横浜を探訪!開港と新田開発の歴史を、わかりやすく解説【神奈川県】

今回は、横浜の探訪・観光と、横浜の開港や発展の歴史について、より深く探求していこうと思います!!

夜の横浜・みなとみらい21(神奈川県横浜市)

夜の横浜・みなとみらい21(神奈川県横浜市)

  1. まずは根岸線・桜木町へ
    1. 横浜の様々な観光地
    2. 初代横浜駅だった、桜木町駅
      1. 現代の横浜駅は三代目
    3. 「完成しない駅」「東洋のサグラダ・ファミリア」!?横浜駅
      1. 常に何かしらの工事が行われている、横浜駅
    4. なぜ二代目横浜駅が、ほぼ現在の地に移転してきたのか?
    5. 関東大震災にて倒壊 三代目横浜駅へ
    6. 群馬・八王子の生糸を輸出していた、横浜港
  2. 「横浜」の由来 昔は「横に広がる浜」だった!?
    1. 意外にシンプルな由来が比較的多い、日本の地名
    2. 横浜が本当の意味で栄えてきたのは、明治以降から
    3. 1858年の日米修好通商条約により、横浜は「開港5港」の一つに
    4. 「ガス灯」「パン」などの文化も横浜から
    5. 東京(江戸)も、かつては海だった
    6. 地名の由来を知るのは面白い 
      1. 「地名の由来」の例
      2. 地名の由来から、そこが昔どんな土地だったのかがわかる
  3. 横浜の父・高島嘉右衛門
    1. 高島嘉右衛門が主張・説得した、鉄道を作るメリット
      1. 軍事物資の輸送目的に使えること
      2. 士農工商の廃止により、職を失った武士の「受け皿」になること
    2. 横浜に日本初の「ガス灯」をもたらした、高島嘉右衛門
  4. 横浜のはじまり、吉田新田
    1. 江戸時代、なぜ「新田開発」をする必要があったのか
      1. 石高とは?
      2. 平和な江戸時代、石高が多いことは重要だった
      3. 江戸時代、田を耕す技術は大きく向上した
    2. 吉田勘兵衛により、横浜の入り江を埋め立てて出来た「吉田新田」
    3. 新田開発のために、まずは堤防を作る計画
      1. わざわざ幕府の許可が必要だった理由
    4. 堤防工事をするも、洪水で失敗
    5. 苦心の末、ついに堤防と新田が完成
  5. 観光して、帰ろう

まずは根岸線・桜木町へ

横浜でまず気軽に観光気分を味わいたいならば、横浜駅よりも一つ隣の

  • 根岸線ねぎしせん桜木町駅さくらぎちょうえき

で降りるのがオススメです。

横浜駅は周囲がどうしても高層ビル・オフィス街などがメインになってくるため、気軽な横浜観光をするのに適しているかといえば、正直微妙です(ただし横浜駅周辺は、デパートは多いです)。

そのため、横浜駅で根岸線に乗り換え、一つ隣の桜木町駅がオススメだというわけです。

桜木町駅前・横浜みなとみらい21の景色。正面の船は「日本丸」。(神奈川県横浜市)

桜木町駅前・横浜みなとみらい21の景色。正面の船は「日本丸」。(神奈川県横浜市)

横浜みなとみらい21の景色。左側の大きなビルが、横浜ランドマークタワー。高さ296mで大阪の「あべのハルカス」以前の日本最高のビルだった(神奈川県横浜市)

横浜みなとみらい21の景色。左側の大きなビルが、横浜ランドマークタワー。高さ296mで大阪の「あべのハルカス」以前の日本最高のビルだった(神奈川県横浜市)

横浜の様々な観光地

桜木町駅で降りれば、横浜ランドマークタワーのすぐ前となり、またみなとみらい21横浜赤レンガ倉庫へのアクセスもそこそも便利になります。

また、横浜の繁華街(遊ぶ場所が多いところ)といえば、桜木町駅からさらに一つ隣の、関内駅かんないえきがベターとなります。

初代横浜駅だった、桜木町駅

桜木町駅さくらぎちょうえきは、初代の横浜駅でした。1872年に新橋~横浜間で初の鉄道が開通した、というのは日本史の授業で習っていると思いますが、その「横浜」というのが、現代の根岸線・桜木町駅なのです。

