東北・日本海側の旅4【後編】 秋田の観光・歴史を、わかりやすく解説!

秋田の観光・歴史(秋田美人・あきたこまち・地名の由来など)について、初心者の方にも、わかりやすく解説してゆきます!

  1. 秋田駅(秋田市)に到着
  2. 「秋田美人」とは
    1. 秋田美人の起源は?
    2. 佐竹氏にからむ、秋田美人の起源・都市伝説
      1. 戦国時代までは、常陸国・茨城県のトップだった佐竹氏
    3. 秋田出身の美人・小野小町
      1. 若い時は「絶世の美人」だった小野小町
      2. 晩年は落ちぶれて「醜い老婆」へ
      3. しかしこれらの伝承は、後世による「創作」の可能性も
      4. どんな美人でも、歳を取れば容赦なく美貌は衰える
      5. 「謙虚な美人」こそ素晴らしい
  3. 秋田のお米・あきたこまち
    1. 秋田の渾身のお米・あきたこまち
    2. 美女のイラスト「萌え米」
  4. 秋田の地名の由来 阿倍比羅夫にあり!?
    1. 阿倍比羅夫が飛鳥時代、秋田の地を訪れていた理由
    2. 阿倍比羅夫が朝廷へ(秋田の地を)「齶田」と報告
    3. アゴの形に似た地「齶田」→秋田へ変化
    4. かつて東北地方に多くあった「柵」
    5. 中世の港と荘園 秋田の清原氏
      1. 奈良時代 公地公民制の崩壊
      2. 墾田永年私財法によってもたらされた、荘園の拡大
      3. 強くなっていく武士達 東北でも力を持つように
      4. 東北の武士たち 京都の朝廷をも脅かす存在に
  5. 江戸時代 秋田市のベースになった久保田藩
    1. そのルーツは常陸国・茨城県にあり
    2. 佐竹氏は、秋田へ転封(異動)
  6. 秋田県の郷土料理「きりたんぽ」
    1. 「比内地鶏(ひないじどり)」が用いられている、きりたんぽ
    2. 東北きりたん、ずんだもん
      1. 同じく、東北のキャラクター「ずんだもん」
  7. 次回は、羽越本線で南下

秋田駅(秋田市)に到着

追分駅からさらに南下すると、土崎駅を経て、やがて秋田駅に到着します。

秋田駅(秋田県秋田市)

秋田駅(秋田県秋田市)

私(筆者)が冬に初めて秋田に行ったときの感想ですが、日本海側ということもあってかかなり風が強く、しかも雪が混じった、とても冷たい風であり、これが容赦なく体に吹きつけてくるため、かなり厳しい気候の地域だなと感じました。

少なくとも、冬の北海道道南地域よりも、体感温度は低いと思ました
冷たい風をもろに受けるため、体感温度が下がるわけです。

したがって、初めて冬に秋田に行かれる方は、冬の冷たい強風にはちょっと覚悟・準備があった方がよいでしょう。

「秋田美人」とは

秋田の女性を表す言葉として、秋田美人あきたびじんという言葉が思い浮かぶことでしょう。
ちなみに、秋田美人は、いわゆる「日本三代目美人」の一つになります。

ちなみに日本三大美人とは、

  • 京美人(京都美人)
  • 博多美人
  • 秋田美人

の三つになります。

秋田美人の起源は?

