道北・宗谷本線の旅6 幌延→抜海→稚内 利尻島の景色も

幌延駅を出て、抜海・稚内方面へ

幌延駅(ほろのべえき、北海道天塩郡幌延町)を出ると、下沼駅(しもぬまえき、北海道天塩郡幌延町)、豊富駅(とよとみえき、北海道天塩郡豊富町)・兜沼駅(かぶとぬまえき、北海道天塩郡豊富町)を過ぎてゆきます。

兜沼駅(北海道天塩郡兜沼町)

そして窓の西には利尻島(りしりとう)・利尻富士(りしりふじ)の景色が広がります。

そしてついに稚内市(わっかないし)に入り、勇知駅(ゆうちえき)・抜海駅(ばっかいえき)を経て、南稚内駅(みなみわっかないえき)、そして日本最北端の駅稚内駅(わっかないえき)に至ります。

下沼駅の由来となった、パンケ沼

幌延駅を出ると、ほどなくして下沼駅(しもぬまえき、北海道天塩郡幌延町)に着きます。

下沼(しもぬま)の由来は、駅の西2kmほと隣にあるパンケ沼にあります。

パンケとは、アイヌ語で「川の下側下流部)」などの意味になります。
つまりパンケ沼はサロベツ川の下流部にあたる湖であるため、パンケ沼と呼ばれるわけです。
一方、サロベツ川の上流部にある湖をペンケ沼といいます。
ペンケとは、アイヌ語で「川の上側(上流部)」などの意味になります。

そのパンケ沼が川の下の沼ということで、日本語に意訳して下沼(しもぬま)と呼ばれるわけです。
これがいわゆる下沼駅の由来となっています。

道南・函館の近く(七飯町/ななえちょう)にある大沼(おおぬま)も、アイヌ語の「ポロト」に由来しています。

ポロ(幌)→きい

で、「大沼(おおぬま)」です。
このように、アイヌ語を少し覚えておくと、北海道の地名の由来が推測できたりして、面白いといえます。

明治時代に「宗谷郡」と改められた、宗谷地方

この地域は、明治時代には宗谷郡(そうやぐん)と呼ばれました。

(ぐん)とは、奈良時代の律令制における国(くに)よりも小さ細かい区分けになります

もちろん現代でも「」はありますが、当時とは意味合いがそもそも異なり、当時のように「郡衙(ぐんが)」「郡司(ぐんじ)」のような中心機関・首長はいません。ちなみに「郡衙」「郡司」とは、それぞれ現代でいえば「郡役場」「郡長」のようなものです。現在の「市役所」「市長」みたいな感じですね。
けれども現代では「郡役場」「郡長」などは存在しないですよね。
なので現代の郡よりも、当時の(奈良時代の律令制における)「郡」というものは、かなり意味が大きかったのです。

松前藩と、ソウヤ場所

宗谷郡域(そうやぐんいき)は、江戸時代には松前藩(まつまえはん)によって支配されてきました。

松前藩(まつまえはん)とは、函館(はこだて)の南西にあたる松前町(まつまえちょう)を拠点としていた、江戸時代の藩です。この松前藩が、蝦夷地(えぞち)とアイヌ民族の管理・統括などのお仕事をしていました。

後述する利尻島(りしりとう)や・その北西にある礼文島(れぶんとう)、そして樺太(からふと)あたりを支配・統治するための拠点が、江戸時代の宗谷(そうや。つまりこのあたりの地域)にまず置かれました。

そして松前藩とアイヌ民族が交易(こうえき。お互いの持っている得意な商品を、物々交換すること)するための「ソウヤ場所」というものが開かれていました。
江戸時代には松前藩とアイヌ民族は「場所」とよばれる場所で商売・交易を行っていたのでした。しかしトータル(全体)でみると、アイヌ民族がもらえる物の量よりも松前藩の取り分の方が多かったので、これにアイヌ民族は不満を募らせ、そのため江戸時代には「シャクシャインの戦い」に代表される反乱が多かったのです。

