三枚橋城(現在の静岡県沼津市)の観光・歴史を、わかりやすく解説してゆきます!
初心者の方にも、やさしく解説してゆきます!
沼津城(三枚橋城)の歴史を、わかりやすく解説!
今回は、静岡県沼津市の、現在の沼津中央公園にあった、
- 沼津城
と、沼津の歴史について、より深く掘り下げていこうかと思います。

沼津中央公園(静岡県沼津市)

沼津中央公園より(静岡県沼津市)
沼津市の基本的な知識については、以下の記事でわかりやすく解説しているため、ご覧ください。

三枚橋城の歴史、その跡をしのぶ観光
まずはアニメの舞台にもなった、沼津中央公園から
沼津中央公園は、東海道線・沼津駅(静岡県沼津市)の少し南にあります。
沼津中央公園は、アニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」では第2期・第4話「ダイヤさんと呼ばないで」で登場した、Aqours(アクア)のメンバーがアイドルを活動するためのお金を稼ぐためにフリーマーケットを展開した公園になります。
ルビィちゃん「ピぎぃ!」
というシーンですね。
そして沼津中央公園は、江戸時代まで存在していた沼津城の跡地に存在している公園になります。
端的に言い換えれば、この公園には江戸時代には沼津藩の「お城」があったということです。
かつて武田勝頼が築いた、三枚橋城があった
さらに昔の話をすると、沼津中央公園は、かつて武田勝頼が築いた、
- 三枚橋城
が存在していた場所ということになります。
そして江戸時代に、先述の「沼津城」へとバージョンアップしたのです。
三枚橋城にはじまる歴史
沼津城は、戦国時代に甲斐国(現在の山梨県)を支配していた、武田勝頼によって築かれた、
- 三枚橋城
にその歴史が始まります。
武田信玄の息子・武田勝頼
武田勝頼は、あの戦国時代最強ともいわれた山梨県の英雄・武田信玄の息子です。
1575年の「長篠の戦い」において、織田信長の鉄砲隊に敗れたことでも知られます。
武田信玄をはじめとする、甲斐・武田家については、以下の記事でも解説しているため、ご覧ください。

沼津は、鎌倉時代の大昔には
- 「蓼原」
とも呼ばれていました。
現在の沼津港・狩野川のほとりにも「蓼原」という地名が残っています。
蓼とは、植物の一種です。
おそらくですが、その植物がたくさん生い茂る位置に沼津の港があったため、「蓼原」という地名になったものと思われます。
狩野川という自然のバリヤーに守られた、三枚橋城(沼津城)
三枚橋城は、先述の通り戦国時代に武田勝頼が、今の沼津中央公園のあたりの位置に建てたお城になります。
当時は狩野川に、三つの川がかったことから三枚橋と呼ばれたようです。

狩野川にかかる「あゆみ橋」。Aqoursのシングル「僕らの走ってきた道は・・・」のPVでも登場。写真左側が沼津城(沼津中央公園)、写真奥が沼津市役所、そして伊豆方面。(静岡県沼津市)
狩野川は、沼津市を流れる代表的な川です。
伊豆の真ん中・天城峠の山々から流れ出て、沼津市市街地のやや北東の地点まで北上し、やがて大きくUターンして南下し、末は駿河湾の海に注ぎます。

※狩野川にかかる「あゆみ橋」より。奥が伊豆方面。(静岡県沼津市)
そして武田勝頼は、伊豆地方の後北条氏と戦っていたため、
という位置関係にあったため、仮にもし伊豆方面にいる後北条氏が沼津まで攻めてきても、狩野川が自然のバリアーを果たしてくれたというわけです。
歴史的に「自然のバリアー」としての役割を果たしてきた川
昔から、川は「自然のバリアー」としての役割を果たしてきたため、
- 「川のそば」
- 「川に囲まれた場所」
- 「小高い山の上」
などには「お城」が築かれやすかったのです。
そのお城の多くは、江戸時代の「一国一城令」により、各地の軍事力を削ぐために廃止されました。
しかし今でも、全国各地の「川に囲まれた場所」「高い山の上」には「城跡」が多く残っています。

狩野川。西側が伊豆方面。中央の橋は、かつて大正天皇が沼津御用邸(ごようてい)へ向かわれる時に通られた「御成橋(おなりばし)」。(静岡県沼津市)
戦国時代、武田勝頼が築いた「三枚橋城」
当時甲斐・山梨にいた武田勝頼は、父の武田信玄が亡くなってからは、一気に勢力を失っていたのでした。
さらに、後北条氏のいる相模(神奈川県西部)などの周辺地域とも次々に関係が悪化してゆき、ピンチに陥っていました。
伊豆・相模地域を支配していた一族・後北条氏
後北条氏は、戦国時代に伊豆・相模地域を支配していた一族です。
鎌倉時代の執権・北条氏とはまったく関係ありませんが、この北条氏のネームバリューが高かったので、「北条氏」を名乗ったことがはじまりです。
鎌倉時代の北条氏と区別するため、便宜的に「後北条氏」というわけです。
千本浜海岸での戦い
武田勝頼は弱った勢力を立て直すため、後北条氏の待ち受ける関東地方や伊豆地方にも攻めまくっていました。
そして伊豆半島に拠点を構えて待ち受ける後北条氏と戦う拠点を築くため、この狩野川ほとりの地に三枚橋城を築いたのでした。
沼津の駿河湾に面した千本浜海岸では、
で、激しいバトルが繰り広げられました。
そして千本浜海岸では、戦いで多くの兵士たちが討ち死にしてしまい、多くの人骨が発見されてきたといいます。

千本浜海岸(静岡県沼津市)
千本浜(千本松原)については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

アニメの舞台・内浦でも、かつては武田 VS 後北条の戦いが行われた
武田勝頼の内浦湾での戦いについては、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

武田氏の連敗・衰退
しかし武田勝頼は、次々に敗退を繰り返してゆきます。
それは、甲斐国の農民たちから税金を搾り取り、軍事費を集めることが最優先の政治を行っていったため、甲斐・山梨の民たちからはそっぽ向かれ、信頼を失い、勝頼を裏切る人たちが続出していったのです。
現在は飯田線の通る長野県の伊那地方でも、武田勝頼は次々に敗戦してゆき、仲間にも裏切られてゆきました。
1582年、(織田信長により)武田氏の滅亡
このように、沼津の地に初めて三枚橋城を築いた武田勝頼は、味方の裏切りなどが相次いだことで次々に敗退してゆき、しまいには山梨県の天目山で悲劇の自害に追い込まれています。
武田勝頼の天目山での敗北については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

1590年、(豊臣秀吉により)後北条氏も滅亡
その後、後北条氏も、1590年に豊臣秀吉によって本拠地の小田原城(神奈川県小田原市)を攻められてしまい、滅亡してしまっています。
この後北条氏が滅亡したことにより、豊臣秀吉は天下統一を達成したのでした。
今回はここまで 続きは次回
さて、今回は三枚橋城と武田勝頼・後北条氏の歴史などを中心に解説してきました。
次回は、江戸時代の沼津城・沼津藩の歴史などを中心に解説してゆきます!
今回はここまでです!
お疲れさまでした!
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