花咲線・厚岸の鉄道旅と、厚岸の港・千島列島と交易の歴史などを、初心者の方にも、わかりやすく解説してゆきます!

厚岸の海(花咲線の車窓より)(北海道)
厚岸(あっけし)に到着
- 尾幌
- 門静
の駅を過ぎると、右側の厚岸の海が素晴らしい眺めになります。

厚岸の海(花咲線の車窓より)(北海道)
やがて、
- 厚岸駅(北海道厚岸郡厚岸町)
に着きます。

厚岸駅(北海道厚岸郡厚岸町)
厚岸の町名の由来は、もちろんアイヌ語になります。
しかし「アイヌ語由来」だということを知らないと、普通に「あつきし」「あつぎし」みたいに読むことができてしまいます。
そのため、おそらく北海道に来てみて初めて「アイヌ語由来」だということを知ることになるかと思います(^^;
厚岸の歴史
縄文時代の厚岸
厚岸の町の中にある遺跡からは、既に縄文時代には人々(アイヌ民族の祖先?)の人たちが住んでいたと思われる、「住居の跡」が見つかっています。
つまり、
- 約6,000年前の縄文時代という大昔から、
- アイヌの先祖とも言うべき人々が、この地域で暮らしていた
ということが、その遺跡の存在から判明するわけです。
遺跡から出土したものから、当時の人々の暮らしがわかる
すなわち、こうした遺跡から見つかった物的証拠から、
ということが、専門家が調べたらわかるわけですね。
そして彼らは、時にはロシア方面とも交流しながら、魚・アザラシなどを採って食べていたわけですね。
江戸時代の多くの人々の記録からわかる、当時の蝦夷地(北海道)
そして江戸時代には、厚岸の各地においてにアイヌ民族たちが集落をなして暮らしていたことがわかっています。
すなわち、それは
- 江戸時代に、幕府に命じられて北海道を探検した人達
- 北海道を明治時代になって探検した松浦武四郎といった人物をはじめとする、和人(=日本人)の人々
による、さまざまな記録が残されているからです。
ちなみに松浦武四郎は、明治時代に「北海道」という名前を考えた、名付け親でもあります。
松浦武四郎については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

江戸時代から、多くの人々が幕府の命で北海道を探検した
また、江戸時代には、幕府に命じられて蝦夷地を探検した人達が多くいました。
地図を作成した伊能忠敬や、間宮海峡を発見した間宮林蔵たちですよね。
江戸時代には「凍らない港」と「日本との貿易」を求めて、度々ロシアが日本と接触してきて、軍事衝突を起こすなどのトラブルが起きていました。
特に北海道(蝦夷地)は、ロシアとの国境に近い地域なので、どうしても軍事トラブルや衝突が起こりやすくなっていました。
こうなると、幕府としては蝦夷地の防衛を固めないといけません。
しかし、当時の蝦夷地はどんな形なのか、全く把握できていませんでした。
なので伊能忠敬に地図を作らせ、間宮林蔵らに蝦夷地の探検・調査をさせたわけです。
伊能忠敬については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。


間宮林蔵についには、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

こうした北海道・蝦夷地を探検した和人(日本人)により、当時の厚岸の記録が残っていたりするわけです。
千島方面との商売・交易の拠点となった「アッケシ場所」
江戸時代には、「アッケシ場所」とよばれる商売・交易の拠点が厚岸に存在していたことが、さまざまな文献に記録として残っているようです。
そもそも「場所」とは?
場所とは、簡単にいうと松前藩(日本人)とアイヌ民族が、物々交換・トレードを行う「商売の拠点」のようなものです。
松前藩とは、函館の南西にあった松前町を拠点にしていた藩です。
すなわち、この松前藩が、江戸時代には蝦夷地全体の管理・統括をしていたのでした。
- 松前藩は、当時は本州でしか採れなかった「お米」などをアイヌ民族に渡し(売り)、
- アイヌ民族は、蝦夷地でしか採れない「おいしい魚」や「毛皮」などを、松前藩・日本(本州)に対して渡して(売って)いた
というわけです。
つまり「物々交換」のような形で、商売が成り立っていました。
このように「場所」で商売・トレード(交易)を行うことを、「場所請負制」といいます。
「場所請負制」については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

