女満別駅を東へ、網走駅に到着
女満別駅(めまんべつえき、北海道網走郡大空町)を出て網走川(あばしりがわ)を横にみて進むと、呼人駅(よびとえき、北海道網走市)を過ぎ、やがて網走駅(あばしりえき、北海道網走市)に着きます。
北海道網走市(あばしりし)は、北見市(きたみし)と並んでオホーツク地方の中心地ともいえ、またオホーツク総合振興局(そうごうしんこうきょく)の振興局所在地となっています。
「振興局(しんこうきょく)」とは、北海道をいくつかのエリアにわける仕組みです。
北海道は広いため、道庁所在地の札幌市だけでは北海道すべてのエリアの面倒をみることはできません。
なので、北海道は14の「振興局」が管理するエリアに分けているのです。
そのうち、オホーツク地方の振興局のことを、「オホーツク総合振興局」というわけです。
その振興局(中心になって行政を行う場所)の所在地こそが、まさに網走市ということなります。
網走(ア・パ・シリ)の由来は、アイヌ語で「我らが見つけた土地」という意味になります。
網走市の歴史の象徴、網走監獄
網走市は、なんといっても網走監獄(あばしりかんごく)を中心に栄えてきた街になります。
網走監獄の存在なしに、網走市の歴史を語ることはできません。
網走監獄(あばしりかんごく)は、明治時代の監獄であり、現代でいうところの「刑務所」です。
つまり、犯罪をした人(=囚人)を収監するための施設ですね。
この網走監獄の囚人たちが、明治時代の北海道の開拓、とりわけ「鉄道建設」や「道路建設」などにおいて重要な役割を果たしてきたのでした。
網走監獄の囚人たちは、過酷な工事や建設に駆り出され、あまりに重労働すぎて次々に死者が出てしまった、という負の歴史があるのです。
現在の石北本線(せきほくほんせん)や釧網本線(せんもうほんせん)は、明治時代に網走監獄の囚人によって造られた鉄道路線なのです。
なぜ、網走監獄の囚人たちが鉄道建設に携わったのか
ではなぜ、網走監獄の囚人たちが北海道の鉄道建設に無理矢理駆り出されたのか。
まず、北海道をロシア等他国の進出から守るためにあったのでした。
明治時代の日本は、ロシアの「南下政策」に怯えている状況でした。
南下政策とは、暖かい港(凍らない港)を求めて、南へと進出してくることです。
ロシアは真冬は-20度から-30度くらいは珍しくないほどの極寒の地です。これにより港は凍ってしまい、いざ戦争になっても軍艦を出すことができないという状況でした。
そのため、当時のロシアは凍らない港(不凍港)を求めて、暖かい南の地域へと進出していったのでした。
ロシアのこの動きをみて、日本は焦ります。なぜなら、ロシアがもしかしたら北海道にも進出してくるかもしれないという恐れがあったからです。
もし北海道がロシアに奪われたらそこを拠点にして、さらに本州へと進出してくる可能性まであったからですね。
そのため、明治政府は急ピッチで北海道の開拓を進め、北海道の防御力を上げようとします。そのために、多くの人々や食糧・石炭などの資源を運ぶための鉄道の建設が、北海道には必要となりました。当時はまだ航空機も自動車もありませんでしたから、鉄道こそがメインで最も進んだ移動手段という位置付けでした。というか第二次世界大戦の頃まで、兵隊・軍事物資・食糧を運び続けるためにも鉄道はメインの交通手段だったのです。
しかし、線路建設のためには北海道という極寒の地で、しかもクマやヤブカも出没するような険しい山林地帯での工事となります。しかも線路建設には非常に多くの人手が必要であり、そのためにも人をたくさん集める必要があります。
しかしそんな過酷な地域で(線路建設の)仕事をしたい人なんて、普通は誰もいません。まともにはまず人が集まらなかったことでしょう。
そこで明治政府が人を集めるためにやった手法というのが、とんでもないやり方でした。
当時、明治政府の政治のやり方に対して批判してきた人たちが、国家に対する反逆罪などで次々に逮捕されてゆきました。当時は現在とは違い、言論の自由が全く無かったのです。現代では、総理や政治家などは容赦なくSNSやインターネットなどで叩かれますよね。これは国民に「言論の自由」が憲法で保障されているためです。
