沼津城から知る、歴史探訪に挑戦
今回は、静岡県沼津市(ぬまづし)の沼津中央公園(ぬまづちゅうおうこうえん)にあった沼津城(ぬまづじょう)のあとから、沼津の歴史についてより深く掘り下げていこうかと思います。
沼津市の基本的な知識については、以下の記事でわかりやすく解説しているため、ご覧ください。
鉄道唱歌 東海道編 第17番 沼津の海と富士山 東海道の宿場町 そしてアニメの聖地
まずはアニメの舞台にもなった、沼津中央公園から
沼津中央公園は、東海道線・沼津駅(ぬまづえき、静岡県沼津市)の少し南にあります。
沼津中央公園は、アニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」では第2期・第4話「ダイヤさんと呼ばないで」で登場した、Aqours(アクア)のメンバーがアイドルを活動するためのお金を稼ぐためにフリーマーケットを展開した公園になります。
花丸ちゃん「アヒルボート決定ずら。」
ルビィちゃん「ピぎぃ!」
というシーンですね。
そして沼津中央公園は、江戸時代まで存在していた沼津城(ぬまづじょう)の跡地に存在している公園になります。
端的に言い換えれば、この公園には江戸時代には沼津藩の「お城」があったということです。
さらに昔の話をすると、沼津中央公園は、武田勝頼(たけだかつより)が築いた三枚橋城(さんまいばしじょう)が存在していた場所ということになります。
そして江戸時代に、先述の「沼津城」へとバージョンアップしたのです。
沼津城は、戦国時代に甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)を支配していた、武田勝頼によって築かれた三枚橋城(さんまいばしじょう)にその歴史が始まります。
武田勝頼(かつより)は、あの戦国時代最強ともいわれた山梨県の英雄・武田信玄(しんげん)の息子です。
1575年の「長篠の戦い」において、織田信長の鉄砲隊に敗れたことでも知られます。
武田信玄をはじめとする、甲斐・武田家については、以下の記事でも解説しているため、ご覧ください。
中央線鉄道唱歌 第25番 山梨(甲斐国)の英雄・武田信玄 戦国最強の戦いの天才とは
沼津は、鎌倉時代の大昔には「蓼原(たでわら)」とも呼ばれていました。
現在の沼津港(ぬまづこう)・狩野川(かのがわ)のほとりにも「蓼原(たでわら)」という地名が残っています。
蓼(たで)とは、植物の一種です。おそらくですが、その植物がたくさん生い茂る位置に沼津の港があったため、「蓼原」という地名になったものと思われます。
狩野川という自然のバリヤーに守られた、三枚橋城(沼津城)
三枚橋城は、先述の通り戦国時代に武田勝頼(かつより)が、今の沼津中央公園のあたりの位置に建てたお城になります。
当時は狩野川(かのがわ)に、三つの川がかったことから三枚橋と呼ばれたようです。
狩野川(かのがわ)は、沼津市を流れる代表的な川です。
伊豆の真ん中・天城峠(あまぎとうげ)の山々から流れ出て、沼津市市街地のやや北東の地点まで北上し、やがて大きくUターンして南下し、末は駿河湾(するがわん)の海に注ぎます。
そして武田勝頼は、伊豆地方の後北条氏(ごほうじょうし)と戦っていたため、
三枚橋城~狩野川(かのがわ)~伊豆方面
という位置関係にあったので、仮にもし伊豆方面にいる後北条氏が沼津まで攻めてきても、狩野川が自然のバリアーを果たしてくれたというわけです。
昔から、川は「自然のバリアー」としての役割を果たしてきたので、「川のそば」「川に囲まれた場所」「小高い山の上」などには「お城」が築かれやすかったのです。
そのお城の多くは、江戸時代の「一国一城令(いっこくいちじょうれい)」により、各地の軍事力を削ぐために廃止されました。しかし今でも、全国各地の「川に囲まれた場所」「高い山の上」には「城跡(しろあと)」が多く残っています。
戦国時代、武田勝頼が築いた「三枚橋城」
当時甲斐(かい)・山梨にいた武田勝頼は、父の武田信玄(しんげん)が亡くなってからは一気に勢力を失っており、後北条氏のいる相模(さがみ:神奈川県西部)などの周辺地域とも次々に関係が悪化してゆき、ピンチに陥っていました。
