東北・日本海側の旅4 奥羽本線・東能代→八郎潟→秋田

東能代駅を出発 スイッチバックで方向転換

前回で、五能線(ごのうせん)を南下してきて、東能代駅(ひがしのしろえき、秋田県能代市)に到着しました。

東能代駅(秋田県能代市)

東能代駅スイッチバック形式の駅のため、東能代駅から秋田方面へ向かうには、方向転換を行います。快速リゾートしらかみ号であれば、一旦スイッチバックをするため、座席の向きが変わることになります。つまりシートの前後変えないと、後ろを向いたまま進んでしまうので、面倒でもできればシートの転換が推奨です。

スイッチバックとは、いわば「」の形をした線路であり、一旦先頭から突っ込んで、バックするという線路の形です。
東能代駅では一旦、奥羽本線の大館(おおだて)方面へ向かう構造・形の線路になっているため、このように「突っ込む→バック」するという形になっているのです。

ではなぜ東能代駅がスイッチバックの形になっているのか。それは歴史の様々な要因が関係してきますので、詳しくは前回の記事をご覧ください。

東北・日本海側の旅3 五能線・五所川原→東能代 鰺ヶ沢・深浦を行く

東能代駅から奥羽本線で南下し、秋田駅へ

ここから秋田駅までは、奥羽本線(おううほんせん)の区間を通ります。

ただし秋田駅に着くと、奥羽本線は東・内陸部の大曲(おおまがり)・横手(よこて)方面へと逃げてゆくので、秋田駅から先・日本海沿いを南下していくには羽越本線(うえつほんせん)とになります。

奥羽本線は、

福島→(ここから山形県)→米沢(よねざわ)→山形新庄(しんじょう)→(ここから秋田県)→横手(よこて)→大曲(おおまがり)→秋田東能代(ひがしのしろ)→大館(おおだて)→(ここから青森県)→弘前(ひろさき)→新青森青森

というルートの路線です。福島~新庄の区間は山形新幹線と、大曲~秋田の区間は秋田新幹線と被っています。

羽越本線は、

秋田羽後本荘(うごほんじょう)→象潟(きさかた)→(ここから山形県)→酒田(さかた)→余目(あまるめ)→鶴岡(つるおか)→(ここから新潟県)→村上(むらかみ)→新発田(しばた)→新津(にいつ)

というルートの路線です。

奥羽(おうう):陸奥国(むつのくに)と出羽国(でわのくに)
羽越(うえつ):出羽国(でわのくに)と越後国(えちごのくに)

参考までに、

出羽国(でわのくに):現代の秋田県、山形県
越後国(えちごのくに):現代の新潟県

になります。あわせて覚えておくとよいでしょう。

ちなみに「(くに)」とは奈良時代の律令制におけるエリア分けで、現代でいう都道府県に該当します。ただし、出羽国秋田県・山形県の2県にまたがるように、「国」と「都道府県」が必ずしも一対一で対応するわけではありませんので、注意しましょう。

「干拓」によってできた、八郎潟

奥羽本線をひたすら南下していくと、やがて八郎潟(はちろうがた)の東側を通ってゆきます。

八郎潟(はちろうがた)は、ヨーロッパ・オランダにヒントを得て、干拓(かんたく)によって出来た土地です。
干拓(かんたく)とは、元々あった湖や沼などを、堤防などを築くことによって水をわざと干上(ひあ)がらせて、水を無くさせて陸地を作ることです。その新たにできた陸地に田んぼ・畑などを耕して広げ、米などの農産物の収穫をたくさん増やすことを目的としています。

戦後に干拓された八郎潟は大きな陸地となり、たくさんの米などを栽培して採れるようになりました。

ちなみにヨーロッパの国・オランダは、干拓によってできた土地になります。
そのため、オランダには風車がたくさんあります。
風車を回すことで、底にある水をかき集めて排水し(水を逃がし)、水が干上がって陸地ができるという仕組みになっています。オランダに「~ダム(堤防)」という地名が多いのは、まさにオランダが干拓によって出来た土地であることを示しています。
千葉県の印旛沼(いんばぬま)も干拓によって出来た土地です。

男鹿線との分岐駅「追分駅」

八郎潟(はちろうがた)をさらに南下すると、男鹿線(おがせん)との分岐駅である追分駅(おいわけえき)に到着します。

追分(おいわけ)とは、昔の言葉で「分かれ道」という意味になります。その他、「交差点」のことは昔の言葉で「(つじ)」といいます。
そして、全国他の地域には「追分」という地名や駅がたくさんあります。

