沼津城(沼津市)の歴史を、わかりやすく解説!【後編】

沼津城(静岡県沼津市)の観光・歴史を、わかりやすく解説してゆきます!
初心者の方にも、やさしく解説してゆきます!

  1. 沼津城の歴史を、わかりやすく解説!【後編】
  2. 沼津のスタートとなった、大久保忠佐
    1. 「藩」の中心機関・藩庁
      1. 藩主とは?
      2. 現在の沼津市のトップは、賴重秀一市長
      3. 2018年の市長選挙は5人による激戦、2022年の選挙では無投票
    2. 大久保牛の改易(左遷)、そして三枚橋城の火災による消失
      1. 無嗣改易とは?
      2. 改易の後は、天領(直轄地)に
    3. 沼津城は廃止、しばらくは「天領」へ
      1. 江戸時代後半、再び「藩」として独立
    4. 水野氏の着任、天領から再び「沼津藩」へ
      1. 基本的に認められていなかった、江戸時代の城のバージョンアップ
      2. あの手この手で、各藩の勢力ダウンが図られていた江戸時代
      3. 徳川家とも関わりが深い、身内の水野氏
      4. 一方、関ヶ原以降に徳川家に従ったのは「外様大名」
      5. 外様大名の例:中国地方の毛利氏
      6. 江戸に近い沼津 信頼の厚い水野家が譜代大名に
    5. 江戸幕府からの信頼も厚かった沼津藩
      1. なぜ江戸幕府は、沼津に多大な予算をかけたのか
      2. 韮山代官から沼津藩の管轄へ
      3. 豊富な石の材料(伊豆石)があった伊豆
      4. 1777年までは韮山代官の所有だった沼津城
    6. 沼津の政治の拠点へ
      1. 平和が続いた江戸時代 もはや大きな城は不要になっていた?
    7. 江戸時代に沼津を訪れた儒学者・林靏梁のエピソード
      1. 「沼津城、あまりに手薄でワロタwww」
      2. 江戸時代、「上級武士」と「下級武士」は、同じ「武士」であっても対等ではなかった
  3. 明治時代以降の沼津城
    1. 新たな沼津城の歴史へ
      1. かつて何度も大火(大火事)に見舞われた、沼津市街地
      2. 大火事→更地から、新しく開発が進んだ
      3. 用済みになった「お堀」は、次々に埋め立てられていく
  4. 狩野川に沿って進み、上土(あげつち)でひと休憩
  5. 以上、今回はここまで

沼津城の歴史を、わかりやすく解説!【後編】

今回は、前回に引き続き、静岡県沼津市ぬまづしの、現在の沼津中央公園ぬまづちゅうおうこうえんにあった、

  • 沼津城ぬまづじょう

と、沼津の歴史について、より深く掘り下げていこうかと思います。

かつて沼津城が置かれた、沼津中央公園(静岡県沼津市)

かつて沼津城が置かれた、沼津中央公園(静岡県沼津市)

沼津城の前身となった、戦国時代までの三枚橋城さんまいばしじょうについては、以下の前回の記事で解説していますので、ご覧ください

【沼津城跡の観光・歴史】わかりやすく解説!
沼津城跡(静岡県沼津市)の観光・歴史を、わかりやすく解説してゆきます! 初心者の方にも、やさしく解説してゆきます!

沼津のスタートとなった、大久保忠佐

戦国が終わり江戸時代になり、初代の沼津藩主ぬまづはんしゅとなった

  • 大久保忠佐おおくぼただすけ

は、藩庁はんちょうを三枚橋城のあった位置(=沼津中央公園がある位置)に置くこととしました。

沼津中央公園にある、沼津城の跡の碑(静岡県沼津市)

沼津中央公園にある、沼津城跡の碑(静岡県沼津市)

沼津藩ぬまづはんとは、江戸時代におかれた、全国で約300もあった行政エリアの単位である「」の1つです。
現在の都道府県の数は47であるのに対し、江戸時代の藩は300もあったのでした。
そのため、「藩」はどちらかというと「都道府県」よりも「市」に近いニュアンスかもしれません。

「藩」の中心機関・藩庁

藩庁はんちょうとは、「藩」の中心機関のことをいいます。
今でいえば「県庁」「市役所」のようなものです。

藩主とは?

