東北・日本海側の旅3 五能線・五所川原→東能代 鰺ヶ沢・深浦を行く

今回から、本格的に五能線・日本海側の旅へ

前回で津軽鉄道(つがるてつどう)の旅から戻ってきたので、今回は五所川原駅(ごしょがわらえき、青森県五所川原市)から五能線(ごのうせん)を西に進み、日本海側へと出てゆきます。

五所川原駅(青森県五所川原市)

そして日本海側をずっと南下してゆき、秋田県・東能代駅(ひがしのしろえき、秋田県能代市)の方向へ進んでゆきます。

東能代駅(秋田県能代市)

そして今回からは、いよいよ本格的に日本海側の旅のスタートとなります。
全国屈指の海がきれいな観光路線・五能線の旅のスタートです。

快速「リゾートしらかみ」であれば、座席指定券840円を支払えば、「青春18きっぷ」または「北海道&東日本パス」でも乗ることが出来ます。乗るときは海側の「A席」を指定・確保するのがよいでしょう。しかし人気なので、早めの予約がおすすめです。昔は500円くらいだったような気がしたのですが、2023年10月から840円になったようです。注意しましょう。

五能線の歴史 最初は五所川原側と、能代側から少しずつ線路を延ばしていった

五能線(ごのうせん)は、

五所川原(ごしょかわら:青森県五所川原市)
能代(のしろ:秋田県能代市)

二つの町をつなげるという目的で、明治時代終わり~昭和はじめにかけて、段階的に作られていった路線です。

所川原と代の、それぞれの頭文字をとって「五能線」です。
しかし現代の実際の起点・終点は「川部駅(かわべえき)」「東能代駅(ひがしのしろえき)」となっているので、慣れるまではなかなか想像つきにくいかもしれません。

ちなみに川部駅(かわべえき、青森県南津軽郡田舎舘村)は、五所川原駅よりもさらに南にある駅で、奥羽本線(おううほんせん)との合流・分岐駅でもあります。

つまり、最初は五所川原側・能代側の両方から、約30年もの年月をかけて延ばしていった路線なのです。
そして1936年、両者から延びてきた線路は、真ん中の深浦町(ふかうらちょう)のところでドッキング(合体)して、1本の長い線路になりました。
これこそが五能線の歴史になります。

明治時代の当初は、能代市の中心地に「能代駅」を置けなかった

五能線の歴史は、まずは1908年に開業した、
能代駅(のしろえき:現在の東能代駅)~能代町駅(現在の能代駅)

の区間の開業からスタートしています。

明治時代終わりの1901年ごろ、青森県の北東側から西へ建設・延びてきた奥羽本線(おううほんせん)は、当初はできるだけ能代市の中心地に線路を通したかったそうなのですが、その際に地元民が町中に線路を通すことに反対したため(理由はよくわかりません)、当初は現代の能代駅の位置(町の中心部)に駅と線路を建設することはできませんでした

なので仕方なく、能代市の市街地から少し南東に外れた位置にある、現在の「東能代駅」の位置に、「初代の能代駅」が出来ました。1901年のことです。

あと米代川(よねしろがわ)という川が能代市の平野を流れているため、東の弘前(ひろさき)・大館(おおだて)側から西の能代に線路をまっすぐに延ばそうとするときに、この米代川の存在が障壁となってしまい、うまく能代市の真ん中に線路を持ってきづらかった、という理由もあるかもしれません。

いずれにせよその後、現代の能代駅~東能代駅の区間の線路も後に出来ることになり、この新しい路線は能代線(のしろせん)と命名されることになりました。
ともあれ、なんだかんだで結局は能代市の中心部に駅が出来たということになり、1908年の当初は「能代町駅(のしろまちえき)」という名前でした。そして翌年に「能代駅」に改称し、これが現在の能代駅になっています。
これはやはり、能代市の中心部まで線路と駅が無いのは、さすがに不便だという地元住民の声・苦情もあったのでしょう。

青森県・五所川原側からも延ばしていった鉄道線路

青森県側でも、1918年に民間の陸奥鉄道(むつてつどう)という会社が、まずは川部(かわべ)~五所川原間に開業させました。
当時は第一次世界大戦の「大戦景気」のまっただ中ということもあり、物価高騰(インフレ)によって資材調達がなかなかままならず、平坦で穏やかな平野でありながら、なかなか思うように線路建設が進まなかったようです。
こちらは前回も解説した通りです。
詳しくは前回の記事をご覧ください