現代の横浜駅は三代目

ちなみに、現代の横浜駅は、実をいうと三代目になります。

二代目の横浜駅は、当初の横浜駅(現・桜木町駅)の位置では不便となったために、現代の横浜駅の近くへと移転してきたのでした。

二代目横浜駅跡地。マンションの敷地内であるが、一般人でも自由に見学可能。(神奈川県横浜市)

二代目横浜駅跡地(神奈川県横浜市)

「完成しない駅」「東洋のサグラダ・ファミリア」!?横浜駅

横浜駅は、なんと

  • 東洋のサグラダ・ファミリア

などのように呼ばれることがあります。  

それは、スペイン・バルセロナに存在するサグラダ・ファミリア教会のように、

永遠に完成しない建築物

として知られているからです。

常に何かしらの工事が行われている、横浜駅

すなわち、横浜駅は現在の位置に移転してきてからも、

  • 常にどこかで、何かしらの工事が行われている

といった状態が続いています。

そのため、永遠に完成しないさまがまるでサグラダ・ファミリアのようであることから、横浜駅は「東洋のサグラダ・ファミリア」などのように呼ばれているわけです。

なぜ二代目横浜駅が、ほぼ現在の地に移転してきたのか?

ではなぜ、桜木町駅の位置から二台目横浜駅の位置に「横浜駅」が移転してきたのか。

それは、

  1. かつて東海道線が、国府津こうづ小田原おだわら方面へと線路が延長されてきたときに、
  2. いちいち桜木町駅の方面へと南下していたら、手間で時間がかかっていた

という事情があったからですね。

しかし、二台目横浜駅がほぼ現在の位置に移転してきたことにより、桜木町駅の位置まで列車を移動させる必要が無くなったのでした。
そのため、東京~横浜~国府津の線路が真っ直ぐになり、便利になったわけですね。

関東大震災にて倒壊 三代目横浜駅へ

しかし二代目横浜駅は、1923年の関東大震災のときに崩壊してしまいました。
そして現代の三代目・横浜駅に至るわけです。
現代でも、横浜駅のマンションの近くに二代目駅舎の遺構が残されており、一般人でも見学することができます。

二代目横浜駅跡地(神奈川県横浜市)

群馬・八王子の生糸を輸出していた、横浜港

明治時代の初期は、

  1. 東京都の西側にある八王子はちおうじ群馬県あたりから産出された生糸織物を、海外に大量に売り(輸出して)大きな利益を上げる
  2. このことにより、日本を「西洋に追い付け、追い越せ」というような勢いを増してきた時代

だったのでした。

このように、国を挙げて日本の産業を強化していこうという動きを、殖産興業しょくさんこうぎょうといいます。

横浜の開港と、殖産興業などの歴史については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 東海道編 第5番 横浜に到着!開港5港の1つ
鉄道唱歌 東海道編の歌詞を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

「横浜」の由来 昔は「横に広がる浜」だった!?

横浜の海の景色(神奈川県横浜市)

横浜という地名の由来は、実は単純明快であり、なんと

横に続く、だだっ広い浜だった

ということです。

意外にシンプルな由来が比較的多い、日本の地名

このことから、まだ大都市として発展する前の昔の横浜の姿が、どんな景色だったのかの想像が容易につきます。

「横に続く浜」ということで、「横浜」です。
そのまんまかつ、とてもわかりやすいネーミングですね。

横浜が本当の意味で栄えてきたのは、明治以降から

横浜は、江戸時代までは東海道・神奈川宿という宿場町(=昔の旅人たちが、歩いて長距離移動するために泊まる場所)がありました。
また、後述する吉田新田よしだしんでんがあったあたりは、江戸時代にも確かに栄えていました。

