五能線・川部~五所川原の鉄道旅と、津軽地方・津軽鉄道の観光などについて、初心者の方にも、わかりやすく解説してゆきます!
川部駅からは五能線で、五所川原方面へ
今回からは、川部駅(青森県南津軽郡田舎館村)から、
- 五能線
での旅になります。
まずは五所川原駅(青森県五所川原市)方面へと向かってゆきます。
「五能線」の由来
まず、五能線とは、
- 五所川原
- 秋田県の能代市
を結ぶ路線という意味の路線です。
- 五所川原
- 能代
の頭文字をそれぞれ取って、五能線になります。
しかし実際には、始点は五所川原駅ではなく、少し南(弘前寄り)の川部駅がスタートとなっています。
ここは最初は慣れるまでちょっとわかりにくいため、注意しましょう。
リンゴ畑と、津軽富士・岩木山
さっそく川部駅を北上すると、ここからは辺り一面がリンゴ畑となり、リンゴの名産地となります。
青森県は、リンゴの生産量が日本一てす。

岩木山(津軽富士)(青森県)
窓の左側には、津軽富士こと岩木山がそびえ立ちます。
青森県最高峰・岩木山(津軽富士)
岩木山(標高1,625m)は、青森県最高峰の山です。
つまり、青森県で一番高い山ということになります。
ちなみに二番目は、青森市の南にある八甲田山であり、標高は岩木山より少し低い1,584mになります。
岩木山はまるで富士山のような形をしており、長い裾を持つので、津軽富士とも呼ばれます。
太宰治「津軽」でも言及された津軽富士
また、今回・次回とメインで紹介する、津軽出身の偉大な小説家・太宰治は、自身の小説「富嶽百景」において、静岡県・山梨県の富士山を結構ディスっていたのでした。
また、小説「津軽」において津軽富士についても(富士山ほどではなく、多少は岩木山を褒めてはいるものの)、やはり軽妙なディスをかましてくれています(^^;
というか、「津軽」では津軽各地へのディスがあちこちに見受けられるわけですが、まぁ、太宰治は精神的に弱かったこともあり、大目に見てあげましょう(^^;
もちろん太宰治本人も、小説の中で
などのように、ちゃんと各地に失礼のないようにフォローを入れています。
富嶽百景については、以下の記事においても少し触れていますので、ご覧ください。

五能線の歴史 真っ直ぐな線路になるはずだった!?
五能線の建設が始まったのは、大正時代の1917年の頃でした。
当時はまだ自動車が一般的ではなかったので、人々はどこへ行くにも鉄道が必要だった、という時期でした。
建設をはじめた1917年は、ヨーロッパでは第一次世界大戦が起きていた時期です。
「大戦景気」
この第一次世界大戦によって、日本の製品が(戦争で疲弊し物資欠乏だった)ヨーロッパ諸国に対して飛ぶように売れたため、「大戦景気」が起こっていました。
しかし好景気になって世の中が裕福になると、多少値段を上げたとしても人々はモノを買ってくれるようになります。
そのためインフレーション(物価上昇)が起こります。
というか、好景気では人々がたくさん買い物をするため、商品の数が減ってしまい、
- 買いたいという「需要」が、販売するという「供給」を上回ってしまう
ということがおこります。
そのため、値段を上げざるを得なくなります。
こうしてインフレが起こります。
インフレにより、線路建設の資材などが高騰
この第一次世界大戦がもたらしたインフレにより、線路建設のための部品や資材などの値段が高騰してしまったのでした。
そのため、なかなか資材調達がままならず、建設工事もなかなか進まなかったといいます。
平坦な平野の工事 当初は「楽勝」と思われていた
しかも建設の当初は、
と思われていました。
例えば、もしこれが険しい山奥の線路建設だったら、クマやヤブカらと戦いながら、山を切り開いていかなければならりません。
そうなると、線路建設はとても大変になってしまいます。
しかしながら、五能線の
の区間は、津軽半島のおだやかな平野地帯となります。
先述の通り、岩木山(津軽富士)の眺めも素晴らしいです。
だからこそ、線路建設にはちょっと楽観的で、建設者たちの間では「楽勝ムード」が漂っていたわけです。
しかし当時の建設リーダーが「土木の素人だった」となどという問題があり、専門的知識が欠けた状態での建設工事だったため、ミスや「やり直し」などが連発したりして、線路建設のスケジュールは遅れる一方だったのでした。
橋をかける工事にも時間がかかり、遅れてしまった
また、途中にたくさんある用水路に対し「橋をかける」ための工事にも時間がかかったりして、これもスケジュールを遅延させる原因となってしまいました。ちなみに用水路というのは、恐らくですが
