東北・日本海側の旅1 奥羽本線・青森→弘前 青森県の歴史を探る

東北地方・日本海側の旅へ!まずは青森駅からスタート

今回からは、青森→新潟まで、東北地方の日本海側に沿って進むというシリーズをはじめてゆきたいと思います。
途中、とても日本海の景色がきれいな五能線(ごのうせん)を経由します。

羽越本線・日本海の景色

五能線の次は、羽越本線(うえつほんせん)を利用して、新潟方面へと向かいます。

ゴールは一応、新潟県新潟市の新潟駅にしたいと思います。
なお新潟県は東北地方ではなく中部地方であることを、混乱なきようあらかじめおことわりしておきます。

青森駅から、川部・弘前へ

スタート地点は、青森駅(あおもりえき、青森県青森市)とします。

青森駅(青森県青森市)

ここから、奥羽本線(おううほんせん)に沿って西へ進み、川辺駅(かわべえき)からは、五能線(ごのうせん)に沿って進みます。しかしその前に、弘前駅(ひろさきえき、青森県弘前市)に寄り道をします。

青森駅は、いわゆる「スイッチバック形式」の駅になっています。
つまり、一旦先頭から突っ込んでからバックするという「」の字の型をした駅になります。
これは、昔は青函連絡船(せいかんれんらくせん)によって、列車ごと船に載せて北海道へ向かっていたので、海の方向へ伸びているのですね。

青森の海。右側が北海道・函館。(青森県青森市)
青函連絡船「八甲田丸」(青森県青森市)

青函連絡船(せいかんれんらくせん)とは、1988年まで船に列車ごと載せて北海道まで運んでいた船です。
(せい)は青森(かん)は函館のことです。

青函連絡船についての詳細は、以下の記事でも分かりやすく解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第41番 津軽海峡と青函連絡船・青函トンネル 函館はすぐ近くに

むつのくに「青森県」

青森の海。海の向こう側は北海道。(青森県青森市)

青森県は、奈良時代に定められた律令制(りつりょうせい)においては「陸奥国(むつのくに)」という呼び方でした。
現代でも下北半島の「むつ市」にその名前がありますね。

陸前国(りくぜんのくに):宮城県
陸中国(りくちゅうのくに):岩手県
陸奥国(むつのくに):青森県

ちなみに陸後(りくご)とはいいません陸奥むつ)といいます。

太宰治の小説「津軽」によれば、
「みちのく」→「むつのくに」→陸奥国
となったようです。
「むつ」は「みち」の昔の地元の発音だそうです。

これら3つの「陸」を合わせて、「三陸(さんりく)」というわけです。

ただし岩手県陸前高田市(りくぜんたかたし)のように、岩手県にも「陸前」の領域があるなど、例外はありますので注意しましょう。

江戸時代までは、青森県の中心地は弘前藩(ひろさきはん)、つまり現在の弘前市(ひろさきし)でした。
そして明治時代には、県庁所在地が「青森市」となり、青森市が新しい青森の中心地となりました
つまり、明治時代になって弘前から青森市へと中心都市が変わったわけです。

これは、明治時代になって東京~北海道の移動需要が急増したために、その中継地点として、青森市の位置によりよい港(青森港)を築く必要があったためですね。

明治時代に東京~北海道の移動需要が急増した理由は、まだ日本の一部になったばかりだった北海道を急ピッチで強い土地にする必要があり、土地を耕したり石炭を掘り出したりする「開拓」の必要があったからです。詳しくは以下の記事(白河や郡山のあたり)でも解説していますので、ご覧ください

冬の【東京→北海道】鉄道旅3 新白河を出て、郡山方面へ

「青森」の由来 昔本当に「青い森」があった!?

青森の海(青森県青森市)

青森」の由来は、かつて青森市あたりに本当に存在したとされる「青い森」に由来します。

明治時代になって、北海道との移動需要急激に増加しました。それは先述の通り、北海道をとにかく強い土地にして、またエネルギーの源となる石炭を大量に掘り出すなどの「開拓」のためです。

そのため、津軽海峡・陸奥湾(むつわん)を行き交うたくさんの船たちにとって、青森港に到着するための目印が必要でした。

そこで、まさにその目印になったのが、当時青森市にまさしく存在したらしい「青い森」だったそうです。
これこそが「青森」の県名の由来になりました。
そして現代では、その「青い森」は存在しないようです