シャクシャインの戦いについては、以下の記事でも解説しているため、ご覧ください。

冬の【東京→北海道】鉄道旅16(帰り)倶知安→長万部→函館

宗谷が幕府の天領へ 江戸幕府は、いかにして北海道北部を守ろうとしたか

また、南下政策(なんかせいさく)を強力に進めるロシアの脅威に備えて、江戸時代後期には宗谷郡の地域は天領(てんりょう)とされました。

南下政策(なんかせいさく)とは、江戸時代後半あたりからロシアが凍らない港を求めて、暖かい地域の港を求めて進ていたことです。ロシアは冬は-20度は普通に下回る極寒の地域なので、凍らない港を求めて南下していたのです。その真っ先にターゲットになりそうだったのがまさに北海道(蝦夷地)だったため、幕府は脅威を感じ、宗谷郡を天領とし、北海道の防衛にあたらせたわけです。

天領(てんりょう)とは、幕府が直接支配する土地という意味です。つまり藩に統治させる(任せる)のではなく、幕府が自身で直接支配するということです。

ではなぜ幕府は、宗谷郡を天領としたのか。

もし仮に「宗谷藩(?)」が存在していたとしたら、何らかのきっかけで宗谷藩と江戸幕府が対立したときに、ロシアや他の国と結託して(タッグを組んで)幕府に反乱・攻めてきたらヤバいですよね。
しかも宗谷藩は幕府から遠すぎるし、今でもそうですが稚内市にはロシア人とも交流があり仲が良いほどなので、もし何らかのきっかけで日本(幕府)とロシアの関係が悪化し、また幕府と宗谷藩の関係までが悪化したら、宗谷藩は幕府に反感を持つため「ロシアと宗谷藩が結託して幕府を攻め落とす」などという最悪のシナリオも考えられます。

なので宗谷郡には「宗谷藩」のような藩を置かず「天領」にしたものと思われます。例えば鹿児島県を本拠地としていた薩摩藩(さつまはん)も、外国に近く幕府から遠いことから(幕府から)信頼されておらず、参勤交代公共工事などを通じて甚大な労力・費用の負担を強いられ、財力や勢力を削がれていたのです。

そして江戸時代の後期に、青森県弘前市(ひろさきし)を本拠地としていた津軽藩(つがるはん)が幕府から北海道(蝦夷地)をロシアから守ることを命じられました。そしてその津軽藩が、ソウヤ(宗谷地域)に出張陣屋(じんや)を築き、北海道北部の警固に当たることとなりました。陣屋(じんや)とは、お城の軽い(簡易な)バージョンのことです。江戸幕府は先述の通り、幕府への反乱を起こされることを何よりも恐れていたため、そうした軍事的な理由によりそう簡単にはお城を築かせませんでした。なので陣屋という簡単な拠点しか作らせなかったのですね。

なぜ江戸幕府がお城を建てるのを制限したのかについては、先述の通り幕府に反乱を起こすための攻撃の拠点・基地とされてしまったら困るからです。
つまり「軍事上の理由」ですね。
なので、江戸時代は静岡(駿府)や名古屋(尾張)など、徳川家と関係が深く、また将軍からの信頼が厚い土地にしか、お城を築かせませんでした。

もし仮に、幕府が宗谷郡に「稚内城」などを建てることを許可してしまい、しかも先述のように「宗谷藩」という藩を認めてしまったらどうなるでしょうか。
もし宗谷藩(仮)と幕府の関係(それに加えて、ロシアと日本の関係)が悪化したときに、宗谷藩とロシアが結託して(北海道を拠点に)江戸幕府に攻めてくることは充分考えられます。

このとき宗谷藩(仮)のバックに強国・ロシアがついていたら、江戸幕府はもはや勝てるわけがありません。
なので江戸幕府は、そのあたりのバランスを考えながら、宗谷地域を「弱くなりすぎず」(反乱起こさないように)「強くさせすぎず」という、絶妙なバランスの戦力にさせていたわけですね。