後北条氏(ごほうじょうし)は、戦国時代に伊豆・相模地域を支配していた一族です。鎌倉時代の執権・北条氏とはまったく関係ありませんが、この北条氏のネームバリューが高かったので、「北条氏」を名乗ったことがはじまりです。鎌倉時代の北条氏と区別するため、便宜的に「後北条氏」というわけです。
武田勝頼は弱った勢力を立て直すため、後北条氏の待ち受ける関東地方や伊豆地方にも攻めまくっていました。
そして伊豆半島に拠点を構えて待ち受ける後北条氏と戦う拠点を築くため、この狩野川ほとりの地に三枚橋城を築いたのでした。
沼津の駿河湾(するがわん)に面した千本浜海岸(せんぼんはまかいがん)では、「武田VS後北条」で激しいバトルが繰り広げられました。
そして千本浜海岸では、戦いで多くの兵士たちが討ち死にしてしまい、多くの人骨が発見されてきたといいます。
アニメの舞台にもなった内浦湾(うちうらわん)でも、戦国時代には「武田軍VS後北条軍」で、海の上での激戦が繰り広げられています。
しかし武田勝頼は、次々に敗退を繰り返してゆきます。
それは甲斐国の農民たちから税金を搾(しぼ)り取り、軍事費を集めることが最優先の政治を行っていったため、甲斐・山梨の民たちからはそっぽ向かれ、信頼を失い、勝頼を裏切る人たちが続出していったのです。
現在は飯田線(いいだせん)の通る長野県の伊那(いな)地方でも、武田勝頼は次々に敗戦してゆき、仲間にも裏切られてゆきました。
このように、沼津の地に初めて三枚橋城を築いた武田勝頼は、味方の裏切りなどが相次いだことで次々に敗退してゆき、しまいには山梨県の天目山(てんもくざん)で悲劇の自害に追い込まれています。
武田勝頼の天目山での敗北については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。
中央線鉄道唱歌 第18番 逃げ場を失った武田勝頼が滅びた、甲斐大和駅の東の天目山
その後、後北条氏も、1590年に豊臣秀吉によって本拠地の小田原城(神奈川県小田原市)を攻められてしまい、滅亡してしまっています。この後北条氏が滅亡したことにより、豊臣秀吉は天下統一を達成したのでした。
沼津のスタートとった、大久保 忠佐
戦国が終わり江戸時代になり、初代の沼津藩主(はんしゅ)となった大久保忠佐(おおくぼ ただすけ)は、藩庁(はんちょう)を三枚橋城のあった位置(=沼津中央公園がある位置)に置くこととしました。
沼津藩(ぬまづはん)とは、江戸時代におかれた、全国で約300もあった行政エリアの単位である「藩」の1つです。
現在の都道府県の数は47であるのに対し、江戸時代の藩は300もありましたから、「藩」はどちらかというと「都道府県」よりも「市」に近いニュアンスかもしれません。
藩庁(はんちょう)とは、「藩」の中心機関のことをいいます。今でいえば「県庁」「市役所」のようなものです。
藩主とは、今でいう「知事」「市長」にあたります。
「沼津藩」は今でいう「沼津市」にあたるため、「沼津藩主」は今でいう「沼津市長」に相当するでしょう。
その沼津藩庁を、元々三枚橋城のあった位置に置き、「沼津藩」を発足させ、大久保忠佐(ただすけ)はその沼津藩の最初のトップである、初代沼津藩主となったわけです。
ちなみに現代の2024年現在の沼津市のトップは、賴重秀一(よりしげ しゅういち)市長です。
賴重秀一(よりしげ しゅういち)市長は、沼津のアニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」とAqours(アクア)を地域おこしの一環としてサポート・応援されています。
沼津市は1923年に「沼津町」から「沼津市」へとアップグレードした歴史があるため、2023年で市政100周年を迎えました。
頼重市長は、アニメ人気絶頂期だった2018年に、前の市長さんが病気により急死されたため、新しい市長を選ぶための2018年の市長選挙において初当選されました。そして、2022年の再選を経て現在に至ります。