江戸時代までは、弘前藩(ひろさきはん)の方が青森県(津軽地方)の中で一番栄えた街でした。
弘前(ひろさき)は現在の青森県に該当する弘前藩津軽藩とも)の拠点だったため、まあ当たり前かもしれません。
しかし明治時代に「青森県」が発足し、県庁が青森市に指定されてからは、青森市が県の中心として発展していくこととなりました。

なお、函館がある地域を渡島(おしま)というのですが、かつては「わたりしま」といっていました。これは津軽海峡を渡って着いた先にある島だと思われていたため、「わたりしま」→「渡島(おしま)」になり、現代の渡島総合振興局(おしまそうごうしんこうきょく)の由来になっています。

青森の歴史! かなり激動の時代だった

青森・海の景色(青森県青森市)

青森県の歴史は教科書でもあまり習う機会がないため(太宰治も小説「津軽」の中で、そう述べられています)、なかなか知る・学ぶ機会がないのですが、よくよく調べてみたらかなり激動の歴史を歩んでいることがわかります。

まずは三内丸山遺跡(さんだいまるやまいせき)や亀ケ岡遺跡(かめがおかいせき)などからは、昔の人々が使っていた縄文時代の土器や集落などが発見されています。
このことから、大昔から青森の地域には既に人が住んでいた・暮らしていたことがわかります。

しかも弥生時代には稲作も行われていたことが、県内にあるさまざまな遺跡からわかっているようです。
米は基本的には寒い地域では育たず、北海道では稲作は長年にわたって行われていませんでした(現代では品種改良により、北海道でも全国2位規模で稲作が盛んです)。
しかし青森では、かろうじて稲作がされていたもようです。「だから何?」と思うかもしれませんが、これはとても重要なことです。
稲作が始まると、たくさんの人で共同して田んぼで仕事をするため、「ムラ」という集落・共同体ができます。すると「貧富の差」ができてしまいます。そうなると「うまくお米が作れた人(ムラ)」と「お米が全然育てられなかった人(ムラ)」との間で不公平争いが生まれてしまいます。つまり、ムラ同士で「(稲作に適した)よい土地をめぐる争い」がおきてしまうのです。

こうして本州では争いに満ちた、豪族や強大な大王(おおきみ)らが支配する古墳時代に突入します。乱暴な言い方かもしれませんが、「稲作の始まり」=「人類の争いの始まり」といっても過言ではないのです。

平安時代までは、朝廷に逆らい続ける「蝦夷」たちの国だった

平安時代の青森は蝦夷(えみし)などが蔓延(はびこ)る地域であり、京都にある朝廷(=天皇や貴族らが、朝の時間帯に政治のお仕事をするところ。一週間毎朝働いて、午後はお休み・歌遊びをして過ごす)とずっと対立していました。

そのため、平安時代には朝廷が坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)や源頼義(よりよし)・義家(よしいえ)といった武士を東北地方に派遣し、「前九年の役」などの争いが起きていました。

坂上田村麻呂については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第34番 奥州市、花巻市などを過ぎ、やがて盛岡に到着

前九年の役後三年の役については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第33番 平泉に到着! 金色堂、安倍氏、奥州藤原氏など戦いや栄華の歴史

こうして平安時代はずっと朝廷と東北・蝦夷は対立していたわけですが、それも平安の終わりに近づくにつれ、終焉を迎えます。1189年に岩手県・平泉にいた奥州藤原氏源頼朝によって滅ぼされると、鎌倉時代へと入ります。
そしてようやく、朝廷に逆らい続けてきた青森の地は、朝廷や幕府の管轄内に入り、なかば日本からは孤立していた東北地方もはれて日本の一員となるのです

安藤氏から始まる、中世の青森

鎌倉時代になると青森県の支配は、安藤氏(あんどうし)という一族が、鎌倉幕府から任命されました。
安藤氏は鎌倉幕府からの信任を受けて、下北半島(しもきたはんとう)や津軽半島、そして蝦夷地(北海道)の海沿いエリアあたりを支配してゆくことになりました。