宗谷藩(仮)は江戸幕府から遠すぎて完全に「外様(とざま)」ですから、力をつけさせずきてはいけません。
先程も述べた通り、江戸幕府(東京)から遠すぎた鹿児島県の薩摩藩なども軍事力をつけさせないように、(河川の工事を無理やり負担させるなどして、また参勤交代なども含めて)徹底的に財力を削がれていました。普通に考えて、鹿児島県(薩摩藩)から東京(江戸)までの長すぎるルートで参勤交代をしたら、新幹線も飛行機も無い時代なので、大名や付き添い・護衛の大勢の武士の旅費・宿泊費・人件費などを含めて、甚大な費用がかかりますからね。

このようにして江戸時代には、北海道がロシアに攻められないように、津軽藩盛岡藩南部藩。現在の岩手県盛岡市)・会津藩(あいづはん。現在の福島県会津若松市)といった東北地方の藩らに対して命じ、道北オホーツク海の周りの警備・警固にあたらせました。

そうして寒い寒い北海道の警備に回された各藩の武士たちでしたが、あまりにもの(本州には無いような)寒さに耐えきれず、津軽藩の武士たちが次々に倒れていくという、津軽藩士殉難事件(つがるはんしじゅんなんじけん)という事件も起きています。

明治時代になって、蝦夷地は「北海道」と改められました。
そして、それまでの日本では当たり前だった律令制における「国」「郡」といつた制度を踏襲し真似する形て、宗谷郡(そうやぐん)が置かれることとなりました。

日本最北の秘境駅・無人駅・木造駅、抜海駅

やがて抜海駅(ばっかいえき、北海道稚内市抜海村)に到着します。

抜海駅(北海道稚内市抜海村)

抜海駅(ばっかいえき)は、稚内市管理下の無人駅になります。
そして、いわゆる日本最北の秘境駅・木造駅・無人駅と言われており、鉄道ファンの間ではかなり名高い駅です。
しかし地元民にとっての利便性の低さから、何度も廃止の議論が持ち上がり、なんとか稚内市が維持費用を負担させた持ちこたえている駅ということになります。

ちなみに秘境駅とは、例えば「めっちゃ山奥か人口閑散地域にあり、さらに列車の数が極端に少なく、列車でもクルマでもたどり着くのも難しい駅」というような意味合いで使われます。
日本一の秘境駅と呼ばれているのは北海道・室蘭本線の小幌駅(こぼろえき、北海道虻田郡豊浦町)であり、他にも九州・日豊本線の宗太郎駅(そうたろうえき、大分県佐伯市)や、飯田線(いいだせん)の小和田駅(こわだえき、静岡県浜松市天竜区)、同じく飯田線の田本駅(たもとえき、長野県下伊那郡泰阜村)などが主な秘境駅として挙げられます。前回紹介した糠南駅(ぬかなんえき)や雄信内駅(おのっぷないえき)などもユニークな秘境駅であり、北海道にはこうした秘境駅がたくさん存在し、鉄道マニア・鉄道ファンからの人気があります。

抜海駅の廃止議論

抜海駅(北海道稚内市抜海村)

抜海駅は残念ながら、2024年をもって廃止されることとなりました。
これは、稚内市議会にて決定したわけです。

市議会とは、市で行う政策(道路や電柱を治したり、出産や介護なのどの補助金を拡充したり、学校にクーラーをつけたりするなどの案)に対して、市民の税金を使いたいときに、その予算は果たして正しいのかを判定する会議です。その会議には、主に市民の選挙で選ばれた政治家である市議会議員が参加します。
市議会は多数決であり、賛成多数になれば「可決」となり予算を使用して政策は実行に移され、反対多数になれば「否決」となり、予算は使用できず政策は実行されません。
賛成になるかどうかは、税金を使ってまでやる政策が市民にとってメリットになるかどうかで決まります。
(しかし広島県安芸高田市のように、石丸伸二・前市長の決定が「嫌い」というだけで、反対多数で否決に回るということもあります。この市長と市議会の対立は、YouTubeで相当バズり有名になりました)