また、藩主とは、今でいう「知事」「市長」にあたります。
「沼津藩」は今でいう「沼津市」にあたるため、「沼津藩主」は今でいう「沼津市長」に相当するでしょう。

沼津中央公園・沼津城跡の碑にて(静岡県沼津市)

その沼津藩庁を、元々三枚橋城のあった位置に置き、「沼津藩」を発足させたのでした。
また、大久保忠佐ただすけはその沼津藩の最初のトップである、初代沼津藩主となったわけです。

現在の沼津市のトップは、賴重秀一市長

ちなみに現代の2024年現在の沼津市のトップは、賴重秀一よりしげしゅういち市長です。

賴重秀一よりしげしゅういち市長は、沼津のアニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」とAqours(アクア)を地域おこしの一環としてサポート・応援されています。
沼津市は1923年に「沼津町」から「沼津市」へとアップグレードした歴史があるため、2023年で市政100周年を迎えました。

頼重市長は、アニメ人気絶頂期だった2018年に、前の市長さんが病気により急死されたため、新しい市長を選ぶための2018年の市長選挙において初当選されました。
そして2022年の再選を経て、現在に至ります。

2018年の市長選挙は5人による激戦、2022年の選挙では無投票

2018年の市長選挙は、アニメ人気(しかも絶頂期)による沼津市の話題性もあったためか、5名が立候補するというかなりの激戦でした。
しかも元市議会議員の候補との競争でもあったため、かなり激戦だったことと思います。
しかし4年後・2022年の選挙では、他に誰も立候補する人がいなかったため、選挙は行われずに「無投票」で当選(再選)されました。

話がズレましたが、江戸時代初めの大久保氏の沼津着任を経て、ここから「沼津藩」の歴史がスタートします。

大久保牛の改易(左遷)、そして三枚橋城の火災による消失

江戸時代になってからの三枚橋城は、大久保家が無嗣改易むしかいえきされた年である1614年の火災と、1641年の大火によって焼失してしまいました。
昔の城や建物は基本的に「木造建築」でしたから、ひとたび燃えるとあっという間に燃え移り、周辺を巻き込んで大火事になっていたわけですね。

無嗣改易とは?

ちなみに無嗣改易むしかいえきとは、不祥事ルール違反などが理由で、遠くに飛ばされる・左遷させんされることをいいます。

江戸時代には、こうした不祥事不始末などが原因で幕府から不信感・怒りを買ってしまい、このような無嗣改易をさせられた藩や大名はなんと約500にもおよぶといいます。

すなわち、たとえ武士だからといって「至れり尽くせり」だったわけでなく、結構ルールに厳しい世の中だったわけですね。

改易の後は、天領(直轄地)に

ちなみに後で詳しく述べますが、大久保氏がこの改易かいえきによって遠くに飛ばされてしまった後は、沼津はいったん幕府が直接支配する天領(直轄地)となっています。

その後、江戸時代の後半になって、徳川家からの信頼が厚かった水野氏みずのしが引き続き、沼津藩のトップを継承していくこととなります。

沼津城は廃止、しばらくは「天領」へ

沼津藩は、大久保氏おおくぼし改易さいえきされてからは、一度幕府の「天領」になっています。
つまり「藩」に属するわけではなく、幕府が直接支配する地域だということです。