そして後述するように、津軽半島の日本海側の沿岸に十三湊(とさみなと)という港町をつくり、船での商売によって大儲けし、安藤氏は発展していくことになるのです。

室町時代には海運業で栄えた青森 アイヌ民族との交流も

室町時代中期にかけて、青森は津軽海峡を通じた、北海道(蝦夷地)との荷物交換・物々交換(交易)で栄えました。
つまり船で、北海道にいるアイヌ民族と、たくさんの荷物を売ったり買ったりして儲けていくわけです。
特に、十三湖(じゅうさんこ)の近くに築かれた港である十三湊(とさみなと)の周りには、大きな港町が形成されてゆきました。つまり船に荷物を積んだり下ろしたり、船人たちが休憩・宿泊・食事をするために、港町は栄えていくことになります。

アイヌ民族との交流も盛んになり、北海道でしか採れない魚・毛皮などや、本州でしか作れないお米・食器などを交換してきたのでした。
当時の蝦夷地は、後に松前氏(まつまえし)となる蠣崎氏(かきざきし)が、本州人(和人)の代表として蝦夷地とアイヌ民族を管轄していました。

しかしその物々交換の交換レートは、アイヌ民族にとっては不利な条件だったので(つまりアイヌ側が損して、本州側が一方的に儲かるという状態)、アイヌ民族からの不満・怒りを買い、1457年に起きた「コシャマインの戦い」などの反乱を起こされてばかりていました。

話を戻しますが、津軽を支配していた安藤氏は、このようにして「船を使った商売」において儲けまくり、どんどん勢いをましてゆき、鎌倉時代には青森県でとてもイケイケ状態でした。

ところが鎌倉時代の末期になって、安藤氏の一族では「内輪揉め」が起きてしまい、喧嘩・ライバル蹴落としが優先になり肝心の政治・仕事が疎かになり、さらには蝦夷(→アイヌ民族のことだと考えられています)を巻き込む大きな戦争にってしまったため、これにより津軽安藤氏は勢力をどんどん後退させてゆくことになりました。
これを津軽大乱または安藤氏の乱といいます。

この後の青森県は、後に盛岡藩(もりおかはん)を支配することになる南部氏(なんぶし)が表に出てくることになるのです。

室町時代の青森県 津軽と南部の登場

室町時代の南北朝時代(なんぼくちょうじだい)がくると、安藤氏は足利尊氏の北朝(ほくちょう)側につくことになります。
一方、新しく出てきた南部氏(なんぶし)は後醍醐天皇の南朝(なんちょう)側についたため、ここで対立したのでした。
結果的に安藤氏は、南部氏との争いに敗れたため、安藤氏は蝦夷地(北海道)に追放されてしまい、ここからは南部氏の時代が到来することになります。

南北朝時代とは、足利尊氏と後醍醐天皇の対立によって起きた、歴史上稀にみる「二つの朝廷があった時代」です。朝廷は、基本的にどの時代も一つです
現代で例えると、東京と大阪にそれぞれ対立する皇居が存在していて、しかもお互いに争うというカオスな状況です。
それが実際におこっていたのが、南北朝時代というわけです。

足利尊氏は自分と対立する後醍醐天皇を、奈良県の南にある「吉野」という地域に追い払ったわけですが、こちらを「南朝」といいます。
そしてどちらの朝廷も「自分たちの正統性」を主張しました。つまり「あっちは偽物だ!」と言い争っているという具合です。
この南北朝の動乱は約60年続きましたが、室町三代将軍・足利義満(よしみつ)によって統一されることになります。

この「南北朝の戦い」では南部氏が安藤氏に勝利し、負けた安藤氏は北海道へと追放されてしまいました。

こうして新たに青森の支配者になった南部氏(なんぶし)は、それまでの安藤氏のように海上交易(アイヌ民族との交易など)にはあまり力を入れることはありませんでした。
そのため、安藤氏が鎌倉時代にかけて必死になって繁栄させてきた港町は、衰退してしまいました。

戦国時代、南部氏の勢いと天下

室町時代の15世紀半ばに、それまで青森のトップだった安藤氏を駆逐・追放した南部氏は、大きく勢力を拡大してゆきます。
南部氏は、戦国時代の16世紀半ばには、津軽(つがる)・下北(しもきた)・糠部(ぬかのぶ)といった、ほぼ青森県の全域(むしろ、下手したら岩手県にもおよぶ地域)の広い領土を、次々に支配してゆくのです。

