道北・宗谷本線の旅7(最終回)日本最北端の地・宗谷岬へ

稚内駅から、バスで宗谷岬へ

稚内駅(わっかないえき、北海道稚内市)からは、日本最北端の地宗谷岬(そうやみさき)へ向かいます。
稚内駅からバスで約40分ほど北東へ走り、宗谷岬へ到着します。

バスで宗谷岬へ(北海道稚内市)

日本最北端の地・宗谷岬

日本最北端の地・宗谷岬(北海道稚内市)

宗谷岬には、日本最北端の地を踏もうと、たくさんの観光客が訪れます。
海の向こうは、ロシア領・サハリン(樺太)になります。
ちなみに日本の実効支配がおよぶ範囲での日本最北端の地は、宗谷岬のおよそ1km北にある、弁天島になります。つまり厳密には弁天島が日本最北端の地にはなるのですが、気軽に上陸できるような島ではないため、基本的・一般的には宗谷岬が日本最北端の地と認識されています。

なお、日本が領有権を主張する範囲にまで解釈を広げたら、北方領土の択捉島(えとろふとう)のカモイワッカ岬が日本最北端の地になります。北方領土はロシアが実効支配しており領土問題があるため、やはり民間人にとっての日本最北端の地は先述の通り「宗谷岬」ということになります。

参考までに(我々民間人が自由に到達できる最果て(さいはて)の地を紹介しておきます。

日本最北端:宗谷岬(北海道稚内市)
日本最東端:納沙布岬(のさっぷみさき。北海道根室市)
日本最西端:西崎(いりざき。沖縄県八重山郡与那国町)
日本最南端:波照間島(はてるまじま。沖縄県八重山郡竹富町)

※上記はあくまで「我々民間人が自由に到達できる地」の一覧です。民間人が立入不可の場所や、領土問題がある地は省略しています。

ちなみに根室の納沙布岬(のさっぷみさき)は、海のすぐ向こう側は北方領土・歯舞諸島(はぼまいしょとう)になります。

沖縄県のはるか西にある与那国島(よなくにじま)は、すぐ西隣が台湾になります。

さすが最果ての地は、いずれも外国に近いですね。

間宮林蔵と、間宮海峡

宗谷岬・間宮林蔵の像(北海道稚内市)

宗谷岬には、間宮林蔵(まみや りんぞう)の銅像があります。
間宮林蔵(まみやりんぞう)は、江戸時代に幕府に命じられて、北海道を探検した人物です。
そして樺太とロシアの間にある、間宮海峡(まみやかいきょう)という海を発見しました。

江戸時代までは樺太とロシア(大陸)は「陸続き」なのか、それとも「島なのか」わからなかったという時代でした。さらにいうと、江戸時代は伊能忠敬(いのう ただたか)が測量して地図を作るまでは、北海道の形すら誰もよくわかっていませんでした

江戸時代までの人々は、北海道(蝦夷地)のことを
「(なんとなく)台形または逆三角形の、だだっ広い原野なのかなぁ
くらいにしか思っていなったわけです。
まさか北海道が、クレヨンしんちゃんの「野原みさえ」の髪型と顔のような形(←ネット上などでよく言われる意見)だとは、誰も思わなかったわけですね。

しかし北海道(蝦夷地)がどんな場所かすらわからければ、当時脅威になっていたロシアから蝦夷地を守ることができません。江戸時代後期になると、ロシアは南下政策といって、凍らない港を求めて南へと進出していました。ロシアは冬は-20度は普通に下回る極寒の地域であり、港が凍ってしまって船が出せなくなっていました。そのため暖かい港を求めて南へと進出していたわけですが、蝦夷地はまさにそのターゲットになりそうな土地であり、江戸幕府はそれに対して脅威を感じていました。

そんな「未知の蝦夷地」を正確に把握して防衛をしっかり行うために、江戸幕府は間宮林蔵に蝦夷地を探検させ、伊能忠敬に蝦夷地の地図を作らせたわけですね。

江戸時代の、樺太は「島なのか、半島なのか」論争

江戸時代後期・1800年前後あたりの世の中では、先述の通り樺太(サハリン)が果たして「島」なのか、それとも「半島」なのか、という論争・議論が起きていました。
先述の通り、当時はまともに地図もありませんでしたから、そういった議論が起こってしまうわけですね。

結論からいうと、樺太(サハリン)は「島」です
つまり、ロシア(ユーラシア大陸)と繋がった「半島」ではありません。
樺太とロシア(ユーラシア大陸)との間に、「間宮海峡(まみやかいきょう)」という狭い海の存在が確認されたため、樺太は「島」だということが判明したのでした。  

樺太が「島」であるということは、つまりはロシアが樺太を経由して攻めて来にくいことを意味します。海を一つ挟むため、もし有事となったときにロシアの軍隊は一旦船で海を渡ってくる手間が生じます。その間に、江戸幕府の軍は十分に防衛体制を固め、スタンバイすることができます。これは江戸幕府にとってはとても重要なことです。

しかし、逆にもし樺太がユーラシア大陸と繋がった「半島」だったら、ロシアが樺太を経由して攻めてきやすいことを意味します。

このように樺太が「半島か」「島か」という議論・結論は、この違いは江戸幕府にとってはとても重要な死活問題だったわけです。そのため「樺太は島なのか、半島なのか」論争について、江戸幕府は早く決着を着ける必要に迫られました。

そこで幕府により北海道に派遣された代表的人物が、先ほどから何度も紹介している間宮林蔵という方でした。江戸幕府は、間宮林蔵らに樺太を探検させました。
そして樺太とユーラシア大陸が最も狭まる海峡部分に達し、ここが海峡であることを確認しました。
つまり、樺太とロシア(大陸)に最も近い場所「間宮海峡」を発見したわけです。

「おお、確かにこれは海峡だ!樺太とロシア(大陸)は繋がってなかったんだ!」

こうした間宮林蔵の功績をたたえ、宗谷岬には間宮林蔵の像が建てられているわけですね。

宗谷岬の歌

宗谷岬といえば、ダ・カーポというフォーク歌手によるも有名ですね。

宗谷岬(そうやみさき)は、元々は1972年に黒木真理(くろき まこと)という歌手によってシングル発売された楽曲になります。
つまりダ・カーポによる曲は「カバー曲」というわけですが、1976年にNHKの「みんなのうた」でダ・カーポによるカバー曲が放送されたことがきっかけで、世の中に広く知られるメジャーな曲となりました。

岬には「宗谷岬音楽碑」が建立されています。

宗谷岬・海の向こうは樺太(サハリン)だ。(北海道稚内市)

道北の旅の終わり 再び帰途へ

宗谷岬の観光が終わったら、再びバスで稚内駅へ戻ります。
稚内市で宿泊するか、名寄市(なよろし)まで戻って宿泊するか。
あるいは特急「サロベツ」などで旭川・札幌まで戻るかなどの選択肢があります。あるいは、稚内空港から戻るという手もあるでしょう。

今回で、道北の旅シリーズは以上になります。

もちろん、鉄道で行けない範囲であれば「オロロンライン」「サロベツ原野」「猿払村」「クッチャロ湖」、そして稚内市にある「ノシャップ岬」などの観光地があります。

以上、道北・宗谷本線の旅について解説してきましたが、道北にはこのようにたくさんの興味深い点があるのです。

皆さんの道北の旅の興味を持つきっかけになれば、嬉しい限りです!

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