例えば、北海道の「追分駅」については以下の記事をご覧ください。

鉄道唱歌 北海道編 北の巻第14番 再び室蘭本線に戻り、夕張行きの乗換場へ

長野県信濃追分駅(しなのおいわけえき)については、以下の記事をご覧ください。

鉄道唱歌 北陸編 第22番 浅間山の麓を西へ進む 北国街道への分かれ道

男鹿半島と「なまはげ」

男鹿線(おがせん)は、秋田県の北西にのびる男鹿半島(おがはんとう)を走る路線です。男鹿半島では「なまはげ」が 有名です。

なまはげ」はちょっと怖いキャラクターといった感じですが、例えば怠けたりサボったりする悪い子たちを成敗する神様です。

なまはげは「悪い子はいねがー(悪い子はいないか)」といって、怠けたりサボったりしようとする子供の前に現れて、成敗していくのです。こうして子供たちはなまはげを恐れて、真面目に頑張るようになります。
男鹿(おが)地方の子どもは、「勉強をサボるとなまはげが来るぞ~」といって教育されるのだそうです。
まぁ、子どもにとっては普通に怖いですよね。

秋田駅に到着

追分駅からさらに南下すると、土崎駅を経て、やがて秋田駅に到着します。

秋田駅(秋田県秋田市)

私(筆者)が冬に初めて秋田に行ったときの感想ですが、日本海側ということもあってかかなり風が強く、しかも雪が混じったとても冷たい風であり、これが容赦なく体に吹きつけてくるため、かなり厳しい気候の地域だなと感じました。少なくとも、冬の北海道の道南地域よりも体感温度は低いと思います。冷たい風をもろに受けるため、体感温度が下がるわけです。なので初めて冬に秋田に行かれる方は、冬の冷たい強風にはちょっと覚悟・準備があった方がよいでしょう。

「秋田美人」とは

秋田の女性を表す言葉として、秋田美人(あきたびじん)という言葉が思い浮かぶことでしょう。秋田美人は、いわゆる「日本三代目美人」の一つです。

ちなみに日本三大美人とは、

京美人(京都美人)
博多美人
秋田美人

の三つになります。

秋田美人の起源については、たくさんの説があります。

・日本海側なので気温が低いために、肌が色白になりやすいこと
・東北地方の日本海側のため、日照時間が短く、紫外線の影響を受けにくいこと

などの説があります。

あと、都市伝説レベルのものも含めると、

・ロシアとの距離が近いこともあり、ロシア人との血が混じっているため

というものがあるそうですが、この説は遺伝子レベルの観点からちょっと根拠は薄いとされています。

さらにもう一つ、都市伝説があります。

江戸時代のはじめ、常陸国(ひたちのくに)・茨城県のそれまでのトップだった佐竹氏(さたけし)がいました。
その佐竹氏が、水戸(みと)にいた美人を、常陸・茨城から大量に秋田に連れていった、という説が挙げられます。

佐竹氏(さたけし)は戦国時代までは、常陸国・茨城県のトップでした。
しかし「関ヶ原の戦い」で徳川家に敵対する「西軍」についたため、その罰として遠隔地である秋田へ飛ばされた(改易された)という経緯があります。

そのとき佐竹氏が「美人好き」だったために、水戸から大量の美人を秋田へ連れていった、それがいわゆる秋田美人の起源だ、という都市伝説です。

あなたは、どの説を信じるでしょうか?

秋田出身の美人・小野小町

代表的な秋田美人として、秋田県湯沢市(ゆざわし)の出身(とされている)の、小野小町(おののこまち)がいます。
小野小町(おののこまち)は、平安時代の歌人であり、「絶世の美人」として知られます。

ちなみに湯沢市は「令和おじさん」としても有名な菅義偉(すが よしひで)前首相の出身地でもあります。出身地は秋田ですが、選挙や政治家としての拠点は神奈川県にあります。

小野小町は若い時こそ「絶世の美人」とされていましたが、歳をとるたびにその美貌は容赦なく衰えてゆくことになりました。

花のいろは うつりにけりな いたずらに
(私の美しさは 歳とともに衰えていく 虚しくも)
という有名な詩は、小野小町が歳をとるたびに、自分の美貌が非情にも衰えていくことを嘆いた詩です。

そして晩年は落ちぶれて「醜い老婆」となってしまい、全国各地に小野小町が「野垂れ死に(のたれじに)」した場所だと主張する伝承地(でんしょうち)があます。つまり、全国あちこちに小野小町の墓があるというわけです。