東北・日本海側の旅2 五能線・川部→五所川原、津軽鉄道・津軽五所川原→嘉瀬・金木 太宰治のふるさとを巡る

こうして、五所川原側・能代側からの、両方の街から順番に線路を建設してゆき、伸ばしていったのでした

苦心の末、「五能線」として両方の線路が1つにつながる

しかし1929年におきた昭和恐慌の影響で、建設が一時スローダウンしてしまいます。恐らく、線路建設のための資材調達・購入などが、予算不足などもあり滞ってしまったのでしょう。資金が不足すると作業員も雇えませんから、仕事がなかなか先に進みません。当時は失業者が多く、大変な時期だったのです。

こうした苦心の末、1936年になり、ちょうど全体の真ん中にあたる陸奥岩崎駅(むついわさきえき)~深浦駅(ふかうらえき)の区間が最後に開通したことで、両方から伸ばしてきた線路が、ここで1本につながりました

こうして全ての区間が1本の線路として完成し、これをきっかけに五能線(ごのうせん)と改称されたのでした。

五能線の原型「陸奥鉄道」を作った、明治時代の津軽のお金持ちたち

ちなみに五能線の元祖となる陸奥鉄道(むつてつどう)とは、明治時代に津軽地方のお金持ち・名家の方々が、お金を出し合って作った、民間の会社です。

まだ自動車が一般的ではなかった明治時代、
人々に早く移動できるための、移動の足を提供しよう
その上で、自分達も利益が上がる一石二鳥の仕組みを構築しよう
ということで、日本各地に民間の鉄道会社が立ち上がっていった時代でした。

明治時代の日本は、1877年に鹿児島・熊本で起きた西南戦争によって税金を投入しすぎてしまい、深刻な財政難に陥っていました。
そのため、1880年代あたりから民間の鉄道会社が次々に日本各地で立ち上がってゆき、日本の各地・あちこちに鉄道を建設していきました。
それが日露戦争後の1906年に「鉄道国有化」で軍事目的のために国有化され、それが戦後に「国鉄」となり、さらに1987年に現代のJR日本旅客鉄道株式会社)となるに至っています。

そして陸奥鉄道を作った「津軽地方のお金持ち」の筆頭格・代表格が、津島源右衛門(つしま げんえもん)という人物です。
津島源右衛門は、あの小説家・太宰治(だざい おさむ)の父親です。
太宰治は、本名を津島修治(つしま しゅうじ)といいます。
太宰治は、相当に「優れた家系」の出身だったことがわかります。

その後、初代・能代駅は機織駅(はたおりえき)に名前を変えて、1943年に現在の「東能代駅」に名前を変えています。

海側へ向かってどんどん進む

まずは
木造駅(きづくりえき、青森県つがる市)
に到着します。
そして海側へ向かって進みます。

海側へと出てくると、
鰺ヶ沢(あじがさわ)
千畳敷(せんじょうじき)
轟木(とどろき)
広戸(ひろと)
深浦(ふかうら)
ウェスパ椿山(つばきやま)
十二湖(じゅうにこ)
白神岳登山口(しらかみたけとざんぐち)
大間越(おおまごし)
岩館(いわだて)
などの各駅を過ぎます。

上記のうち、鰺ヶ沢駅は鰺ヶ沢町(あじがさわまち/西津軽郡)の駅であり、千畳敷駅~大間越駅までは深浦町(ふかうらまち/西津軽郡)の駅です。岩館駅は、秋田県の駅になります。

そして世界遺産・白神山地(しらかみさんち)の西を通りながら、秋田県に入ります。
やがて、五能線の終着駅(正確には起点)である東能代駅(ひがしのしろえき、秋田県能代市)に至ります。

やはり五能線の定番列車といえば、先述の「快速リゾートしらかみ号」です。

「しらかみ」とは、上記の白神山地(しらかみさんち)に由来します。

快速「リゾートしらかみ号」では、できれば海側のみえる「A席」を取りましょう。快速列車であり特急列車ではないので、840円の座席指定券を購入すれば「青春18きっぷ」「北海道&東日本パス」でも乗れます。

つがる市・木造駅 亀ケ岡遺跡

海側に出てくる前に、もう一つのポイントを紹介します。

五所川原駅から1駅西へ進むと、木造駅(きづくりえき、青森県つがる市)に到着します。

木造駅(きづかりえき)は、つがる市の駅です。
駅舎では、なんと巨大な土偶(どぐう)が出迎えます。なんともユニークな駅です。
この巨大な土偶は、つがる市にある亀ケ岡遺跡(かめがおかいせき)という、縄文時代の遺跡があることに由来します。