下北(しもきた)とは、青森県北東にある下北半島(しもきたはんとう)のエリアです。

糠部(ぬかのぶ)は、青森県南東の岩手県に程近い、三戸町(さんのへまち)を中心とするエリアです。
糠部郡は、一戸(いちのへ)~九戸(くのへ)という具合に、細かいエリアで分けられているのが特徴です。最も大きい都市は八戸市(はちのへし)です。ちなみに四戸(よんのへ)は存在しせん

このように戦国時代の青森は、安藤氏にかわって南部氏の天下(支配下)だったわけです。
しかしこれも、後に津軽氏に天下を奪われてしまいます

江戸時代になる前に、津軽氏の裏切りで南部氏の領域は次々に占領されてゆきます。津軽氏は、元々は南部氏の一員でした。
やがて南部氏は、南の岩手県・盛岡へと追いやらてしまうわけです。というよりは、三戸(さんのへ)の地域よりも盛岡の方がより都会的で、より統治に適していたものと思われます。
そしてこれこそが、江戸時代の盛岡藩(南部藩)の誕生となります。

話を戻しますが、戦国時代の南部氏の天下の様子は、

三日月の丸くなるまで南部領

とまで讃(たた)えられたのでした。

これは、南部氏が支配する領域があまりに広いために、広い南部領の中をずっと進んでいくうちに、三日月が丸くなって満月になってしまう、という意味の例えです。

つまりそれだけ、南部氏の支配する領域が広かったということです。

戦国時代の終わり、津軽氏の裏切り・南部氏の衰退

このように、室町時代までの青森県は南部氏の天下でした。
しかし戦国時代の16世紀後半になると、それが瓦解(がかい)してしまいます。
それは津軽氏によって、新たに天下を奪われてしまうからです。

南部氏の一族の一人だった大浦為信(おおうら ためのぶ)、つまり後の津軽為信(つがら ためのぶ)が、南部氏の持っていたお城を次々に攻めてゆき、落としてしまいます
津軽氏のこの行為は、南部氏にとってはある意味では「裏切り」行為です。
これでは、南部氏にとってはたまったものではありません。

津軽氏はさらにその勢いで、津軽地方・津軽半島北端の外ヶ浜(そとがはま)、そして青森県南東の糠部(ぬかのぶ)の一部までをも次々に支配していったのです。
つまり南部氏の持っていた土地を、ほとんどすべて奪ったという形になります。
津軽氏は南部氏の気持ちを無視して、もはやイケイケのやりたい放題です。
さすが「強い者が勝ち」で「下克上」の戦国時代といった感じですね。
戦国時代は勝った者が正義(勝てば官軍)という実力主義の世界のため、負けた側にとっては理不尽であっても、これも仕方ありません。

津軽氏の勢力拡大、弘前城をつくる

こうして武力を背景に、青森県全土に勢力を拡大していった津軽為信(ためのぶ)は、その後に弘前城(ひろさきじょう)の築城へととりかかります。
これは江戸時代から始まる弘前藩(ひろさきはん)のベース作りです。

弘前城(青森県弘前市)

まずは弘前城の周辺へ城下町を建設してゆき、町に住む人々と「武士という公務員」らが暮らしていけるような、現代にも通用するような町の仕組みを整えてゆくことになります。

わかりやすくいえば、弘前城は「弘前市役所」であり、弘前城で働く武士たちは「市役所職員」です。

これは町の住民が「役所(弘前城)」に税金(年貢など)を納めて、公務員(武士)が働けるような地方自治の仕組みと同じともいえます。

こうして津軽為信は、弘前藩の基礎をどんどん造り上げてゆきました。

そして津軽為信は、羽州街道(うしゅうかいどう)という当時としては綺麗・広い・歩きやすい道路を整備してゆき、また岩木川(いわきがわ)の整備などを次々行ってゆきます。つまり、今でいう「インフラ整備」を次々に行っていくのでした。

羽州街道(うしゅうかいどう)は、昔の人々が徒歩または馬で、約20日かけて江戸へ移動・旅をするための(当時としては)新しくて綺麗な道路です。
こうした街道は、参勤交代のときに大名さまたちが江戸へ旅するときにも必要だった道路です。

羽州街道は、青森県から南下して山形県に入り、蔵王(ざおう)の山から福島県の桑折(こおり)で、奥州街道(おうしゃうかいどう)と合流します。奥州街道に入ってからはひたすら南下し、栃木県(宇都宮宿など)・埼玉県(浦和宿など)と南下してゆき、江戸(東京)に至っていました。