しかし、横浜が現代のような大都市へと本格的に発展するのは、1858年の開港以来のことでした。
すなわち、それまでは基本的に何にもない、広大な浜に広がるだけだったということです。

今の大都市・横浜の姿から想像するとちょっと信じられないですよね。

1858年の日米修好通商条約により、横浜は「開港5港」の一つに

そして、1858年の日米修好通商条約において、横浜は「開港5港」の一つになったのでした。
このことから、外国からの文化や技術が急激に入ってくるようになりました。

そして、それに伴って急速に横浜の街が発展していったというわです。

「ガス灯」「パン」などの文化も横浜から

そして、現代の街を明るく照らすための「ガス灯」がともることになりました。

また、現代の我々には欠かせない食文化となっている「パン」などの文化も、外国から横浜へ入り、横浜から発展してゆきました。

東京(江戸)も、かつては海だった

このように、今や横浜はたくさんの高層ビルが並ぶ大都会なので、「横に広がる浜」だったことは、とうてい想像がつきませんね。

しかし、東京・江戸も元々は「入り江」でした。
徳川家康が入ってくるまでの江戸は「日比谷入江ひびやいりえ」という大きな入り江が存在しており、

「入江の戸口」→「江戸」

という名前になったわけです。
これも現代の大都会・東京からしたら、にわかに信じがたいことではあります。

地名の由来を知るのは面白い 

ちなみに昔の地名の決め方・由来は、昔の人には申し訳ありませんが、かなり「そのまんまのネーミング」だったりするのです。

「地名の由来」の例

例えば、「大きい川」であれば「大川おおかわ」、アイヌ語ならば「幌別ほろべつ(ポロ:大・ペッ:川)」だったりします。

また、例えば「大きい山」ならば「大山おおやま」「大山だいせん」などですかね。
もちろん、昔の山は神様が宿ると信じられていたので「大いなる山」という意味も込められています。

さらに、「大きい沼」ならば「大沼おおぬま」です。
アイヌ語ならば「ポロ(大きい)・ト(沼)」で「ポロト」ですね。

地名の由来から、そこが昔どんな土地だったのかがわかる

そして地名の由来から、昔そこがどんな土地だったのかがよくわかる(想像できる)わけです。
こうして考えると、地名の由来を考えるのは(アイヌ語・北海道含め)とても面白いのです。

横浜の父・高島嘉右衛門

明治時代以降の横浜の発展は、明治時代に大活躍した高島嘉右衛門たかしまかえもんという人物の存在がとても大きいです。

高島嘉右衛門たかしまかえもんは明治時代に大活躍した人物であり、「横浜の父」とも呼ばれます。
また、高島嘉右衛門は、横浜駅周辺にある「高島たかしま」という地名の由来にもなっています。

ご存知の通り、明治時代はじめの1872年に新橋~横浜間において日本初の鉄道(東海道線)が通ったわけです。
しかし、これはやはり高島嘉右衛門政府を説得して、新橋~横浜まで線路を引っ張ってきたことが大きいです。

高島嘉右衛門は、明治時代になって鉄道の重要性を政府に対して、

鉄道を作れば、こんなにいいことありすよ!

説明・説得して、めでたく1872年に鉄道の開設となりました。

高島嘉右衛門が主張・説得した、鉄道を作るメリット

軍事物資の輸送目的に使えること

(1)鉄道の存在は、いざ戦争になったときの軍事物資兵隊・食糧・武器・弾薬なと)の運送目的に使えるということ。

鉄道による軍事輸送は、まだ自動車が普及する前の第二次世界大戦の頃までずっと現役であり続けました。

すなわち、戦争で勝つためには、大量の兵士・兵器・武器・弾薬・食糧を惜しみ無くつぎ込むことが不可欠でした(少しでもケチったら、敗戦して国が滅びます)。
なので、そんな大量輸送にも、鉄道の存在は欠かせないものでした。