亀ケ岡遺跡は、江戸時代に津軽藩(つがるはん。正式名称は弘前藩)が、ここに新しいお城を建設しようとして工事をしていたとき、掘った土の中から縄文土器がどんどん出てきたので、有名になりました。
そうした遺跡から出土したものから、縄文時代に人々が既にここに住んでいたこと、またどんな暮らしをしていたが判明するのです

縄文土器など大昔の土器は、例えば「工事をしていたとき」「畑を耕していたとき」などによく出土します。
ちょっと縁起が悪いですが、まれに「人骨」が出土することもあり、その場所がかつての戦場だったり、処刑が行われていた場所だとわかることもあります。

また、工事中に穴を掘っていると「温泉」が吹き出すこともあり、そこから温泉街が形成されていくケースもあるのです。

ちなみに津軽藩はお城を建てようと思っていて工事をしていたわけですが、江戸時代の一国一城令によって、それは頓挫(とんざ)することになりました。というのも、江戸時代には各地の大名たちが軍事的反乱を起こさないようにするために、無駄に(無断で)城を造る・改修するようなことは禁止していたのです。

そして土偶のモデルには、女性がとても多いです。縄文時代は出産と同時に女性(母親)も亡くなることが多かったため、安産祈願などの意味をこめて、女性の土偶がたくさん造られたのでした。中には「妊婦さん」をモデルにした土偶もあり、当時は出産・安産に対してなんとか神様の力を頼りたかった、という縄文時代の人々の願いがこもっていることがよくわかります。縄文時代の日本にはまだ「仏教」が無く、飢餓や疫病など厳しい縄文時代を生きた人々はとにかく「神様の力」を頼るしかありませんでした。なので土偶には、恐らくですがそうした「願いをこめるため」に造られた意味もあるものと考えられています(諸説あり)。

もちろん、今でいうフィギュアのような感じで、芸術的な意味で(もしくは趣味で)美人さんの土偶を作っていた人もいたのかもしれません(^^; いつの時代も若くて綺麗な女性が世の中の男性を魅了することは、1万年間(全世界?)共通のようです(^^;

ついに日本海側へ 鰺ヶ沢に到着

ここからは本格的に日本海側に出てきます。
やがて鰺ヶ沢駅(あじがさわえき、青森県西津軽郡鰺ヶ沢町)に着きます。

鰺ヶ沢駅(青森県西津軽郡鰺ヶ沢町)

鰺ヶ沢(あじがさわえき)の名物には、白い犬「わさお」さんと「ヒラメのヅケ」があります。

わさおさんは、元々は迷い犬として飼われていました。
「ブサかわいい」ことから人々に親しまれましたが、残念ながら2020年に老衰のため、他界してしまいました。
今でも一定数のファンは存在するもようです。

鰺ヶ沢(あじがさわ)は、江戸時代までは主要な港町でした。
というのも、青森県の中では北海道や秋田県・酒田(さかた)といった港町、そして大坂といった主要都市にも近かったからです。江戸時代は、たくさんの年貢米を舟に載せて、天下の台所・大坂まで運ぶ必要がありました。
日本海に面した港は、とりわけ江戸時代まではとても便利な立地で重要だったのですね。

津軽地方で徴収された年貢米(今でいう「税金」)は、みんな鰺ヶ沢の港に集められてこられ、ここで米俵(こめだわら)はに載せられ、日本海を経由して、酒田(さかた)・富山の伏木(ふしき)・下関大坂へと運ばれていったのです。
これは「西回り航路」といって、江戸時代の豪商・河村瑞賢(かわむら ずいけん)という大金持ちが私財を投じて開拓した海上ルートになります。
昔は貨物列車・高速トラック・航空輸送は存在しなかったため、「舟」で大量の荷物を運ぶのが一番効率的なやり方だったわけですね。

西回り航路は「北前船(きたまえふね)」ともいいます。

しかし明治時代になって「弘前藩(津軽藩)」を改め「青森県」が発足すると、青森県のメインの港は「青森港」に変更されたため、鰺ヶ沢の港と津軽半島の北にある十三湊(とさみなと)は衰退することとなってしまいました。
明治時代は「北海道開拓」のために東京~北海道間の鉄道・交通ルートがとても重要視されましたから、青森港~函館港の航路(津軽海峡・青函連絡船)がどうしても重要になった結果、青森港の発展の方が優先されたことも関係してくるでしょう。