しかしこの小野小町の老衰伝説は、あくまで後世によって作られた「創作」なのではないか、とも言われています。
現代でも「売れ残り女ざまぁ」などとネットでよく叩かれるように、若い頃にちやほやされたきた女性に対しては、歳を取ったときに一気に世間の目が厳しくなる、という現実があります。
当時も、小野小町の美しさに嫉妬した人たちが、いざ彼女が老衰したときに「ざまぁ」と言いたくなったのでは(そんな願望から、上記のような創作ストーリーが生まれたのでは)という気持ちも、わからなくもないです。

小野小町の例からもわかるように、どんなに若い頃はモテていたとしても、女性は30を過ぎたら容赦なくその美しさは衰えてゆきます
絶世の美人・小野小町ですらそうなのですから、「私だけは若く見られるのよ」というような例外は存在ないといっていいでしょう。

ちなみに私の同級生の女子も、若い頃にチヤホヤされ過ぎて「自分が絶世の美人だ」「私は年収1000万円のイケメンじゃないと釣り合わないのよ」などと勘違いしてしまい、30歳を過ぎてみるみる衰えてしまい、高望みを続けた結果、今やいわゆる典型的な「売れ残り婚活女子」に成り下がっています。

残念ながら、「美人が永遠に美人であり続けることはできない」のですね。
結婚を望む女子であれば、若い頃から、謙虚に、かつ現実的に婚活することが望まれます。30歳を過ぎているのであれば、自身に見合った男性を選ぶことも大事でしょう。

結論。若い女子は、「今すぐ」婚活スタートさせましょう!!
年齢が25歳前後であり、かつ定職に就いていて年収400万円ほどあり、さらに「共働きOK」の女子であれば、婚活市場では難なく成婚していけるでしょう。

秋田のお米・あきたこまち

あきたこまちは、いわずと知れた秋田のお米です。
秋田県は、新潟県・北海道に次ぐ日本第3位の米の生産量を誇っています
あきたこまちの由来は、もちろん先述の小野小町(おののこまち)です。

あきたこまちは、秋田県によって長年をかけて研究・開発され(県を挙げて研究・開発され)てきたお米であり、秋田県が全力でリコメンド(推奨)するお米のブランドになっています。

あきたこまちは、秋田県が独自かつオリジナリティーあふれるお米の品種の開発を目指して、実に5年以上の期間をかけて開発してきた品種です。
つまり、あの手この手を使って、様々な手法により「より良い」「よりおいしい」お米になるように、秋田県によって長年にわたり研究・開発が繰り返されてきたというわけです。

1990年の「平成の大嘗祭」(だいじょうさい:天皇陛下が、秋の収穫を祝い、神様に感謝するための式典)において、あきたこまちが献上米(=天皇陛下が、神様にささげるお米)として選定されたのです。つまり天皇陛下によって、あきたこまちが神様に(神聖な儀式で)献上されたということですね。
これによって「あきたこまち」は日本全国に存在が知られるようになり、それ以降は売り上げも大きく増えることになったのでした。

あきたこまちの米の販売パッケージなどでは、小野小町や先述の「秋田美人」のイメージが採用されれることが多いわけです。

美女のイラスト「萌え米」

萌え米(もえまい)とは、パッケージに「美少女イラスト」などを取り入れたお米の商品の一種です。

米のパッケージに、美少女のイラストを描いた「萌え米」として販売された際にはまさに大ヒットとなり、ニュースでの報道などでも大きく注目されることになりました。やはり「可愛い女の子のイラスト」が描かれたお米は、とてもインパクト大ということですね。

秋田の地名の由来 阿倍比羅夫にあり!?

秋田」の名前の由来は、「顎(あご)のような田」からきています。
顎田(あぎた)」→「秋田(あきた)」
というわけです。

この「顎のような田」とは、飛鳥時代に東北・北海道にやってきた阿倍比羅夫(あべのひらふ)に由来していると言われます。

飛鳥時代の658年に、蝦夷地(北海道)の遠征に出掛けていた阿倍比羅夫(あべのひらふ)は、現在の秋田市あたりの地を訪れていたのでした。
なぜ阿倍比羅夫が東北・北海道に来たのかというと、それは恐らくですが朝廷から「東北や北海道にいる、朝廷に歯向かう者たちを討伐せよ」などのように命令されたからだと思われます。飛鳥時代の当時は全国各地の豪族(強い人達の集団)たちが争いまくっていて、国としてまとまりのないカオスな状態でした。なので聖徳太子にはじまる大和朝廷は、日本全体をおだやかに統一したかったのです(それは奈良時代に「中央集権国家」として実現します)。なので阿倍比羅夫を東北・北海道に派遣したものと思われます。