岩木川(いわきがわ)は、現在も弘前市を流れる川です。
川の整備は、例えば「洪水を防止するための堤防作り」を行ったり、またゴツゴツした自然の川を削って、舟が通りやすいように水路を整えることてす。

津軽氏は、一部例外はありますが、多くの人の名前に「(のぶ)」がつきます。
これを「通字(とおりじ)」といいます。例えば徳川家では名前に「家」がつく人が多いのと同じで、偉大な先祖(例えば「為」や「康」など)に影響を受けたい(尊敬したい)という意味で、この「通字」は子孫へと継承されていったのでした。

江戸時代、関ヶ原の戦い以降

1600年に起きた「関ヶ原の戦い」において、津軽氏は徳川家の味方である「東軍」につきました。
このときの活躍が徳川家から評価され、津軽氏は江戸時代を通して幕府からは優遇されていくことになるのです。
そしてこのことが、南部氏から不満を持たれる理由ともなっていきました。

江戸時代の青森県は、
北西部津軽藩(津軽氏)※正式名称は弘前藩
南東部盛岡藩(南部氏)

の領地となっていました。そして、後述の通り両者の境目(国境)はあいまいであり、そのために争いがしばしば起きていました。

弘前藩・盛岡藩の二つの藩の境目(境界線)は、青森県の北東にあたる青い森鉄道・野辺地駅(のへじえき)のやや西、青い森鉄道・狩場沢駅(かりばさわえき)のあたりに、その境界線がありました。
つまり、現在の平内町(ひらないまち)から野辺地町(のへじ)の間に、その境界線があったことにあたります。

津軽藩・盛岡藩との境界線で起きた、両者の争い

しかし、上記の境界線はあまり明確ではなく、両者でいつも「ここはうちの領土だ!」という言い争いが起こる要因にもなっていました。そしてこの小さな言い争いから、弘前藩と盛岡藩のあいだで、しばしば大きな紛争に発展したりもしました。

先述の通り、南部氏は津軽氏から領土を奪われる形で、青森県の多くの領土の支配を許してしまっています。そのとき、かつて津軽地方の「たくさんの作物が採れやすい穀倉地帯」までもが奪われてしまっていたため、南部氏は津軽氏にかなり恨みを抱いていたことがわかります。そのため、ほんの小さな出来事がきっかけで、両者で争いが起こるようになっていました。

その両者の争いの代表例の一つに、檜山騒動(ひのきやまそうどう)とよばれるものがあります。

檜山騒動(ひのきやまそうどう)は、文字通りヒノキの山の利権をめぐって津軽藩と盛岡藩が争った事件です。
江戸時代に、徳川幕府が津軽藩・盛岡藩のそれぞれに「ヒノキの木材が必要だから、幕府に献上するように」と命令してきたため、これに対して盛岡藩は、藩の人々に余計な負担をかけさせないためにも「余分なヒノキはありません。だから何も差し上げられません」と返答しました。

しかしそのために、津軽藩は余分に多くのヒノキを幕府に徴収されてしまい、甚大な経済損失が出てしまいました。

不満を持った津軽藩は、境界があいまいだった盛岡藩の領域のヒノキ山に侵入して、勝手にヒノキを伐採してしまいました。その理由というのが、

盛岡藩にヒノキがないのなら、このヒノキ山はぜんぶうち(津軽藩)のものだ!
という理由をつけて、ヒノキ山を盛岡藩から奪ったのでした。

このように、津軽藩・盛岡藩の国境(境界線)では常にピリピリしており、いつ争いが勃発してもおかしくないような地域だったのです。

こうした形で南部氏には津軽氏に対する遺恨が残り、江戸時代の後半に、盛岡でついにその怒りが爆発してしまう相馬大作事件(そうまだいさくじけん)が起きます。

相馬大作事件は、江戸から参勤交代で青森まで帰ってくる途中だった津軽藩の武士を、南部藩(盛岡藩)の相馬大作(そうま だいさく)を名乗る武士(本名ではない)が、岩手県・盛岡の地で待ち構えていました。
そして相馬大作が、津軽藩の武士を暗殺しようとしたのでした(未遂)。これがわゆる相馬大作事件(そうまだいさくじけん)とよばれるものです。