千畳敷

やがて、千畳敷駅(せんじょうじきえき、青森県西津軽郡深浦町)に着きます。

千畳敷駅(青森県西津軽郡深浦町)
千畳敷駅(青森県西津軽郡深浦町)

写真は、あまり天気の良くない時に撮ったため、ちょっと殺風景(さっぷうけい)な感じになってしまっています。しかし本当はもっと綺麗な景色なので、勘違いしないでくださいね。

千畳敷(せんじょうじき)は、津軽藩(つがるはん)のお殿様が、ここの海岸に畳を敷いて、お祭り(ドンチャン騒ぎ)をしたことに由来しています。
快速「リゾートしらかみ」はこの駅で少しの時間停車するため、途中で降りたりして、千畳敷の散歩が可能です。

千畳敷は美しい海岸のため、津軽のお殿様に大変気に入られ、海岸に千もの畳を敷き詰めて、飲み会を開いたことに由来しているわけですね。

つまりこの天然の畳の上で「飲めや歌えや踊れや」といいながら、盛り上がっていたというわけですね。

なお、江戸時代に津軽藩が津軽地方を統治していた時代は、なんでも千畳敷は「殿様専用」の避暑地であったらしく、庶民は近づけなかったといいます。
つまり飛行機のファーストクラス、ホテルのスイートルームのような扱いですね。

なお千畳敷は、和歌山県・白浜町(しらはまちょう)にもあります。そして長野県のアルプスにも、千畳敷カールと呼ばれる地形があります。そして千畳敷の由来については、地域によって「畳を千ほど敷き詰められるほどの広さだから」など、さまざまな説・差があります。

千畳敷駅からの、海の景色(青森県・深浦町)

海の見える駅・驫木駅

轟木駅(とどろえき、青森県西津軽郡深浦町)は、「難読駅名」+「海の見える駅」として、鉄道ファンの間ではとてもよく知られる有名駅です。

私(筆者)が知っている駅で、他にも「海が見える駅」といえば

北海道・釧網本線・北浜駅(きたはまえき)
北海道・室蘭本線・北金岡駅(きたかなおかえき)
新潟県・信越本線・青海川駅(おうみがわえき)
神奈川県・鶴見線・海芝浦駅(うみしばうらえき)
神奈川県・東海道線・根府川駅(ねぶかわえき)
兵庫県・山陰本線・鎧駅(よろいえき)

などですかね。
他にもたぶんたくさんあると思います。
私もいずれ行ってみたいと思います。

広戸駅 かつて舟を待ち合わせていた、行合崎海岸

広戸駅(ひろとえき、青森県西津軽郡深浦町)の近くには、かつて先述の西回り航路北前船/きたまえふね)がよく行き交っていた、行合崎海岸(ゆきあいざきかいがん)という岬があります。

行合崎(ゆきあいざき)は、いわゆる「風待ちの海岸」となります。
ここで江戸時代の船たちは、自分達の舟が前に進むために必要な「」を待っていたのでした。

というのも、江戸時代の船は「帆船(はんせん)」が主流であり、帆に「よい風(=順風)」が当たらなければ、船は速度を出すことができません。
なお、帆(ほ)によい風が当たることを「順風(じゅうぷう)」といいます。

対義語は「逆風」です。

この「順風」が来るのを待つために、船たちはこの行合崎において、風を待っていたのです
なので「風待ちの岬」と呼ばれるわけです。
そして、そんな待ち合いをする船達がここでたくさん行き交っていたので、「行合崎(ゆきあいざき)」と呼ばれるわけです。

順風(じゅんぷう)が船の帆にうまくあたり続けて帆いっぱいに当たる(=満帆/まんぱん)と、当然ながら船は順調に進んでゆきます
このことから、「物事がうまく順調に進むこと」を意味する「順風満帆(じゅんぷうまんぱん)」という四文字熟語の由来になっています。

ちなみに明治時代になってからは、石炭を燃やして水を沸かしたエネルギーで動く「蒸気船」、さらに時代が進むと「ディーゼル船」が主流になってゆきます。

かつて関所のあった、大間越

広戸駅(ひろとえき)・深浦駅(ふかうらえき)・ウェスパ椿山駅(つばきやまえき)・陸奥岩崎駅(むついわさきえき)・十二湖駅(じゅうにこえき)・白神岳登山口駅(しらかみだけとざんぐちえき)(いずれも青森県西津軽郡深浦町)などの駅をひたすら過ぎて南下してゆくと、だんだんと秋田県との県境に近づいてゆきます。

