ語の「リー・シリ」(高い島)に由来します。

「利尻富士」とも呼ばれる利尻島の「利尻山」

窓の左側に登場する、利尻島・利尻富士。(宗谷本線の車窓より)

窓の左側に登場する、利尻島・利尻富士。(宗谷本線の車窓より)

また、利尻富士りしりふじとはあくまで愛称となります。正式名称は利尻山りしりやま(標高1,721m)といいます。
まるで富士山のように円錐型の美しい山容であることから、「利尻富士」と呼ばれるわけです。

利尻山は、北海道の有名なお菓子である「白い恋人」のパッケージに描かれる山としても知られます。

「利尻昆布」でも知られる、利尻島

利尻島は、利尻昆布りしりこんぶで有名です。

利尻昆布は、とても強い波に耐えながら生きているため、とても強くて美味しい味になります。
他にも、北海道では有名な日高昆布ひだかこんぶなどとともに、ラーメンの具材としても使われます。

かつて江戸時代に利尻島に置かれた「リイシリ場所」

利尻島は、江戸時代には前述の松前藩まつまえはんによって、「リイシリ場所」という商売交易の拠点が開かれていました。

江戸時代は既に、約300人ほどのアイヌ人が住んでいた利尻島

江戸時代の前半に、松前藩の交易船(※)が利尻島に立ち寄ってやってきたときに、そこには既に、300人ほどのアイヌの人々が居住していたといいます。

交易船こうえきせん:前述の交易を行うための、商品・荷物・商人たちを運ぶ船のことです。

当時の利尻島でのアイヌ民族の暮らし(想像)

そのときの利尻島のアイヌ民族の生活は、恐らくですが、

  • 昆布を採ったり、
  • を釣ったり、
  • アザラシやクマなどを捕まえて食べたり

などして生活しており、まるで日本の縄文時代のような竪穴式住居に暮らしていたのでしょう。

北海道は寒すぎて(当時は)稲は育たなかったのでした。
そのため、日本でいう弥生時代(=稲作が栄え、ムラができ、貧富の差や「争い」が起き始めた時代)にすら突入することなく、引き続き長年の間、縄文時代のような生活を送っていたのでした。

利尻島での、ロシアとの衝突事件「文化露寇」

江戸時代後期にあたる1808年(文化4年)、利尻島でロシアと軍事衝突する事件が起きました。

これを文化露寇ぶんかろこうといいます。

文化ぶんかとは、江戸時代後期の元号の一つであり、とはロシアのことです。

こうとは、「外敵の侵入」などの意味合いを持つ言葉です。

江戸時代、利尻島は幕府の天領に

当時の日本は鎖国をしており、外国とほとんど貿易をしない日本と、日本と貿易をしたいロシアとの間で、様々なトラブルが起きていました。

そんなかたくなに貿易をしようとしない日本の態度に対し、ロシアが不満を募らせ怒りをあらわにし、ついに軍事衝突という事態となったわけです。

このロシアとの衝突事件がきっかけで、江戸幕府はさらにロシアを警戒するようになり、やがてロシアに地理的に近い利尻島は幕府の天領てんりょうとなりました。

天領てんりょうとは、前述の通り幕府が直接管理する場所です。
つまり「どの藩にも任せておけない、我々(幕府)で自分で支配しよう」という意味の土地になります。

前述の宗谷郡のケースと同じで、もし利尻島が幕府と対立してロシア側についたら、ロシアと組んで江戸幕府に反逆し滅ぼすという最悪なシナリオも考えられるため、天領としたわけです。

江戸幕府が、対ロシアの方策について、かなり神経質になっていたことがわかります。

次回は、南稚内駅と、終点・稚内駅へ

次は、南稚内駅と、終点・稚内駅へ止まります!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。
そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。
再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。
何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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