江戸時代の青森と、アイヌの交易

江戸時代、青森県の各地は「本州アイヌ」たちの居住地にもなっていました。

アイヌ民族は「北海道がメイン」だと思われがちですが、実は北海道のみならず、北海道のはるか東北の千島列島・カムチャッカ半島や、また樺太(サハリン)、そして青森県などにもアイヌ民族は広く住んでいたのです。

なのでアイヌ民族のなかには「千島アイヌ」「樺太アイヌ」と呼ばれる人たちもいたのでした。
しかし現代では、それらのアイヌ語や文化はほぼ絶滅してしまっています。

青森県には、野辺地(のへじ)・平内(ひらない)・今別(いまべつ)・竜飛岬(たっぴみさき)などのように、アイヌ語由来の地名も見られます。

江戸時代後期になると、アイヌ民族が住んでいた地域への和人(日本人)の進出が、かなり顕著になってゆきます。
それは先述の通り、江戸時代後半~明治時代にかけて、北海道(蝦夷地)の開発・防衛・探検・開拓などの目的で、江戸(東京)~北海道をゆきかう人たちが増えたことにあります。その途中で、青森の地へやってくる和人(日本人)も増えたというわけです。

こうして江戸後期になるとともに、青森へと移住してくる日本人が増えたことになります。
こうして日本人と青森のアイヌ民族が結婚してゆき、交わってゆくことで日本人との同化(どうか)が進み、アイヌ民族の血は薄くなってゆくことになりました。

幕末・戊辰戦争のときの青森

幕末の戊辰戦争(ぼしんせんそう)になると、弘前藩・盛岡藩ともに、当初は旧幕府軍の味方である奥羽列藩同盟(おううれっぱんどうめい)に属していました。
戊辰戦争(ぼしんせんそう)は、明治新政府に納得がいかなくて抵抗しようとする旧幕府軍と、それを追いかけて倒そうとする明治新政府軍(官軍)の戦いです。

奥羽列藩同盟とは、東北地方の藩たちが団結して、新政府軍に抵抗しようとしたグループ(同盟)です。
しかし同盟側の方が不利であり、新政府軍側についた方が勝ち目があったため、本当は新政府軍側につきたくて嫌がる東北地方の藩を、なかば無理やり同盟の仲間に入れたりしていました。

基本的には新政府軍(官軍)の方が有利であり、旧幕府軍は不利で、次々に敗れて北へ北へと追い詰められました。
最終的には函館の五稜郭(ごりょうかく)で、土方歳三(ひじかた としぞう)率いる新撰組(しんせんぐみ)が降伏したことで、戊辰戦争は終了し、明治時代の到来となりました。

この戊辰戦争ですが、途中で弘前藩は官軍(かんぐん)に寝返り(裏切り)ました。つまり、新政府の味方について戦ったわけです。
しかし盛岡藩は、同盟を裏切ることなく不利な戦いを強いられたため、むなしくも負けてしまいました。

このように盛岡藩(南部氏)は江戸時代を通じて、津軽氏と比べて不遇な扱いを受けたわけです。
津軽氏からは江戸の始めに裏切られた領土を奪われ、幕末に戊辰戦争で裏切り、そのおかけで盛岡藩は全体を通じてかなり不遇な感じとなりました。

しかし盛岡藩が明治新政府に降伏した後、津軽藩がさらに野辺地(のへじ)に攻めてきて、盛岡藩とまた戦争になっています。
この野辺地戦争(のへじせんそう)において盛岡藩は津軽藩に勝利していますので、盛岡藩は津軽藩にやられたばかりではなく、一矢報(いっしむく)いた形にはなっています。

津軽藩の拠点・弘前

青森駅から奥羽本線で新青森駅を南西に進み、津軽地方へと出てきます。

津軽富士・岩木山(青森県)

そして五能線(ごのうせん)との分岐駅・川部駅(かわべえき)からは、奥羽本線をまっすぐに進み、弘前(ひろさき)へと寄り道します。

弘前駅(青森県弘前市)

青森県弘前市(ひろさきし)は、もうここまで何度も解説してきたのでおわかりだと思いますが、元々は弘前藩(津軽藩)の拠点でした。
(はん)とは、江戸時代におけるエリア分けのことであり、当時は実に300もの藩がありました。
現代では47都道府県のため、300もの藩というのはかなり多かったわけですね。
なので「藩」とは、現代でいう「都道府県」よりも、むしろ「市」のニュアンスに近かったのかもしれません。

弘前城跡(青森県弘前市)