そして比羅夫がここの地名を「齶田(あぎた)」だと大和朝廷(やまとちょうてい:奈良県に拠点のあった政府)に対して報告したことから、すべてが始まります。

齶田(あぎた)」とは、文字通り「アゴに似た地形」があったからだと言われます。
その「アゴに似た」という地形というのは、秋田市街地を流れる代表的な川である雄物川(おものがわ)の河口部にあったとされる、いわゆる「古い地形」のことを表していたのでは?という説があるそうです。
これは恐らく、阿倍比羅夫がその地形に対して、「まるで顎の形だ」と感じのでしょう。それを当時の大和朝廷に報告したことで、「顎田(あぎた)」の名前が広がったというわけですね。

かつて東北地方に多くあった「柵」

奈良時代になると、山形県の庄内(しょうない)地方にあったとされる出羽柵(でわのさく)が、秋田の地に移転してくることになります。つまり、国の中心地が山形から秋田へ移転してきたようなイメージでしょうか。

(さく)とは、いわば大昔の「城の簡易バージョン」です。
このような大昔の「簡易バージョンの城」は、東北地方では「柵」、北海道では「チャシ(※アイヌ語)」、関東地方では「(やかた)」などのように呼ばれるようなイメージです(※私の感想です)。西日本にも、たくさんの小さな城の跡が今でも残ります。

聖武天皇の時代には、秋田へ移転してきた柵が、はやくも「秋田城」と呼ばれるようになりました。
それまでは「顎田(あぎた)」でしたが、それ以降は「秋田」の表記で定着していったため、それが現代に至るわけです。

中世の港と荘園 秋田の清原氏

中世・鎌倉時代あたりには、秋田の港はいわゆる「三津七湊(さんしんしちそう)」の一つとして、「秋田湊(あきたみなと)」と呼ばれていたようです。
つまり秋田は、中世の東北地方においては重要な湊(みなと)の一つに数えられていたということです。
重要な港なので、たくさんの船が寄ってきますし、港の回りには舟や港で働くたくさんの人々が集まってくることによって、港町が栄えていくわけです。

ちなみに「津(つ)」「湊(みなと)」「港(みなと)」はどれも同じような意味ですが、私の個人的なイメージとしては、それぞれ以下のような意味合いがあると感じています。

:大昔の、簡単な舟が止まっているような海岸のイメージ
:「帆船」や「木の舟」たちが止まっているような、昔のそこそこ大きい漁村のイメージ
:現代的な、大きな港湾のイメージ

平安時代の秋田には、清原氏という強い武士の一族・チームがありました。こうした強い武士たちは、元々は自分達の田んぼを守るために武装したことが起源だったりします。

奈良時代になると、公地公民(こうちこうみん)制が崩壊してゆきます。
これは、田んぼが国から強制的に与えられ、しかも強制的に高い税を納めさせられ、さらには死んだら国に田んぼを強制的に返すことを要求されるという、かなり厳しくて理不尽な制度でした。なので奈良時代の「公地公民制」は、人々のモチベーションが上がらずに瓦解(がかい)してしまい、うまくいきませんでした。
なので743年に、いくらでも耕していい(死んでも返さなくてもいい)という「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」ができました。

公地公民の崩壊墾田永年私財法などについては、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 関西編 第19番 亀山を出発し、紀勢本線を南下 一身田駅を過ぎ、やがて津市へ

墾田永年私財法によって得られた結果は、いわゆる「荘園」の拡大です。
田んぼを耕せば耕すほど儲かり、農地はますます巨大化してゆきます。この巨大化した田んぼが「荘園」です。
しかしそうなると、せっかく努力して拡大した荘園は、盗賊やライバルの荘園領主などから狙われやすくなります。
こうなると人々は、荘園を守るためにも、自ら武装したり、強い人たちに守ってもらう必要が出てきました。
これがいわゆる「武士」の始まりです。

こうして出来上がった武士のチーム(豪族)は、どんどん強くなってゆきました。やがては貴族よりも武士の方が強くなりすぎて、やがては朝廷の発言権をも上回ってゆくのです。