ちなみに、秋田美人の起源については、たくさんの説があります。

  • 日本海側なので気温が低いために、肌が色白になりやすいこと
  • 東北地方の日本海側のため、日照時間が短く、紫外線の影響を受けにくいこと

などの説があります。

あと、都市伝説レベルのものも含めると、

  • ロシアとの距離が近いこともあり、ロシア人との血が混じっているため

というものがあるそうですが、この説は遺伝子レベルの観点からちょっと根拠は薄いとされています。

佐竹氏にからむ、秋田美人の起源・都市伝説

さらにもう一つ、都市伝説があります。

江戸時代のはじめ、常陸国ひたちのくに茨城県のそれまでのトップだった、 佐竹氏さたけしがいました。
その佐竹氏が、水戸みとにいた美人を、常陸・茨城から大量に秋田に連れていった、という説が挙げられます。

戦国時代までは、常陸国・茨城県のトップだった佐竹氏

佐竹氏さたけしは戦国時代までは、常陸国・茨城県のトップでした。
しかし「関ヶ原の戦い」で徳川家に敵対する「西軍」についたため、その罰として遠隔地である秋田へ飛ばされた(改易された)という経緯があります。

そのとき佐竹氏が「美人好き」だったために、

水戸から大量の美人を、秋田へ連れていった

それがいわゆる秋田美人の起源だ、という都市伝説です。

あなたは、どの説を信じるでしょうか?

秋田出身の美人・小野小町

代表的な秋田美人として、秋田県湯沢市ゆざわしの出身(とされている)の、

  • 小野小町おののこまち

がいます。
小野小町おののこまちは、平安時代の歌人であり、「絶世の美人」として知られます。

ちなみに湯沢市は「令和おじさん」としても有名な菅義偉すがよしひで元首相の出身地でもあります。
出身地は秋田ですが、選挙や政治家としての拠点は神奈川県にあります。

若い時は「絶世の美人」だった小野小町

小野小町は、若い時こそ「絶世の美人」とされていました。
しかし、歳をとるたびにその美貌は、容赦なく衰えてゆくことになりました。

花のいろは うつりにけりな いたずらに
(私の美しさは 歳とともに衰えていく 虚しくも)

という有名な詩は、小野小町が歳をとるたびに、自分の美貌が非情にも衰えていくことを嘆いた詩です。

晩年は落ちぶれて「醜い老婆」へ

そして晩年は落ちぶれて「醜い老婆」となってしまい、全国各地に小野小町が「野垂のたに」した場所だと主張する伝承地でんしょうちがあります。
つまり、全国あちこちに小野小町の墓があるというわけです。

しかしこれらの伝承は、後世による「創作」の可能性も

しかしこの小野小町老衰伝説は、あくまで後世によって作られた「創作」なのではないか、とも言われています。
現代でも「売れ残り女ざまぁ」などとネットでよく叩かれるように、若い頃にちやほやされたきた女性に対しては、歳を取ったときに一気に世間の目が厳しくなる、という現実があります。

当時も、小野小町の美しさに嫉妬した人たちが、いざ彼女が老衰したときに「ざまぁ」と言いたくなったのでは(そんな願望から、上記のような創作ストーリーが生まれたのでは)という気持ちも、わからなくもないです。

どんな美人でも、歳を取れば容赦なく美貌は衰える

小野小町の例からもわかるように、どんなに若い頃はモテていたとしても、女性は30を過ぎたら容赦なくその美しさは衰えてゆきます
絶世の美人・小野小町ですらそうなのですから、「私だけは若く見られるのよ」というような例外は存在ないといっていいでしょう。

ちなみに私の同級生の女子も、若い頃にチヤホヤされ過ぎて「自分が絶世の美人だ」「私は年収1000万円のイケメンじゃないと釣り合わないのよ」などと勘違いしてしまい、30歳を過ぎてみるみる衰えてしまい、高望みを続けた結果、今やいわゆる典型的な「売れ残り婚活女子」に成り下がっています。

「謙虚な美人」こそ素晴らしい

残念ながら、「美人が永遠に美人であり続けることはできない」のですね。
結婚を望む女子であれば、若い頃から、謙虚に、かつ現実的に婚活することが望まれます。
30歳を過ぎているのであれば、自身に見合った男性を選ぶことも大事でしょう。

結論。
若い女子は、「今すぐ」婚活スタートさせましょう!! 年齢が25歳前後であり、かつ定職に就いていて年収400万円ほどあり、さらに「共働きOK」の女子であれば、婚活市場では難なく成婚していけるでしょう。