これらを踏まえた上で、話を戻します。
抜海駅の年間100万円にもおよぶ維持費用は、稚内市の税金から出た予算によって支出されているわけです。
そのため、抜海駅の存在が稚内市民にとってメリットが無いものと判断された場合、市議会で予算を否決されてしまい、維持管理費用はもう出せなくなり、駅は廃止となります。
まとめると、稚内市民にとって抜海駅の存在に価値が無いと判断されたら、駅は廃止されることとなるわけです。

抜海駅は、抜海の町(集落)からは遠く、地元の稚内市民の移動の足としてはほぼ機能していません。抜海駅を維持させるために税金を使うなら、高齢者用のバス等や介護、出産育児などに対して税金を回してほしい、というような市民の意見も出てくるでしょう。

こうした様々な市民の意見を踏まえて、廃止が決定となったのでした。

日本最北端の秘境駅・木造駅の抜海駅が廃止されることは、多くの鉄道ファンとしては悲しい限りであることでしょう。
しかし、むしろ稚内市の努力でここまで延期に延期を重ね、稚内市民の税金で年間100万円を維持負担してくれたことで残ってきたことには感謝すべきことなのかもしれません。

抜海駅から、原野を走り抜く

抜海駅を出ると、次の南稚内駅(みなみわっかないえき、北海道稚内市)まで、約13分という長い距離を走ります。
ここからの車窓・景色は圧巻で、本当に「北海道に来て良かった」と心から思えるような景色になります。

広がる原野(宗谷本線の車窓より)

窓からは果てしない(本州ではまず見られないような原野が広がり、感動すらします。

広がる原野(宗谷本線の車窓より)

原野(げんや)とは「いまだ手付かずの土地」のような意味になります。
つまり人類が誕生してから、未だ全然人の手がつけられていないまま今に至るような土地です。

鉄道唱歌 北海道編 南の巻の第一番で「千里の林 万里の野」と歌われていますが、まさにその通りの景色が広がっています。

鉄道唱歌 北海道編については以下の記事でわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 北海道編 南の巻第1番 北海道の旅に出発!

牧場と、たくさんの白い入れ物 「牧草ロール」

また、この地域には牧場もたくさんあります。
北海道といえば広くて大きな牧場を想像する人も多いと思いますが、まさにその牧場です。

広がる牧場。バックには利尻富士。(宗谷本線の車窓より)

そして牧場には、たくさんの「白または黒の四角い入れ物」が転がっているのがわかります。
これら牧場に転がる白い入れ物たちは「ロールベールラップサイロ」と呼ばれるものです。

牧草ロール(ロールベールラップサイロ)は、牛や馬のエサである「牧草」を入れておくものになります。
牛や馬は「牧草」を食べて育つわけですが、その牧草を食べやすくし負担を軽減するために、牧草ロールという入れ物に入れて、食べやすいように牧場に置いておくわけです。

広がる牧場。バックには利尻富士。(宗谷本線の車窓より)

牧草は、北海道のように夏でも涼しい場所でよく育ちます。
明治時代になって
北海道でバリバリ農業をやろう!
という国の雰囲気になったときに、寒い北海道では米・稲がまともに育ちませんでした。
困り果てていたところ、農業に詳しい外国人のアドバイスを受けたことにより、牧草・牧畜といった冷涼地・寒冷地ならではの農業に切り替えた(シフトした)わけですね。加えて、馬や牛は寒さに強く、暑さに弱い動物です。つまり汗をかきにくいので、体温調節がやりにくく、熱中症で倒れるリスクの高い動物になります。なので馬や牛は北海道で育てるにはベストだったわけです。
しかも北海道は、本州とは比べ物にならないほどの平らな土地・平原が多いので、農業や牧場にはとても適した土地になっています。
本州では基本的に山地がほとんどであり、平らな土地も限られているので、その点北海道は「食の宝庫」と呼ばれるほどの農地になっています。
それが大成功となったわけです。