これは、

  • 貿易による利益の大きかった天領・長崎
  • 「金」による利益の大きかった天領・佐渡金山

などと同じ扱いです。

江戸時代後半、再び「藩」として独立

しかし後述するように、江戸時代の後半になって再び「」として独立しました。
そのときに、水野氏が大名となり沼津藩の統治を引き継いでいきました。

江戸初期に三枚橋城が火災で消失してしまい、その城跡地は、先述の通り幕府の天領となりました。
そして、後述するように韮山代官にらやまだいかんの領地となりました。

韮山代官については後述しますが、ひとまず、

「幕府の領地になった(沼津藩の土地ではなくなった)」

ものと思っていてください。

水野氏の着任、天領から再び「沼津藩」へ

そこへ江戸後期にあたる1778年になり、先述の通り水野氏沼津藩主となり、再び「沼津藩」の時代がやってきました。

そして沼津城の建設や、大幅なバージョンアップ(改修)が図られていったのでした。

基本的に認められていなかった、江戸時代の城のバージョンアップ

江戸時代には、城のバージョンアップや勝手な改修は基本的に認められていませんでした

なぜなら、城の改修が下手したら軍事力のアップにつながってしまい(あるいは意図的にされてしまい)、幕府にとって脅威になってしまう恐れがあったからです。

あの手この手で、各藩の勢力ダウンが図られていた江戸時代

江戸幕府は、各藩や大名が下手に力をつけないように、あの手この手を使って各藩の勢力ダウンを図っていたのです。

例えば「参勤交代」のように、大名に多大な旅費や人件費などを負担させたのはいい例です。

徳川家とも関わりが深い、身内の水野氏

水野氏みずのしは、徳川家とも関わりが深い、信頼の置かれている一族です。
そのため、沼津は幕府にとっては江戸にも近い「身内」の藩であったともいえます。

水野氏は、譜代大名ふだいだいみょうであり、「関ヶ原の戦い」では徳川家の味方をした大名です。

一方、関ヶ原以降に徳川家に従ったのは「外様大名」

逆に、中国地方の毛利氏もうりしなど、「関ヶ原の戦い」において徳川家に敵対した大名は「外様大名とざまだいみょう」とされました。

そして外様大名は、江戸時代になったタイミングで、罰として遠くに飛ばされてしまったのでした。

外様大名の例:中国地方の毛利氏

例えば、毛利氏は元々は広島が本拠地だったのに、江戸時代になって山口県のはぎという場所に飛ばされてしまったわけです。

このように、外様大名は徳川家に対して「恨み」を持っている可能性があり、幕府からは常に「反乱を起こされるのでは」と警戒されていたのでした。

江戸に近い沼津 信頼の厚い水野家が譜代大名に

沼津は江戸に近いため、徳川家からの信頼も厚い(反乱を起こす可能性の低い)水野家譜代大名として沼津藩を任されたわけですね。

江戸幕府からの信頼も厚かった沼津藩

1777年になると、江戸幕府から沼津藩に対し、城を建設するための資金が貸与されました。
その額、なんと三千両(=現代価値で、約3億円。ちなみに1両=約10万円で換算しています)です。

ちなみに、これは「すごいこと」です。

なぜ江戸幕府は、沼津に多大な予算をかけたのか

これは恐らくですが「江戸の防御」のために、江戸に近い沼津防御力を高めるため、などの意味で「沼津城の強化」が必要だったものと思います。

例えば、

  • 山梨県の甲府こうふ
  • 茨城県の水戸みと

などの江戸に近い藩は、徳川家の親戚または信頼の深い大名などが配置され、とにかく防御力を固められていました。

それは、先述の「外様大名」が幕府に反感を持って反乱を起こし、江戸に軍事攻撃を仕掛けてくるのを防ぐためですね。

沼津は先述の通り、1777年以前は幕府の天領でしたから、当時幕府がいかに「沼津の防御の重要性」を認識していたのかがよくわかります。

韮山代官から沼津藩の管轄へ

その翌年の1778年になると、韮山代官にらやまだいかんから沼津藩へと(城を作るために十分な)土地が引き渡されたわけです。

韮山代官にらやまだいかんとは、伊豆地域を監視するための、江戸幕府による機関です。
韮山にらやまとは、伊豆半島の真ん中あたりにある、静岡県伊豆の国市いずのくにしの領域にあたります。
また、アニメ(ラブライブ!サンシャイン!!)にも登場した