2018年の市長選挙は、アニメ人気(しかも絶頂期)による沼津市の話題性もあったためか、5名が立候補するというかなりの激戦でした。
しかも元市議会議員の候補との競争でもあったため、かなり激戦だったことと思います。
しかし4年後・2022年の選挙では、他に誰も立候補する人がいなかったため、選挙は行われずに「無投票」で当選(再選)されました。
話がズレましたが、江戸時代初めの大久保氏の沼津着任を経て、ここから「沼津藩」の歴史がスタートします。
大久保牛の改易(左遷)、そして三枚橋城の火災による消失
江戸時代になってからの三枚橋城は、大久保家が無嗣改易(むしかいえき)された1614年の火災及び、1641年(寛永18年)の大火で焼失してしまいました。
昔の城や建物は基本的に「木造建築」でしたから、ひとたび燃えるとあっという間に燃え移り、周辺を巻き込んで大火事になっていたわけですね。
ちなみに無嗣改易(むしかいえき)とは、不祥事やルール違反などが理由で、遠くに飛ばされる・左遷(させん)されることをいいます。
江戸時代には、こうした不祥事や不始末などが原因で幕府から不信感・怒りを買ってしまい、このような無嗣改易をさせられた藩や大名はなんと約500にもおよぶといいます。たとえ武士だからといって「至れり尽くせり」だったわけでなく、結構ルールに厳しい世の中だったわけですね。
ちなみに後で詳しく述べますが、大久保氏がこの改易(かいえき)によって遠くに飛ばされてしまった後は、沼津はいったん幕府が直接支配する天領(直轄地)となっています。その後、江戸時代の後半になって、徳川家からの信頼が厚かった水野氏(みずのし)が引き続き、沼津藩のトップを継承していくこととなります。
城は廃止、しばらくは天領へ
沼津藩は、大久保氏(おおくぼし)が改易(さいえき)されてからは、一度幕府の「天領」になっています。つまり「藩」に属するわけではなく、幕府が直接支配する地域だということです。これは貿易による利益の大きかった天領・長崎や、「金」による利益の大きかった天領・佐渡金山などと同じ扱いです。
しかし後述するように、江戸時代の後半になって再び「藩」として独立しました。そのときに、水野氏が大名となり沼津藩の統治を引き継いでいきました。
江戸初期に三枚橋城が火災で消失してしまい、その城跡地は先述の通り幕府の天領となりました。そして、後述するように韮山代官(にらやまだいかん)の領地となりました。韮山代官については後述しますが、ひとまず「幕府の領地になった(沼津藩の土地ではなくなった)」ものと思っていてください。
水野氏の着任、天領から再び「沼津藩」へ
そこへ江戸後期にあたる1778年になり、先述の通り水野氏が沼津藩主となり、再び「沼津藩」の時代がやってきました。
そして沼津城の建設や、大幅なバージョンアップが図られていったのでした。
江戸時代には、城のバージョンアップや勝手な改修は基本的に認められていませんでした。
なぜなら、城の改修が下手したら軍事力のアップにつながってしまい(あるいは意図的にされてしまい)、幕府にとって脅威になってしまう恐れがあったからです。
江戸幕府は、各藩や大名が下手に力をつけないように、あの手この手を使って各藩の勢力ダウンを図っていたのです。
例えば「参勤交代」のように、大名に多大な旅費や人件費などを負担させたのはいい例です。
水野氏(みずのし)は徳川家とも関わりが深い、信頼の置かれている一族ですから、沼津は幕府にとっては江戸にも近い「身内」の藩であったともいえます。
水野氏は、譜代大名(ふだいだいみょう)であり、「関ヶ原の戦い」では徳川家の味方をした大名です。
逆に、中国地方の毛利氏(もうりし)など「関ヶ原の戦い」において徳川家に敵対した大名は「外様大名(とざまだいみょう)」とされ、江戸時代になったタイミングで、罰として遠くに飛ばされてしまったのでした。例えば毛利氏は元々は広島が本拠地だったのに、江戸時代になって山口県の萩(はぎ)という場所に飛ばされてしまったわけです。