窓の左側に登場する、利尻島・利尻富士

窓の左側に登場する、利尻島・利尻富士。(宗谷本線の車窓より)

さらに窓の西には利尻島(りしりとう)、利尻富士(りしりふじ)が見えることとなります。この絶景区間では、列車はやや速度を落として運転してくれます。
利尻(りしり)は、アイヌ語の「リー・シリ」(高い島)に由来します。

また利尻富士(りしりふじ)とはあくまで愛称であり、正式名称は利尻山(りしりやま:標高1,721m)といいます。まるで富士山のように円錐型の美しい山容であることから、「利尻富士」と呼ばれるわけです。利尻山は、北海道の有名なお菓子である「白い恋人」のパッケージに描かれる山としても知られます。

利尻島は、利尻昆布(りしりこんぶ)で有名です。利尻昆布は、とても強い波に耐えながら生きているため、とても強くて美味しい味になります。
他にも北海道では有名な日高昆布(ひだかこんぶ)などとともに、ラーメンの具材としても使われます。

江戸時代に利尻島に置かれた「リイシリ場所」

利尻島は、江戸時代には前述の松前藩(まつまえはん)によって、「リイシリ場所」という商売交易の拠点が開かれていました。

江戸時代の前半に、利尻島に松前藩の交易船(こうえきせん。前述の交易を行うための、商品・荷物・商人たちを運ぶ船)が立ち寄ったとき、そこには既に300人ほどのアイヌ民族の人々が居住していたといいます。

そのときの利尻島のアイヌ民族の生活は、恐らく昆布を採ったり、を釣ったり、アザラシやクマなどを捕まえて食べたりして生活しており、まるで日本の縄文時代のような竪穴式住居に暮らしていたのでしょう。

北海道は寒すぎて(当時は)稲は育たなかったので、日本でいう弥生時代(=稲作が栄え、ムラができ、貧富の差や「争い」が起き始めた時代)にすら突入することなく、引き続き長年の間、縄文時代のような生活を送っていたのでした。

利尻島での、ロシアとの衝突事件

江戸時代後期にあたる1808年(文化4年)、利尻島でロシアと軍事衝突する事件が起きました。
これを文化露寇(ぶんかろこう)といいます。
文化(ぶんか)とは、江戸時代後期の元号の一つであり、(ろ)とはロシアのことです。(こう)とは、「外敵の侵入」などの意味合いを持つ言葉です。

当時の日本は鎖国をしており、外国とほとんど貿易をしない日本と、日本と貿易をしたいロシアとの間で、様々なトラブルが起きていました。そんな頑な(かたくな)に貿易をしようとしない日本の態度にロシアが不満を募らせ、怒りをあらわにし、ついに軍事衝突という事態となったわけです。

このロシアとの衝突事件がきっかけで、江戸幕府はさらにロシアを警戒するようになり、やがてロシアに地理的に近い利尻島は幕府の天領(てんりょう)となりました。
天領(てんりょう)とは、前述の通り幕府が直接管理する場所です。つまり「どの藩にも任せておけない、我々(幕府)で自分で支配しよう」という意味の土地になります。

前述の宗谷郡のケースと同じで、もし利尻島が幕府と対立してロシア側についたら、ロシアと組んで江戸幕府に反逆し滅ぼすという最悪なシナリオも考えられるため、天領としたわけです。江戸幕府が対ロシアの方策について、かなり神経質になっていたことがわかります。

南稚内駅へ到着 元々は南稚内駅が、稚内駅だつた

抜海駅から約13分走り続けると、それまで果てしない原野や林だった景色から、徐々に民家がみえはじめ、景色が開けてきます。つまり、稚内(わっかない)の市街地が、徐々に姿を見せ始めるのです。