  • 伊豆長岡駅いずながおかえき

の隣の地域になります。

また、韮山には世界遺産の韮山反射炉にらやまはんしゃろがあります。

豊富な石の材料(伊豆石)があった伊豆

伊豆地方は江戸に近く、また高級・良質な石材(=城などに使われます)もたくさん採れる、とても重要な地域でした。
そのため、重要拠点の伊豆を乗っ取られないためにも、韮山代官の武士たちは幕府に代わって伊豆地方を監視していたのでした。

もちろんその監視役の武士には、幕府にとって信頼できる(反乱の恐れがない)武士が派遣(または任命)されていたのです。

そこへもし、伊豆への反乱を企てる者がいれば、容赦なく幕府へと通報され、大量の武士(軍団)を送り込まれて、あっという間に鎮圧されてしまうこでしょう。

1777年までは韮山代官の所有だった沼津城

話を戻すと、沼津が幕府の天領(直轄地)だった1777年までは、沼津中央公園の土地は韮山代官の所有であったということです。

さらに、そこから沼津城を建設するにあたって土地が引き渡され、本格的な城の建築のフェーズに移っていった、ということですね。

沼津の政治の拠点へ

こうしてできた江戸時代後半の沼津城は、一昔前の三枚橋城と比べると、

  • 軍事防衛拠点

というよりはむしろ

  • 政庁

という側面が強くなっていったといえます。
つまり、それまでのように防御力をガチガチに固めた「要塞」というよりも、むしろ政治・行政の仕事を行うための「役場のような形に近づいていった、ということですね。
なので防御設備・装備等も、より最小限になっていったということです。

沼津城は面積も、元祖・三枚橋城の約半分しかなかったようです。
つまり軍事的・防御力的にも、あまり気合いを入れてなかったということです。

平和が続いた江戸時代 もはや大きな城は不要になっていた?

江戸時代には天下泰平てんかたいへいの「平和な世の中」であり、戦国時代の三枚橋城のような大袈裟な防御力は、もはや不要になっていたことがうかがえます。

むしろ下手に武装したり城を改修すると、先述の通り江戸幕府から目をつけられて改易(※)のリスクさえありました。

改易かいえき:石高を減らされた上で、左遷されること。

江戸時代に沼津を訪れた儒学者・林靏梁のエピソード

ちなみに、江戸時代の儒学者だった

  • 林靏梁はやしかくりょう

という人物が、江戸から遠州(※)へ出世のために赴任ふにんする際に、沼津を通過しています。

遠州えんしゅう:現在の静岡県浜松市あたりを中心とした、静岡県西部のことです。

彼は恐らく、まだ新幹線も無い時代に、旧・東海道を通って江戸から遠州へと、はるばると(徒歩または馬で)向かったのですね。

「沼津城、あまりに手薄でワロタwww」

彼はその時の沼津城の印象を、

沼津城 手薄之様子 武風之衰 可咲也わらうべきなり

と唄っています。

これは現代語に訳すと

今の沼津城は、全くもって手薄てうす(防御のバリアーが全然ないの様子である。
まるで武士が衰えたような気色であり、草しか生えずワロタwww

みたいなイメージでしょうか。

今では「ワロタ」「」ですが、当時は「わらうべきなり」だったのですね。

まあ、世の中が平和になって、無駄に防御力が必要ではなくなったことを、おもしろおかしくジョークを交えて笑ったものでしょう。

江戸時代、「上級武士」と「下級武士」は、同じ「武士」であっても対等ではなかった

ちなみにこの文章を考えた林靏梁は、元々は下級武士でした。
つまり、同じ武士であっても「上級武士」とは対等な「タメ口」をきけない立場にあったわけです。

しかし彼はその才能を認められて、先述の通り遠州へ代官さま(武士)として出世したのでした。
そして、遠州の飢えに苦しむ人々を救済することに尽力しました。

さらに、まだ地図が満足に出来ていなかった当時に、彼は遠州の詳細・正確な地図を作成したのでした。
このことで、幕府からとても高い評価を受けることになりました。

明治時代以降の沼津城

新たな沼津城の歴史へ

明治時代になると、軍隊にとって軍事的価値のある城以外は、日本全国のほとんどの城は廃止となってしまいます。
沼津城も、明治時代に入ったとともに廃止になってしまいました。