士農工商の廃止により、職を失った武士の「受け皿」になること

(2)鉄道建設の事業をすることは、士農工商が廃止されたことにより、職を失った武士の受け皿にもなるということ。

明治時代になると、士農工商は廃止となり、職を失った武士たちが多くいました。
そのため、新しい転職先がなかなかみつからず、慣れない商売をやってもうまくいかず、安定した収入が得られなくなり、困窮する武士たちが多くいました。

そんな中、もし鉄道建設の事業が開始されれば沢山の人手が必要になってくるため、困窮した武士たちの「働き口の受け皿」となる効果が期待できました。
今でいう公共事業でしょうか。

このような鉄道建設のメリットを高島嘉右衛門は政府に提言したことにより、見事に1872年、新橋~横浜間ではじめての鉄道が開通したのです。

横浜に日本初の「ガス灯」をもたらした、高島嘉右衛門

そして高島嘉右衛門の業績のひとつに、日本に「ガス」をもたらしたことです。
ガスの会社を作り、日本にガスを用いた文明を開花させたわけです。

そして現在のJR関内駅かんないえきあたりにある馬車道に、1872年10月31日、日本初の「ガス灯」がともりました。
そして10月31日は「ガスの記念日」とも呼ばれます。

これによって、たとえ夜の道でも楽しく遊ぶことができるようになり、日本の街の風景も、当時の世界の最先端・ヨーロッパっぽくなっていったわけです。

なお馬車道ばしゃみちとは、明治時代に多くの外国人たちが馬車で通ったことにちなむ道です。
鎖国が終わって開港すると、横浜にはたくさんの外国人が住むようになったため、その名残が現代でも地名として残っているわけですね。

横浜のはじまり、吉田新田

横浜には、かつて江戸時代までは大きな「入り江」がありました。
つまり現在の関内駅かんないえきや横浜市営地下鉄ブルーライン・伊勢佐木長者町駅いせざきちょうじゃまちえきなどがあるあたりは、実は昔はみんな「」だったのです。

それを江戸時代の初め・1650年代に埋め立てをして、陸地・新田となったのでした。
なぜわざわざ埋め立てまでして陸地にしたのかというと、稲作のための「新田」の開発のためです(新田開発)。
そうして出来た新しい田んぼ地が、後述する吉田新田よしだしんでんになります。

江戸時代、なぜ「新田開発」をする必要があったのか

なぜ新しい田んぼを次々に耕す必要があったのか。
それは生産高を上げて、石高こくだかをどんどん上げていくためですね。

石高とは?

ちなみに石高こくだかとは、厳密にはかなり説明が難しいのですが、ここでは

  • 「その土地からとれる米の量」

のことだと思ってください。

石高が多いほど、その大名や領地はたくさんの人々に、お米を食べさせられることを意味します。
例えば10万石であれば、一年間、10万人の人々にお米を食べさせられるわけです。

すなわち、言い換えれば、

  • 石高が高い=生産力が高い

です。

平和な江戸時代、石高が多いことは重要だった

江戸時代には「平和(天下泰平)の世の中」となり(戦国時代とは異なり)戦争が無くなりました。
そのため、戦争によって他国の領土から土地や恩賞を勝ち得ることができません(もっとも、世の中が平和なのはいいことだと思いますが)。
他から勝ち得ることができないので、「自国の領土を耕す」ことしかなくなったのです。

なので江戸時代には、自分の領地を耕してたくさんのお米を採るための「新田開発」がとても重要になりました。

江戸時代、田を耕す技術は大きく向上した

また、戦争が無くなり平和になれば、人々の平均寿命も延びて人口増加となります。すると、よりたくさんのお米が必要になってきます。
それに伴い、新田開発(農業)の技術が大幅に向上しました。

例えば、岡山県出身の(江戸時代の)学者が考案した「備中鍬びっちゅうぐわ」などの新しい農耕器具も開発されてゆきました。
これらにより、戦国時代までとは比べ物にならないくらい、より少ない労力で、効率的にたくさんのお米を開発することができるようになったわけです。