江戸時代までの青森(津軽地方)は、先述の通り「十三湊(とさみなと)」を通じて、蝦夷地(えぞち)の松前藩(まつまえはん)とも交易をやりとりしていたのです。
そこを通じて、蝦夷地のアイヌ民族とも交流していたことは、ここまでも述べてきた通りです。

弘前については、以下の記事もご覧ください。

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第42番 弘前や津軽地方へ寄り道 五能線や津軽鉄道にも乗ってみよう

格闘ゲームの神・ウメハラさんの出身地・弘前市

弘前市は、今や「格闘ゲームの神様」として知られる梅原大吾(うめはら だいご)さん、通称:ウメハラさんの出身地でもあります。

ウメハラさんは、7歳までは青森県弘前市で過ごし、その後ご両親の転勤の都合で東京にやってきました。
そして都内のゲームセンターで、まだ中学生にも関わらず年上・大人のプレイヤー達を相手に次々に勝利してゆき、あっという間に「日本一強い格闘ゲーマー」になりました。
そして10代の頃は、負けることを知らない天才的プレイヤーとして、また「ありえないような、奇跡的な逆転劇」などを披露したりして、海外にも広く知られるようになりました。

しかし学校での勉強を疎(おろそ)かにしてまでゲームセンターに通い詰めたため、次第にクラスメイトとは(「受験」「進学」「就職」などの話題などで)次第に話が合わなくなり、学校では徐々に孤立していったといいます
また、学業を疎かにしたせいか定職にも就くことはなく、卒業後にはフリーターとしてアルバイトを繰り返すも、どの仕事もほとんど務まらずにクビになったり自分から辞めたりを繰り返したため、ややうつ病気味になり、将来や人生に絶望してしまい、「学生時代にゲームばかりに熱中して、勉強をろくにしてこなかったこと」を後悔したといいます。

しかしウメハラさんは、格闘ゲームの戦いにおいて、日本・海外を問わず数多くの戦いで優勝してきました
もっとも稼いだプロゲーマーとして、ギネスブック認定もされています。

そんな数々の実績が評価されて、2010年に晴れて「プロゲーマー」という、自身にとって人生初の「天職」を手に入れることになります。
これは「スポンサーとなる企業からお金をもらって、格闘ゲームをプレーする」という形でした。
そしてこれが今や珍しくなくなった、いわゆる「プロゲーマー」の先駆け的存在でもあります

一見すると「お金をもらいながらゲームできるなんて羨ましい」と思うかもしれませんが、決してそんなに甘いものではなく、むしろウメハラさんは企業や世の中からの期待や責任に「重圧」を感じ、1日に18時間くらいずーっとゲームの練習を続けてしまい、体を壊してしまったといいます。
この反省から、ウメハラさんは「1日1つだけ強くなる」という教訓を得ることになるのです。
たとえ1日5分の練習であっても、昨日の自分よりも、何か一つ身に付いていればいい。
以前の自分よりも、今日の自分の方が優れていれば、それは幸せなことなんだと気づくのです。

ウメハラさんが成功できた秘訣は、やはりそのお父さんの教えにあります。
それは
自分が好きなこと・夢中になれることに、死ぬほど打ち込め
という教えです。

あなたも、もし人生に何か行き詰まりを感じていたとしたら、
苦手なことはやらない(むしろ逃げる)
好きなこと・得意なことに全力で命懸けで打ち込む

ことを徹底しましょう!

ウメハラさんの考え方は、ゲームのみならず、ビジネス・仕事・勉強などにも十分に通用します

まずは、何か一つ、なんでもいいので、これだったら全力で打ち込める大好きなもなものを見つけることです。

勉強・スポーツ・あやとり・射撃(のび太)・ゲーム・音楽・楽器・歌・漫画・イラスト・プログラミング・AI・動画編集・YouTuber・IT・クラウド・小説・ライティング歴史・経済・・・

何でもいいです。自分の好きなことであれば、その事だけは地球上の誰にも負けない人間になる。そのために、迷わずそこに向かって努力するのです。

あなたも、ウメハラさんのポリシーである
1日1つだけ強くなる
好きなことに全力で打ち込む

ことを実践していきましょう。
きっと人生変わるはずです

川部駅からは、五能線へ

川部駅からは、五能線(ごのうせん)に入ります。次回からは、五能線の旅にはいってゆきます!

今回はここまでです。

お疲れ様でした!

【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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