その中の豪族・武士チームで、東北地方で有力だったものが、現代の岩手県あたりを支配していた安倍氏(あべし)、そして出羽(でわ:秋田県)の清原氏(きよはらし)になります。

やがてそれらの武士たちが強くなりすぎて、今度は平安京の貴族たちや朝廷を脅かす存在になってゆきます。
こうした東北地方で好き放題やって蔓延(はびこ)る蝦夷(えみし)を放っておくわけにはいかなくなったので、朝廷は東北地方に「陸奥守(むつのかみ)」と呼ばれる武士を派遣し、それがやがて「前九年の役」「後三年の役」に発展しました。

これらの平安時代の東北地方については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第33番 平泉に到着! 金色堂、安倍氏、奥州藤原氏など戦いや栄華の歴史

江戸時代 秋田市のベースになった久保田藩 そのルーツは常陸国・茨城県にあり

江戸時代になると、秋田のほとんどの大名は常陸国(ひたちのくに:茨城県)に転封(てんぽう:左遷されること)されてしまいます。
これによって、鎌倉時代以来からずっと築き上げてきた秋田のトップと住民たちとのつながり・絆は、ここで切れてしまうことになりました。
先述の常陸国・茨城県のトップだった佐竹氏と、トップを交代したようなイメージです。

先述の通り、1600年の「関ヶ原の戦い」において徳川家の敵である「西軍」についてしまった佐竹義宣(さたけ よしのぶ)は、常陸国(ひたちのくに)・茨城県から、秋田へと転封(てんぽう:遠隔地に飛ばされること。左遷と似たようなもの)されてしまったのでした。

そしてここに、秋田の久保田藩(くぼたはん)が誕生したのでした。

秋田県の郷土料理「きりたんぽ」

秋田県の代表的な料理に「きりたんぽ」はがあります。
簡単にいうと「ちくわ」みたいな(米で出来た)白い棒を、鍋(なべ)に刺した料理になります。

東北きりたん」が背中につけている、あの白い棒が、まさにそれですね。

きりたんぽは、秋田県の北東部にある大館(おおだて)・鹿角(かづの)といった地域の郷土料理になります。やがてそれが秋田県全体に広まってゆき、秋田県のメジャーな料理として知られるようになります。

その地、秋田県の伝説的ハンターである「マタギ」が、狩猟から帰ってきたときに食べた料理が起源だったとの説があります。

きりたんぽには、比内地鶏(ひないじどり)が材料として使われています。
比内(ひない)とは、秋田市の東にある大館市(おおだてし)・北秋田市(きたあきたし)あたりのエリアのことをいいます。
比内(ひない)は、アイヌ語に由来しています。
アイヌ語でナイ(内)は、という意味です。
昔は秋田港を通じて北海道(蝦夷地)とも交流があったため、アイヌ語が秋田県に存在していても不思議ではないわけです。

きりたんぽは秋田県の「郷土料理」として広く親しまれるようになっています。
つまり「秋田県の料理=きりたんぽ」みたいな地位を確立したわけですね。

東北きりたん、ずんだもん

VOCALOIDの「東北きりたん」は、先述の「きりたんぽ」をモチーフにしたキャラクターです。 
「きりたんぽ」は先述の通り、お米をベースにした「白くて細い食べ物」です。
なので「きりたん」の背中にも、白くて細い「きりたんぽ」がついていますよね。

きりたんの声はとても可愛らしくて癒されますが、声優は茜屋日海夏(あかねや ひみか)さんという方であり、1994年・秋田県由利本荘市(ゆりほんじょうし)の出身の方です。

他に、東北のキャラクターに「ずんだもん」がいます。

ずんだもんは、「ずんだ餅(もち)」という、枝豆(えだまめ)でできた餅をモチーフにしたキャラクターです。ずんだ餅は、東北地方・宮城県仙台市の名物になります。

いわゆる「枝豆」がモチーフなので、「ずんだもん」の色は枝豆の「黄緑色」になっています。

ずんだもんの口調は「~なのだ」で、最近の私(筆者)は、ずんだもんの真似することがマイブームになっています。
ボクはずんだもん。ずんだもんなのだ!
と口癖のように言っているので、しかもかなり練習したため、かなりずんだもんに似てきたと思います(^^;

次回は、羽越本線で南下

次回は、羽越本線(うえつほんせん)にて羽後本荘(うごほんじょう)・象潟(きさかた)・酒田(さかた)方面へ向かってゆきます。

今回はここまでです。

お疲れ様でした!

【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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