やがて、南稚内駅(みなみわっかないえき、北海道稚内市)に着きます。

この南稚内駅は、元々は本当の稚内駅(初代稚内駅)でした。
明治時代の終わりに日露戦争で勝利し南樺太(サハリンの南半分の領土)をロシアから勝ち取った日本は、樺太まで鉄道と船で渡るために必要な鉄道建設を余儀なくされました。
なぜなら新たに勝ち得た土地・サハリン(樺太)はエネルギー源や食料の宝庫であり、国内が「これからどんどん戦争に勝ちまくっていくぞ!」という雰囲気だったイケイケの日本にとっては、とても重要な土地だったからです。

そのため、旭川方面から南稚内駅まで現在の宗谷本線を建設したはいいものの、当時の終点の南稚内駅(当時は「稚内駅」)は、北の稚内港・桟橋までお客さんが歩いて行くのがとても長く、不便だったのです

その不便を解消するために、さらに北に線路を伸ばして、現在の稚内駅ができました。
それに伴って、元々あった初代稚内駅は「南稚内駅」と改められたのでした。

そして稚内駅(新)から稚内港の桟橋まで歩いてゆき、「稚泊連絡船(ちはくれんらくせん)」という船に乗って樺太(サハリン)の大泊(おおどまり。現在のロシア領コルサホフ)まで向かっていたのでした。

稚泊連絡船(ちはくれんらくせん)とは、稚内大泊を結ぶという意味の、いわば稚内と樺太を結ぶための船です。

稚内北防波堤ドーム(北海道稚内市)

稚内駅の北にある稚内北防波堤ドームは、稚内駅と桟橋を移動する人々の通路であり、また高潮から人々を守るための防波堤の役割を果たしていました。

現在よりやや北にあった南稚内駅 当初は行き止まりの構造だった

当初の南稚内駅は「頭端式(とうたんしき)」といって、いわゆるもうこれ以上先に進めないような構造のホームとして造られました。
つまり、これ以上先へ延長することもないだろう、という前提で駅が作られたのです。
頭端式ホームは、例えば大阪の方なら、阪急梅田駅(はんきゅううめだえき)のホームなどが代表的でわかりやすいかもそれませんね。

ところが翌年の1923年に、先述の稚泊連絡船が開設されました。南稚内駅は、先述の通り頭端駅(とうたんしき)という行き止まり方式・構造の駅であったため、その先に線路が延ばせないという構造になっていました。そのため、稚内港駅まで線路をそのまま先に延ばすことはできませんでした。
そこで、駅に入ってくる手前の線路の部分から稚内港駅(新・稚内駅)の方面へと分岐させる形で、稚内港駅までの線路が延長される、という手段が取られることとなりました。
こうした線路の構造が取られため、当時は稚内駅(現・南稚内駅)に到着した列車は一旦、本線上(の分岐点)までバックして、さらに進路を稚内港方面へと変更し、そこから稚内港駅(現・稚内駅)まで前進していくという形となりました。

ただ、現在では後述のようにバックする形式とはなっていません。それは後に南稚内駅がやや南の位置に移転したため、そのまま直進することができるようになったからです。

戦後の1952年に南稚内駅は、先述の通り南へさらに1km下がった現在地へと移転しました
その理由はおそらく、先述の「一旦バックしてから本線に戻って、再び稚内港方面へ発進する」というやり方が面倒だった(かつ所要時間もかかる)からでしょう。
駅が南の別の地点へ移転すれば、列車がバックしたり方向転換せずに、そのまま稚内港方面へと発進できるからですね。

かつて天北線との合流地点だった、南稚内駅

南稚内駅は、かつて天北線(てんぽくせん)と宗谷本線(元々は「天塩線」)との合流駅でもありした。

天北線(てんぽくせん)とは、音威子府駅(おといねっぷえき、北海道中川郡音威子府村)から北東に分岐して、オホーツク海側の浜頓別町(はまとんべつちょう)や猿払村(さるふつむら)を経由し、南稚内駅に至っていた路線です。そして天北線は当初の宗谷本線であり、現在は廃止となっています。