そして大間越駅(おおまごしえき、青森県西津軽郡深浦町)に着きます。

大間越(おおまごし)とは、かつて関所(せきしょ)のあった場所です。関所とは、不審者が入ってこないように取り締まっていた場所のことです。特に、江戸時代は自分達の領地に「鉄砲」が入ってこないこと、また参勤交代で江戸に人質に取られた(大名の)嫁が逃げてくることを取り締まっていたのでした。これを「入り鉄砲に出女(いりでっぽうにでおんな)」といいます。

大間越関所(おおまごしせきしょ)は、いわゆる津軽三大関所の1つとされていました。もう一つは奥羽本線(おううほんせん)で秋田県との県境にある碇ヶ関(いかりがせき)、あと一つは青い森鉄道で通る青森市の野内(のない)にありました。

参勤交代では、大名のお嫁さんは人質として江戸に捕らえられているため、これによって大名が江戸幕府に逆らえないような仕組みが出来上がっていました。

もし嫁が江戸から脱走して領国(地元)へ帰ろうとしたときに、関所を通れば一発でバレるというわけです。

碇ヶ関(いかりがせき)は、太宰治の小説「津軽」にも出てきます。

そしてこうした「関所」は、現代でも「県境」となっている場所に多いイメージです。

世界遺産・白神山地

白神山地(しらかみさんち)は、青森県~秋田県の日本海側にかけてまたがる山地です。そして列車は、この白神山地の西側の海岸線を通ることになります。

白神山地は、鹿児島県の屋久島(やくしま)とならんで、1993年に日本で初めてのユネスコ世界遺産(自然遺産)に登録されました。

白神山地は、原生林のブナの木々が生えています。
原生林(げんせいりん)とは、いまだかつて人類の手がついていない、いわゆる「手付かずの林」ということですね。
つまり地球が誕生したときから、そのままの形で残っている林、ということになります。

白神山地が世界遺産に登録された理由は、
人の影響をほとんど受けていない原生的なブナ天然林が、世界最大級の規模(大きさ)で分布している(広がっている)こと」

です。
つまりブナの木々が、地球が誕生したまま(原生)の状態で保存されており、しかも世界で最も大きい範囲で存在しているから、だかから世界遺産としての価値がある、というわけです。

まぁ、原生の林そのものであれば、確かにどこにでもあるかもしれません。しかし白神山地レベルでの大きさ・美しさとなると、世界でもそうそうないために、価値が高いということですね。

白神山地はいうまでもなく、快速「リゾートしらかみ号」の名前の由来ともなっている山地です。

江戸時代の旅行家・菅江真澄

かつて江戸時代、秋田県・青森県(出羽・陸奥)のこの地域を旅した人に、菅江真澄(すがえ ますみ)という人物がいました。
今でいうと、旅行系YouTuberの大先輩です。
江戸時代後半の人物なので、江戸時代前半に活躍した松尾芭蕉などの後輩にあたる旅人でもあります。
出身は愛知県(岡崎市か、豊橋市のどちらかと言われています)ですが、29歳のときに故郷を旅立ち、長野県・新潟県を経て、山形県・青森県・北海道を旅して回ったのでした。
そのときの旅行の記録・日記が、たくさん残っているわけです。
これは松尾芭蕉でいうところの「おくのほそ道」ということですね。

秋田県の伝説のハンター「マタギ」

秋田県には、マタギ(又鬼)と呼ばれる伝説のハンターがいました。マタギは、主に日本の東北地方・北海道などの山で、伝統的な(まさしく「ハンター」的な)方法・やり方で狩猟を行っていた人たちのことをいいます。
捕る獲物は主にクマなどであり、他にはニホンザル、ウサギなどを狩りの対象としていたようです。クマは北海道の山奥にもたくさんいますから、アイヌ民族も狩りの対象にしていました。

しかし現代では、昔ながらのマタギは減少してしまっているようです。やはり山間部の人口減少や、若者の都会・都市部への就職・進学に伴う流出も関係してくるでしょう。

マタギが狩りをする時に食べていた料理が、秋田県の名物・きりたんぽの起源になったともされています。こちらは次回も扱います。

東能代駅に到着

五能線の終点・東能代駅(ひがしのしろえき)に到着します。

東能代駅(秋田県能代市)

次回は、東能代駅からさらに秋田方面へ向かってゆくことになります。

今回はここまでです!

お疲れ様でした!

【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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