厚岸と海外との関わりの歴史
はるか遠く・ヨーロッパのオランダにもその記録が残る厚岸
厚岸の様子は、なんとはるか遠く・ヨーロッパの国・オランダにもその記録が残されてきます。
というのも、江戸時代初期にオランダの会社である「オランダ東インド会社」の艦長らが、ここ厚岸に立ち寄ったという記録があるのです。
当時は航空機などあるわけがないので、世界の旅は「船」での長~い航海が主流でした。
そのため、途中で宿泊・休憩・食事・補給などをするための港が必要だったからですね。
オランダ東インド会社とは?
ちなみに、オランダ東インド会社とは、簡単にいうとオランダが東南アジア等と貿易をすることで、利益をあげる為の会社です。
16世紀にもなると、世界中で船の性能が向上してゆき、しかも航海の技術・スキルまでもが向上してゆきました。
そのことで、世界中を航海・探検して「夢とロマン」を求めるような時代になっていました。
すなわち、もし大量の資源が眠っている島を発見しようものなら、本国に報告して多大な褒美や勲章をもらえて「英雄扱い」されたり、また会社を立ち上げて大儲けすることもできます。
そうすれば、そんな男たち・英雄たちはたくさんの女子からもモテモテです。
航海の技術が向上すれば、世界中のオトコたちがそんな夢を見て船出するのは、もはや当然の流れとなっていくわけですね。
コロンブスがアメリカ大陸を発見した時代
そうした流れの中で、1492年にはコロンブスがアメリカ大陸を発見しています。
このときコロンブスは、アメリカ大陸のことをインドだと勘違いしたのでした。
そのため、アメリカの先住民は「インディアン(インド人)」と名付けられたのです。
食の歴史や意義を変えた「香辛料」
そしてヨーロッパの国々が目を付けたのが、東南アジアに大量に眠る資源と、「香辛料」と呼ばれる資源です。
香辛料とは、食べ物に混ぜて「うまい」「あまい」「からい」「しょっぱい」などの要素を意図的につけることで、味をさらに強化させるためのものです。
「胡椒」は、その代表例です。
香辛料は、英語でスパイス(spice)といいます。
こうした香辛料があると、それまでの「ただ生きるための食事」から「楽しむための食事」という具合に、食事の目的も変わってゆきます。
すると、人々の消費活動にも多大な影響が出てくるようになるわけです。
そもそも食事の目的が「ただ生きるため」だけであれば、「グルメ」や「食レポ」などの文化は生まれませんからね。
香辛料を求めて、ヨーロッパ各国が船で海外へ進出
こうした、自国ではまず採れないような「香辛料」などの資源は、ヨーロッパの資本家・お金持ちたちからすれば、まさに喉が出るほど欲しくてたまらないわけです。
つまり、まさに「目がウルウル」状態になるわけですね。
そこで、
- これらを東南アジアから大量に輸入し(買い取り)、
- 自国の国民に対して、「お茶」や「お菓子」などとして売りさばく
という行為・商戦を繰り広げることができれば、それはもう大バズりして大ヒットします。
いつの時代も、人間は「炭水化物」に対しては中毒になりやすいですからね。
東南アジアは、貴重な資源の拠点となった
するとヨーロッパの資本家や企業は、どんどん東南アジアに進出してゆき、こぞって儲かるようになるわけですね。
お金がある人(資本家たち)は、そのお金をさらに(会社や事業を発展させるために)お金を使っていくので、さらに金持ちになっていくのです。
その東南アジアとの貿易の拠点として作られたのが、「東インド会社」です。
これは「世界初の株式会社」と言われています。
日本はこの頃まだ室町時代でしたから、世界がいかに先に進んでいたかがわかります。
その東インド会社が、厚岸にやったきたという記録が、現代のオランダにも残されているということです。
「天然の良港」厚岸
厚岸は「天然の良港」です。
なぜなら、厚岸は入り組んだ海の地形である「入り江」が、とても防御力が高く、周囲の山々が自然のバリアーの役割を果たしているからです。
したがって、厚岸では他の地域の漁村に比べたら、
- 人々は安心して、漁業に専念できる
- 敵(海賊や外国船など)が海から攻めてきたところで、まず複雑な地形に阻まれる
というわけです。
そのため、その間に防御体制を固め、反撃の時間稼ぎをすることができます。
したがって、歴史的に「厚岸のような地形の場所」は人気であり、多くの人々が集まってきます。
このようにして、厚岸といった町は発展していったわけです。
かつて千島方面の一大ルートの中にあった厚岸
そして厚岸は、
という一大ルートの、まさに中継地・休憩地などとしての重要な役割がありました。
昔は、飛行機や特急列車・高速道路などはありませんでした。
そのため、現代のように一気に移動ということはでないために、何ヵ月もかけて長距離移動をしていました。
すなわち、途中の宿泊地・食事等の休憩地はとても重要だったわけです。
したがって、厚岸はまさに日本と千島・ロシア方面が交流をするための、重要拠点だったというわけです。
次回は、浜中・根室へ
今回はここまでです!
お疲れ様でした!
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