そんな政治批判をした人達が次々に逮捕されてゆき、北の網走監獄へと次々に連行されていったのです。
その網走監獄の囚人たちに、上記の線路建設をやらせることにしたのです。囚人に対しては(あくまで労役扱いなので)給料を払わなくていい上、しかも「罪人なんだから、別に過労で死んでもいいよね」という程度の認識という、人権を無視した方策が取られたのです。
囚人たちは鎖で繋がれてしまい、脱走は不可能という状況でした。
こうして線路建設に駆り出された囚人たちは、深い山林地帯においてクマに襲われ、ヤブカにかまれ、伝染病が蔓延してゆき、またろくな食事も与えられずに衰弱してゆきました。囚人たちは次々に倒れてゆき、多くの人々が亡くなってしまいました。
石北本線や釧網本線などの路線、その他の囚人たちに造られてきた道路は、こうした網走監獄の囚人たちの犠牲のもとに造られた路線であることを、忘れてはならないのですね。
現代では「博物館」として一般に解放されている網走監獄
そんな網走監獄は、北海道の極寒の地ということもあり、囚人たちにとっては寒いというよりも「痛い」という感じだったそうです。
そんな中、網走監獄から脱走(脱獄)した囚人たちもいました。それは自らの刑罰に対して不服を感じ、納得がいっていなかったからです。脱獄を試みた囚人は、驚くような手法で独房の鉄格子を突破して、しかも壁をよじ登って天井から脱走したりしたのです。
こうした脱獄囚について、興味ある方は、ぜひネット等で調べてみてください。
今や網走監獄は、明治時代の当時そのままの姿で保存されており、博物館として公開されています。
博物館網走監獄へは網走駅からはバスで行けるので、網走を訪れた際には絶対に行く価値ありです。なにせ明治時代に本当に使われていたリアルの刑務所の中を見ることになるため、かなり重い心になります。
なお、網走駅のやや西にある刑務所(網走刑務所)は、現役の本物の刑務所です。こちらは博物館として一般解放されている(網走刑務所の南の山側にある)網走監獄とは異なりますので、絶対に(不法侵入にならないように)近づかないようにしましょう。網走監獄は明治時代には確かに「現役の刑務所」だったわけですが、現在ではその役割を終え、上記の網走刑務所にその役割を譲っている、という形になります。ここは勘違いしないように注意しましょう。
ちなみに現在の網走刑務所は、日本最北の刑務所であり、受刑者たちの手によりじゃがいもや小豆(あずき)、牛肉などの栽培が行われています。
網走市は、このように明治時代の網走監獄があってこそ発展してきた街でもあるのです。
網走監獄ができたことにより、多くの人々(囚人や、監獄で働く人々、そしてその家族など)が網走に移住してきて住むようになり、また彼らに飲食や生活を提供するための店も増えるようになります。このようにして、網走の街は発展していったという歴史があるのです。網走監獄はそれだけ網走市にとって、重要な意味合いがあるわけですね。
網走駅前にある「モヨロ人の像」
網走駅前には、「モヨロ人の像」があります。
モヨロ人とは、オホーツク海周辺を中心に活動していた、アイヌ民族とはまた異なる幻の先住民族です。
オホーツク海とは、網走の北からロシアのはるか北の町・オホーツクにまでおよぶ、北の広大な海です。
モヨロ人は、ロシア(ユーラシア大陸)やカムチャッカ半島(千島列島よりもさらに北東に存在する半島)などとも交流を持ち、アザラシやラッコ、魚介類などを採って生活していたと考えられます。
網走市を流れる、網走川
網走駅の近くには、網走川(あばしりがわ)の景色があります。
もし「博物館網走監獄まで観光しに行く余裕がない」という方は、せめて網走川の景色だけでも眺めに行く、というのもありでしょう。
夜までに釧路(くしろ)まで行かなければならないという方は、ここから先・釧網本線の道のりは結構長いです。
ただしもっとも、北海道の景色はとても雄大なので、長時間列車に乗っていても景色がすごいので、なかなか飽きないかもしれません。
次は、原生花園駅(げんせいかえんえき)に止まります!
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
コメント