ちなみに残った他の城は、

  • 軍隊の師団しだん(軍隊のチームの単位)が置かれた
  • 国宝・松江城のように地元の人々の強い意思によって残された

城もあります。

無くなった後の沼津城の跡地は、民間に払い下げられることになりました。
つまり、国が

もうこの土地はいらないから、民間のみんなで自由に使ってね

といって、民間に有効利用してもらおうと判断したということですね。

かつて何度も大火(大火事)に見舞われた、沼津市街地

その後沼津市街地は、何度も大火(大火事)に見舞われたことで、沼津城の跡地はもはや跡形もないほどに消えてしまうこととなりました。

昔は木造建築の家屋かおくが主流だったため、明治時代には

  1. 一度家事が起こると、あっという間に燃え広がってしまい、
  2. どこの都市であっても、街全体が大火事になる

ということは珍しくありませんでした。

大火事→更地から、新しく開発が進んだ

しかし、ひとたび大火事が起こると、その燃えた後は 「大きな更地さらち」 になってしまいます。
昔はむしろこれを「大きなチャンス」だととらえ、

  • 何も無くなった土地に、さらに新しく大きな道路を通したり、
  • より大きな新しいビルを建てていった

というわけです。

用済みになった「お堀」は、次々に埋め立てられていく

さらには、用済みになった「お堀」もどんどん埋め立てられていきます。
そして今や「どこにお堀があったの?」というくらい、想像すらもつきにくくなっています。

しかし沼津市の大手町おおてまちのあちこちに、今も古い石垣などの跡が残っています。

ちなみに大手町とは、沼津城の大手門おおてもん(大名さまも通るほどの、城の立派かつメインの門)があったことに由来する町です。
アニメでダイヤお姉ちゃんが悩みを打ち明けて笑われた場所でもあります!

狩野川に沿って進み、上土(あげつち)でひと休憩

歴史の話ばっかりになってしまいましたが、沼津中央公園公園から狩野川かのがわに沿って少し進むと、上土あげつちのエリアに着きます。

※狩野川より。
後ろの橋は、御成橋おなりばし
(静岡県沼津市)

狩野川に沿って、上土(あげつち)方面へ進む

狩野川に沿って、上土(あげつち)方面へ進む

津島善子(ヨハネ)ちゃんの見下ろす、上土あげつちで一休みです。
私(筆者)は中二病キャラなので、ヨハネちゃんとは性格が似ていますよ!

上土あげつちという地名は、先述の武田勝頼が三枚橋城を作るときに、狩野川かのがわを工事していて削って出てきた「」を、積み「」げてできた土地であることから、上土あげつちと名付けられたそうです。

そして上土には、今回解説した三枚橋城外堀跡そとぼりあとがあります。

「三枚橋城外堀跡」より

「三枚橋城外堀跡」より

ここに、三枚橋城を守る役割をしていた、外堀そとぼりの跡があったということですね。
この外堀に使われた石は、まさに戦国時代の武田勝頼によって作られたものなのでしょうか。
また、この石はやはり名物「伊豆石」で作られたものなのでしょうか。
真偽のほどはわかりませんが、色々と想像しながら昔をしのぶのも楽しいものです。

十分に楽しんだら、上土から沼津駅方面へ戻ります。
ヨハネ(津島善子)ちゃんの声を演じられた小林愛香さんも、よくこの上土を訪れていたんでしょうかね。
武田勝頼ならず、あいきゃんの歴史を偲ぶのもまた面白いです(^^;

※上土から、沼津駅方面へ戻ろう。

※上土より(静岡県沼津市)

以上、今回はここまで

今回はここまでです!

お疲れさまでした!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。
そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。
再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。
何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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