一方、現在の宗谷本線は、当時・当初は天塩線(てしおせん)と呼ばれていました。そして昭和初期の1930年に、幌延(ほろのべ)経由の天塩線(てしおせん)は宗谷本線(そうやほんせん)と改められました。

それに伴い、元々の宗谷本線は北見線(きたみせん)として改められ、さらに後に天北線(てんぽくせん)と改められています。
つまり、天北線が存在していた時代は、音威子府駅からは北東・北西の両方のルートから南稚内駅へ至ることができたわけですね。
しかし先述の通り、天北線は現在は廃止となっており、現在の宗谷本線のみとなっています。

南稚内駅~稚内駅間の高架化

南稚内駅を出ると、徐々に高架(こうか)の上への登ってゆき、市街地の建物の中を突き進みながら、終点・稚内駅へと向かってゆきます。

時代は1971年になり、稚内市に国道40号バイパス(=つまり、人口増加にともなって、たくさんの車が通れる大きな道路)の新設が決定しました。ちなみに国道40号とは、旭川市~稚内市を結ぶ国道であり、宗谷本線と並行する車道ともいえます。

これに伴って、南稚内駅 – 稚内駅間の高架化事業(全長1.1kmの工事)に着手することになりました。
大きな道路が新設されると、たくさんの車がそちらを通るようになります。すると、もし踏切が存在すると渋滞のリスクが高まります。遮断機が降りている間、たくさんの車がまとまって立ち往生しますからね。
なので線路を高架の上に建設して、車道と立体交差にすることで、踏切の数を減らし、渋滞が解消される効果が期待できるのです。

この高架化を行う事業・工事は4年後の1975年に完成し、3カ所の踏切を解消できたといいます。これによって踏切による渋滞を解消でき、また線路の東西で人々の往来を活発にでき、例えば「線路の東側の市街地だけが栄えていて、西側が栄えず閑散としている」といった問題も解消しやすくなったことでしょう。

日本最北端の駅・稚内駅に到着

やがて、日本最北端の駅稚内駅(わっかないえき、北海道稚内市)に着きます。

稚内駅(北海道稚内市)
稚内駅(北海道稚内市)

稚内駅と、鹿児島県枕崎市(まくらざきし)の枕崎駅(まくらざきえき)が、鉄道路線における最北端最南端にあたることから(ちなみに緯度的な最南端は、指宿枕崎線(いぶすきまくらざきせん)の西大山駅になります)、稚内市と枕崎市は姉妹友好都市の関係にありま。

ここで、アイヌ語で

ワッカ=「
ナイ=「

という用語は覚えておくと良さそうです。
たとえば、北海道の東部にある知床(しれとこ)に、カムイワッカの湯の滝という観光名所があります。ここで「カムイ=神の」というアイヌ語を覚えておくと、「カムイワッカ=神の水」みたいに意味が訳せるため、こうしたアイヌ語は覚えておくと便利です。

稚内駅(北海道稚内市)

稚内市街地をうろつく「エゾシカ」

稚内には、市街地にも普通にエゾシカが登場します。初めて来た方は、街中を普通に歩くエゾシカを見てたぶんびっくりするでしょう。
しかも、エゾシカは本州の鹿よりも(たとえば広島・宮島の鹿や奈良の鹿よりも)かなり大きいです。
エゾシカは人間の大人とほぼ同じかやや大きいため、ちょっと恐怖にも感じます。下手に喧嘩したら(格闘になったら)負けて大変なことになるかもしれません。

ちなみに動物の個体の大きさは、寒冷地にいくほど大きくなります
これを「ベルクマンの法則」といいます。
これはベルクマンという生物学者が提唱した法則であり、寒冷地域では、動物は体温の放熱をおさえる必要があるため、個体が大きくならないといけないそうです。

次回は最終回、日本最北端・宗谷岬へ

次回は最終回です。

稚内駅から、バスで日本最北端の地・宗谷岬(そうやみさき)へとゆきます!

【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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