吉田勘兵衛により、横浜の入り江を埋め立てて出来た「吉田新田」

このように、横浜の入り江を埋め立てしてできた新田を、吉田新田よしだしんでんというわけです。
しかし当時は、桜木町駅の西側にある野毛のげという地域に作られたので、最初は野毛新田のげしんでんと呼ばれました。
後に新田開発を行った吉田勘兵衛よしだかんべえの功績を称えられて、「吉田新田」に改称されたのです。

新田開発のために、まずは堤防を作る計画

横浜の材木商・吉田勘兵衛かんべえは、入り江を干上がらせて陸地を作り、そこへ新田を作るために、まずは堤防を築こうとしました。
堤防で海の水をせき止め、干上がらせて陸地を作り、そこに田んぼ・農地を作ろうという一大プロジェクトです。

なので、吉田勘兵衛はまずは幕府から「許可」を得て、1656年から埋め立て工事を開始しました。

わざわざ幕府の許可が必要だった理由

なぜわざわざ幕府の許可が必要だったのかというと、幕府から

  • 堤防に見せかけた、幕府への反乱拠点を作っているのでは?」
  • 水の奪い合い(水利争い)が発生するのでは?」

などと、疑心暗鬼になられるのを防ぐためですね。

江戸幕府はとにかく、各地の藩から軍事的反乱を起こされるのを嫌がっていました。
なので、城の無断新築・増築絶対NGですし、城の改修ですら無断で行うことは禁止でした。

しかし江戸時代には、それらを破ったために、改易かいえき(石高を大きく減らされた上で、遠くの地に左遷されること)をされた大名らが多くいたのです。
もし「幕府への反乱拠点を作っている」と疑われると、徹底的に監視・マークされ、石高を減らされたり、大名変更を命じられたり、改易されたりするリスクがあったのでした。

堤防工事をするも、洪水で失敗

話を戻しますが、まずは「入り江」の海水を干上ひあがらせるために、幕府の許可を得て「堤防」を築こうとしたのです。
その堤防は、だいたい根岸線・関内駅かんないえきあたりにあったとされます。

しかし6月の梅雨の時期に海が荒れてしまい、堤防は波に流されてしまい、全てが水の泡にってしまいました

苦心の末、ついに堤防と新田が完成

吉田勘兵衛は「これではマズイ」ということで、専門の技師(土木の技術に詳しい人物)を招き、幕府の許可をもう一度得て、2年後に再び工事を開始しました。
なぜ許可がいるのかというと、先述の通り「軍事目的でないことを証明するため」「水利争いなどを避けるため」などですね。

そして苦心の上に出来た堤防により、水を干上がらせ、陸地ができました。これでようやく、米の大量生産を行うための新田開発ができます。そして1667年に、野毛新田のげしんげんと名付けました。
桜木町駅の西側の地域が「野毛のげ」という地名なので、地名をとって「野毛新田」というわけです。

そしてこの功績は「神様によるものだ」と信じられたため、神様に感謝するという意味で日枝神社ひえじんじゃが招かれました。このように遠隔地から神社を招くことを、勧請かんじょうといいます。
日枝神社ひえじんじゃは、滋賀県の比叡山ひえいざんにゆかりある神社です。比叡山の神様なので、「ひえじんじゃ」と呼ぶわけですね。
日枝神社の神様を、親しみをこめて「山王さんのうさん」とも呼ばれます。

そして四代将軍・家綱いえつなにより、吉田勘兵衛の功績を称えられ、1669年に野毛新田のげしんでん吉田新田よしだしんでんと改称されました。

観光して、帰ろう

夜の横浜みなとみらい21(神奈川県横浜市)

夜の横浜みなとみらい21(神奈川県横浜市)

歴史の話ばっかりで、つまらん・・・となってしまいそうなので、せめて最後に観光の話もしようと思います(^^; 横浜みなとみらい21には「万葉の湯」という温泉があり、なんでも湯河原や熱海の温泉からそのままお湯を運んできたものだそうですよ。
家族連れの方々もたくさんいます。

今回はここまでです!

お疲れ様でした!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

この記事が良いと思った方は、よかったら次の記事・前回の記事も見てくださいね!

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