秋田のお米・あきたこまち

あきたこまちは、いわずと知れた秋田のお米です。
秋田県は、新潟県・北海道に次ぐ日本第3位の米の生産量を誇っています
あきたこまちの由来は、もちろん先述の小野小町おののこまちです。

あきたこまちは、秋田県によって長年をかけて研究・開発され(県を挙げて研究・開発され)てきたお米であり、秋田県が全力でリコメンド(推奨)するお米のブランドになっています。

秋田の渾身のお米・あきたこまち

あきたこまちは、秋田県が独自かつオリジナリティーあふれるお米の品種の開発を目指して、実に5年以上の期間をかけて開発してきた品種です。
つまり、あの手この手を使って、様々な手法により「より良い」「よりおいしい」お米になるように、秋田県によって長年にわたり研究・開発が繰り返されてきたというわけです。

1990年の「平成の大嘗祭」(だいじょうさい:天皇陛下が、秋の収穫を祝い、神様に感謝するための式典)において、あきたこまちが献上米(=天皇陛下が、神様にささげるお米)として選定されたのです。
つまり天皇陛下によって、あきたこまちが神様に(神聖な儀式で)献上されたということですね。
これによって「あきたこまち」は日本全国に存在が知られるようになり、それ以降は売り上げも大きく増えることになったのでした。

あきたこまちの米の販売パッケージなどでは、小野小町や先述の「秋田美人」のイメージが採用されれることが多いわけです。

美女のイラスト「萌え米」

萌え米もえまいとは、パッケージに「美少女イラスト」などを取り入れたお米の商品の一種です。

米のパッケージに、美少女のイラストを描いた「萌え米」として販売された際にはまさに大ヒットとなり、ニュースでの報道などでも大きく注目されることになりました。
やはり「可愛い女の子のイラスト」が描かれたお米は、とてもインパクト大ということですね。

秋田の地名の由来 阿倍比羅夫にあり!?

秋田」の名前の由来は、「あごのような田」からきています。

顎田あぎた」→「秋田あきた

というわけです。

この「顎のような田」とは、飛鳥時代に東北・北海道にやってきた阿倍比羅夫あべのひらふに由来していると言われます。

阿倍比羅夫が飛鳥時代、秋田の地を訪れていた理由

飛鳥時代の658年に、蝦夷地(北海道)の遠征に出掛けていた阿倍比羅夫あべのひらふは、現在の秋田市あたりの地を訪れていたのでした。

なぜ阿倍比羅夫が東北・北海道に来たのかというと、それは恐らくですが朝廷から

「東北や北海道にいる、朝廷に歯向かう者たちを討伐せよ」

などのように命令されたからだと思われます。

阿倍比羅夫が朝廷へ(秋田の地を)「齶田」と報告

飛鳥時代の当時は、全国各地の豪族(強い人達の集団)たちが争いまくっていて、国としてまとまりのないカオスな状態でした。
なので聖徳太子にはじまる大和朝廷は、日本全体をおだやかに統一したかったのです(それは奈良時代に「中央集権国家」として実現します)。
なので阿倍比羅夫を東北・北海道に派遣したものと思われます。

そして比羅夫が、ここの地名を「齶田あぎた」だと大和朝廷やまとちょうてい(奈良県に拠点のあった政府)に対して報告したことから、すべてが始まります。

アゴの形に似た地「齶田」→秋田へ変化

齶田あぎた」とは、文字通り「アゴに似た地形」があったからだと言われます。
その「アゴに似た」という地形というのは、秋田市街地を流れる代表的な川である雄物川おものがわの河口部にあったとされる、いわゆる「古い地形」のことを表していたのでは?という説があるそうです。

これは恐らく、阿倍比羅夫がその地形に対して、「まるで顎の形だ」と感じのでしょう。
それを当時の大和朝廷に報告したことで、「顎田あぎた」の名前が広がったというわけですね。