- 津軽地方は、たくさんの作物が採れる穀倉地帯のため、
- 田畑に水を引っ張ってくるための用水路が、あちこちに張り巡らされていた
ものと思われます(あくまで筆者の推測)。
そしていざ線路を引く時に、この用水路が邪魔をしてしまい、たくさんの橋をかける工事に追われてしまい、時間が余計にかかったものと思われます。
その用水路は今もあるのかわかりませんが、わかり次第追って報告します(すみません・・・)。
このように、とても線路建設に時間がかかった結果、当初の楽観値とは裏腹に、線路建設は遅々として思うように進まなかったようです。
貨車不足で荷物が運べず
しかも、やっとの思いで線路が完成したとき、川部駅で接続している奥羽本線を行き交う列車に貨車を取られてしまっていたのでした。
貨車:荷物を載せるための車両です。単独では動けず、機関車に引っ張られて動く車両です。
そのため、五能線に対して、なかなか貨車が配置されないという問題が起こっていました。
人口増加がすごかった大正時代
というのも、当時は人口増加の影響もあってか奥羽本線の需要がかなり伸びており、貨車を五能線に回す充分な余裕がなかったのです。
大正時代は年間180万人誕生するほどの「多子化(少子化の逆)」の時代であり、日本の人口がどんどん増加している時代でした(津軽出身の太宰治も、この頃はまだ幼少期でした)。
自動車が無くて貨物列車が主流の当時 しかし「貨車」が足りず
しかも当時は、まだ自動車が一般的ではありませんでした。
なので当時の鉄道の需要は、とにかく大きかったのです。
今のように自動車がないため、人々はどこに行くにも鉄道が必要だったわけです。
そして、人々が増えると、貨物列車で運ぶ荷物の量も増加することになります。
そんな中、先述の通り奥羽本線はとにかく荷物を載せるための「貨車」がパンクしており、当初はなかなか五能線に貨車を回すことができなかったのです。
地元の金持ちたちによって作られた五能線
なお五能線は、津軽半島の人口が増えたことにより、地元のお金持ちたちから「鉄道を作れば、十分に儲かる」と判断されたことにより、建設が決まった路線です。
そして、その「お金持ち」のなかに、後述する太宰治の父である津島源右衛門がいました。
かつて青森の港は「鰺ヶ沢」「十三湊」だった
江戸時代は、津軽地方の各地から集まった米(年貢)などの荷物は、
- 青森県西海岸の鰺ヶ沢港から、舟を使って、
- 天下の台所・大阪(当時は「大坂」)へと輸送
されていたのでした。
それは、年貢米を大坂へと集めるためですね。
江戸時代の「西回り航路」
海のルートは
といった具合でしょうか。
つまり、日本海をずっと反時計回りで移動し、下関の関門海峡から瀬戸内海に入り、やがて大坂へ着くのです。
これは「西回り航路」または「北前船」といい、江戸時代に河村瑞賢というお金持ちが私財を投じて作った航路です。
江戸時代は貨物列車すらなかったので、舟で大量の荷物を載せて運んだ方が効率がよかったのですね。
かつては青森港よりも、鰺ヶ沢・十三湊の方がメインの港だった
つまり「むか~しの青森の港」といえば、鰺ヶ沢や十三湊といった、日本海側の港だったのです。
日本海側に港があった方が、秋田県の酒田や、ひいては大坂にも近かったからですね。
しかし明治時代に入ると、青森港の発展に伴って、西海岸の鰺ヶ沢港は衰退してしまいました。
明治時代からは、貨物列車の時代へ
そして、明治時代になって鉄道が発展してくると、米をはじめとする荷物の大量輸送は、鉄道(貨物列車)がメインとなってきます。
そうすると「海上輸送」は衰退してゆくこととなり、鰺ヶ沢や十三湊といった日本海側の港は、必然的に衰退していくことになります。
さらには明治時代、上野~青森間の、今でいう「東北本線」が開通し、青森港から北海道・函館港へ向かう「一大鉄道ルート」が建設されたのでした。
そのため、なおのこと青森港の方が栄え、一方の日本海側の鰺ヶ沢・十三湊などは衰退することになってしまったのです。
明治時代、民間の鉄道会社による鉄道建設
明治時代~大正時代には、地元のお金持ちたちが、お金を出しあって建設していました。
なぜなら日本は1877年に鹿児島・熊本で起きた「西南戦争」のために多額のお金を使ってしまい、鉄道建設のための国のお金は「すっからかん」状態になっていったのです。
なので1880年代頃からは、民間のお金持ちたちがお金を出しあって、「ここに線路を通せば儲かるだろう」という区間に対して、次々に鉄道を建設していったのでした。