このように、外様大名は徳川家に対して「恨み」を持っている可能があり、幕府からは常に「反乱を起こされるのでは」と警戒されていたのでした。
沼津は江戸に近いため、徳川家からの信頼も厚い(反乱を起こす可能性の低い)水野家が譜代大名として沼津藩を任されたわけですね。
江戸幕府からの信頼も厚かった沼津藩
1777年になると、江戸幕府から沼津藩に対し、城を建設するための資金が貸与されました。
その額、なんと三千両(=現代価値で、約3億円。ちなみに1両=約10万円で換算しています)です。
ちなみに、これは「すごいこと」です。
これは恐らくですが「江戸の防御」のために、江戸に近い沼津の防御力を高めるため、などの意味で「沼津城の強化」が必要だったものと思います。
例えば山梨県の甲府(こうふ)、茨城県の水戸(みと)など、江戸に近い藩は、徳川家の親戚または信頼の深い大名などが配置され、とにかく防御力を固められていました。
それは先述の「外様大名」が幕府に反感を持って反乱を起こし、江戸に軍事攻撃を仕掛けてくるのを防ぐためですね。
沼津は先述の通り、1777年以前は幕府の天領でしたから、当時幕府がいかに「沼津の防御の重要性」を認識していたのかがよくわかります。
その翌年の1778年になると、韮山代官(にらやまだいかん)から沼津藩へと(城を作るために十分な)土地が引き渡されたわけです。
韮山代官(にらやまだいかん)とは、伊豆地域を監視するための、江戸幕府による機関です。
韮山(にらやま)とは、伊豆半島の真ん中あたりにある、静岡県伊豆の国市(いずのくにし)の領域にあたり、アニメにも登場した伊豆長岡駅(いずながおかえき)の隣の地域になります。また、世界遺産の韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)があります。
伊豆地方は江戸に近く、また高級・良質な石材(=城などに使われます)もたくさん採れる、とても重要な地域でした。
なので重要拠点の伊豆を乗っ取られないためにも、韮山代官の武士たちは幕府に代わって伊豆地方を監視していたのでした。もちろんその監視役の武士には、幕府にとって信頼できる(反乱の恐れがない)武士が派遣(または任命)されていたのです。
そこへもし、伊豆への反乱を企てる者がいれば、容赦なく幕府へと通報され、大量の武士(軍団)を送り込まれて、あっという間に鎮圧されてしまうこでしょう。
話を戻すと、沼津が幕府の天領(直轄地)だった1777年までは、沼津中央公園の土地は韮山代官の所有であったということであり、そこから沼津城を建設するにあたって土地が引き渡され、本格的な城の建築のフェーズに移っていった、ということですね。
沼津の政治の拠点へ
こうしてできた江戸時代後半の沼津城は、一昔前の三枚橋城と比べると「軍事防衛拠点」というよりはむしろ「政庁」という側面が強くなっていったといえます。つまり、それまでのように防御力をガチガチに固めた「要塞」というよりも、むしろ政治・行政の仕事を行うための「役場」のような形に近づいていった、ということですね。なので防御設備・装備等もより最小限になっていったということです。
沼津城は面積も、元祖・三枚橋城の約半分しかなかったようです。
つまり軍事的・防御力的にも、あまり気合いを入れてなかったということです。
江戸時代には天下泰平(てんかたいへい)の「平和な世の中」であり、戦国時代の三枚橋城のような大袈裟な防御力は、もはや不要になっていたことがうかがえます。
むしろ下手に武装したり城を改修すると、先述の通り江戸幕府から目をつけられて改易(かいえき:石高を減らされた上で左遷)のリスクさえありました。
江戸時代の儒学者だった林靏梁(はやし かくりょう)という人物が、江戸から遠州(えんしゅう:現在の静岡県浜松市あたり)へ出世のために赴任(ふにん)する際に、沼津を通過しています。恐らく旧・東海道を通って江戸から遠州へと、はるばると徒歩または馬で向かったのですね。
彼はその時の沼津城の印象を、
「沼津城 手薄之様子 武風之衰 可咲也(わらうべきなり)」
と唄っています。
これは現代語に訳すと
「今の沼津城は、全くもって手薄(てうす:防御のバリアーが全然ない)の様子である。」
「まるで武士が衰えたような気色であり、草しか生えずワロタwww」
みたいなイメージでしょうか。
今では「ワロタ」「草」ですが、当時は「わらうべきなり」だったのですね。
まあ、世の中が平和になって、無駄に防御力が必要ではなくなったことを、おもしろおかしくジョークを交えて笑ったものでしょう。
ちなみにこの文章を考えた林靏梁は、元々は下級武士でした。しかしその才能を認められて、先述の通り遠州へ代官さま(武士)として出世し、遠州の飢えに苦しむ人々を救済することに尽力しました。さらに、まだ地図が満足に出来ていなかった当時に、彼は遠州の詳細・正確な地図を作成したことで、幕府からとても高い評価を受けることになりました。
明治時代以降の沼津城
明治時代になると、軍隊にとって軍事的価値のある城以外は、日本全国のほとんどの城は廃止となってしまいます。
沼津城も、明治時代に入ったとともに廃止になってしまいました。
ちなみに残った他の城は、軍隊の師団(しだん:軍隊のチームの単位)が置かれるか、それとも国宝・松江城のように地元の人々の強い意思によって残された城もあります。
無くなった後の沼津城の跡地は、民間に払い下げられることになりました。つまり、国が
「もうこの土地はいらないから、民間のみんなで自由に使ってね」
といって、民間に有効利用してもらおうと判断したということですね。
その後沼津市街地は、何度も大火(大火事)に見舞われたことで、沼津城の跡地はもはや跡形もないほどに消えてしまうこととなりました。
昔は木造建築の家屋(かおく)が主流だったので、明治時代には一度家事が起こると、あっという間に燃え広がってしまい、どこの都市であっても街全体が大火事になることは珍しくありませんでした。
しかし、ひとたび大火事が起こると、その燃えた後は
「大きな更地(さらち)」
になってしまいます。昔はむしろこれを「大きなチャンス」だととらえ、何も無くなった土地にさらに新しく大きな道路を通したり、またより大きな新しいビルを建てていったりしたわけです。
さらには、用済みになった「お堀」もどんどん埋め立てられていきます。
そして今や「どこにお堀があったの?」というくらい、想像すらもつきにくくなっています。
しかし沼津市の大手町(おおてまち)のあちこちに、今も古い石垣などの跡が残ってきます。大手町とは、沼津城の大手門(おおてもん:大名さまも通るほどの、城の立派かつメインの門)があったことに由来する町です。
狩野川に沿って進み、上土(あげつち)でひと休憩
歴史の話ばっかりになってしまいましたが、沼津中央公園公園から狩野川(かのがわ)に沿って少し進むと、上土(あげつち)のエリアに着きます。
津島善子(ヨハネ)ちゃんの見下ろす、上土(あげつち)で一休みです。
私(筆者)は中二病キャラなので、ヨハネちゃんとは性格が似ていますよ!
上土(あげつち)という地名は、先述の武田勝頼が三枚橋城を作るときに、狩野川(かのがわ)を工事していて削って出てきた「土」を、積み「上」げてできた土地であることから、上土(あげつち)と名付けられたそうです。
そして上土には、今回解説した三枚橋城の外堀跡(そとぼりあと)があります。
ここに、三枚橋城を守る役割をしていた、外堀(そとぼり)の跡があったということですね。この外堀に使われた石は、まさに戦国時代の武田勝頼によって作られたものなのでしょうか。また、この石はやはり名物「伊豆石」で作られたものなのでしょうか。真偽のほどはわかりませんが、色々と想像しながら昔を偲(しの)ぶのも楽しいものです。
十分に楽しんだら、上土から沼津駅方面へ戻ります。ヨハネ(津島善子)ちゃんの声を演じられた小林愛香さんも、よくこの上土を訪れていたんでしょうかね。武田勝頼ならず、あいきゃんの歴史を偲ぶのもまた面白いです(^^;
今回はここまでです!
お疲れさまでした!
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
コメント