こうした民間の線路は1906年に軍事目的のために国有化され、戦後になって国鉄→JRの管轄となっています。
今全国にあるJR社のさまざまな路線にも、明治時代から大正時代時代にかけて、地元のお金持ちたちが作った路線であるものは結構多いのです。
津軽地方もそうでした。
津軽の富豪・津島源右衛門 あの太宰治の父
その中の「お金持ち」の筆頭格に、津島源右衛門という、津軽の実業家がいます。
多額納税のため、参政権があった津島源右衛門
津島源右衛門は、明治時代に津軽地方にいた代表的なお金持ちであり、津軽地方でのお金持ち集団・津島財閥のトップでした。
しかも税金をたくさん納めていたため、貴族院議員の資格までありました。
昔の参政権は、今のように20歳以上の全員にあったわけではなく、多額の納税をしていた一部の大金持ちに限られていており、津島家はその数少ない参政権のあった一つだといえます。
太宰治の父
そして津島源右衛門は、何を隠そう、あの太宰治の父親なのです。
太宰治は、本名を津島修治といい、1909年に名家・津島家の子として生まれています。
太宰治は、本当にお金持ちの名家に生まれたのですね。
太宰治の生家を博物館にした「斜陽館」の豪華ぶりを見れば、津島家の「お金持ち度合い」がわかると思います。
「愛されキャラクター」だった幼少期の太宰治
太宰治は、幼少期はとにかく勉強が出来る天才であり、とにかく人を笑わせることが大好きな「愛されキャラクター」でした。美形イケメンなこともあり、とにかく女性からはモテました。
そして学生時代に芥川龍之介や井伏鱒二などの小説にハマりまくってしまい、小説家を志すようになりました。
彼の書く小説があまりに面白いので、当時の地元の周りの生徒・クラスメイトたちは読んで大爆笑したそうです。
青森から東京へ しかし落第だらけで何度も自●未遂
しかし太宰治は、青森から東京に上京して、東京帝国大学を単位が足りずに落第します。卒業が絶望的になったため、まるで津軽の実家の恥さらしのようになってしまい、恥の埋め合わせのように受けた東京新聞の就職試験をも不合格になってしまいます。
これに落胆・絶望してしまい、自●をはかるなど、かなりの堕落・落ちこぼれぶりでした。
これだけでもなかなかメチャクチャで、かなり困った人物であることがわかりますね。
津軽の実家の「お金持ちぶり」がわかる話
こうしたことから、太宰治は少なくとも1930年代(20代)頃までは、彼は小説だけでまともに食べていけるくらいの稼ぎは恐らくなかっものと思われます。
1930年代以降に「走れメロス」「富嶽百景」などのヒット作を飛ばして小説家としてまともに食えるようになるまでは、地元・津軽からの「仕送り」にかなり頼っていました。
それは代表作「人間失格」での描写からもわかります。
逆にいえば、それだけ地元・実家の財力が凄かったということですね。
薬物中毒や自●未遂が酷くなってからは、青森の実家からも、家族がわざわざ東京にやってきて、何度も「(青森に)帰ってくるように」言われたりしています。
戦後の農地改革 津島家は没落へ→大ヒット小説「斜陽」への第一歩
戦後になって「貴族(華族)」の制度が廃止され、しかも農地改革により「大地主」という地位も剥奪されたため、太宰治の実家である津島家はそれまでのように財力を保つことが困難となってしまい、津島家は没落してしまいました。
それまではたくさんの農地を持っており、大地主としてその農地を小作人に貸すことで収入を得ることが出来ていたのですが、それも出来なくなりました。
戦後は「皇族」以外は全ての国民は「平民」になったので、華族などの貴族制度は廃止となり、みんな「平民」となり、特別扱いはされなくなったのです。
おそらく太宰治の小説「斜陽」にあるように、それまでのお金持ちたちはいわゆる「貴族気分」から抜け出せずに、現実とのギャップにかなり苦しんだことでしょう。
太宰治本人もその津島家の没落ぶりにショックを受け、そんな没落した貴族を描いたのが、後述する代表作「斜陽」になります。
次回からは、五能線で本格的に日本海側へ
次回からは、五能線での旅がいよいよ本格化します。
五所川原駅を出て、
- 鰺ヶ沢
- 深浦
- 東能代
方面へ向かってゆきます。
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
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