かつて東北地方に多くあった「柵」

奈良時代になると、山形県の庄内しょうない地方にあったとされる出羽柵でわのさくが、秋田の地に移転してくることになります。
つまり、国の中心地が山形から秋田へ移転してきたようなイメージでしょうか。

さくとは、いわば大昔の「城の簡易バージョン」です。
このような大昔の「簡易バージョンの城」は、

  • 東北地方では「柵」
  • 北海道では「チャシ(※アイヌ語)」
  • 関東甲信あたりの地方では「やかた

などのように呼ばれるようなイメージです(※私の感想です)。
西日本にも、たくさんの小さな城の跡が今でも残ります。

聖武天皇の時代には、秋田へ移転してきた柵が、はやくも「秋田城」と呼ばれるようになりました。
それまでは「顎田あぎた」でしたが、それ以降は「秋田」の表記で定着していったため、それが現代に至るわけです。

中世の港と荘園 秋田の清原氏

中世・鎌倉時代あたりには、 秋田の港はいわゆる「三津七湊さんしんしちそう」の一つとして、 「秋田湊あきたみなと」と呼ばれていたようです。
つまり秋田は、中世の東北地方においては重要なみなとの一つに数えられていたということです。
重要な港なので、たくさんの船が寄ってきますし、港の回りには舟や港で働くたくさんの人々が集まってくることによって、港町が栄えていくわけです。

ちなみに「」「みなと」「みなと」はどれも同じような意味ですが、私の個人的なイメージとしては、それぞれ以下のような意味合いがあると感じています。

  • :大昔の、簡単な舟が止まっているような海岸のイメージ
  • :「帆船」や「木の舟」たちが止まっているような、昔のそこそこ大きい漁村のイメージ
  • :現代的な、大きな港湾のイメージ

平安時代の秋田には、清原氏という強い武士の一族・チームがありました。
こうした強い武士たちは、元々は自分達の田んぼを守るために武装したことが起源だったりします。

奈良時代 公地公民制の崩壊

また、奈良時代になると、公地公民こうちこうみん制が崩壊してゆきます。

ちなみに公地公民制とは、

  1. 田んぼが国から強制的に与えられ(ありがた迷惑)、
  2. しかも強制的高い税を納めさせられ、
  3. さらには、死んだら国に田んぼを強制的に返す、ということを要求される

という、かなり厳しくて理不尽な制度でした。

したがって、奈良時代の「公地公民制」は、人々のモチベーションが上がらずに瓦解がかいしてしまい、うまくいきませんでした。

そのため、743年に、いくらでも耕していい(死んでも返さなくてもいい)という「墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほう」ができました。

公地公民の崩壊墾田永年私財法などについては、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 関西編 第19番 亀山を出発し、紀勢本線を南下 一身田駅を過ぎ、やがて津市へ
鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の歌詞を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

墾田永年私財法によってもたらされた、荘園の拡大

墾田永年私財法によって得られた結果は、いわゆる「荘園」の拡大です。
田んぼを耕せば耕すほど儲かり、農地はますます巨大化してゆきます。
この巨大化した田んぼが「荘園」です。

しかしそうなると、せっかく努力して拡大した荘園は、盗賊やライバルの荘園領主などから狙われやすくなります。
こうなると人々は、荘園を守るためにも、自ら武装したり、強い人たちに守ってもらう必要が出てきました。

これがいわゆる「武士」の始まりです。

強くなっていく武士達 東北でも力を持つように

こうして出来上がった武士のチーム(豪族)は、どんどん強くなってゆきました。
やがては貴族よりも武士の方が強くなりすぎて、やがては朝廷の発言権をも上回ってゆくのです。

その中の豪族・武士チームで、東北地方で有力だったものが、

  • 現代の岩手県あたりを支配していた、安倍氏あべし
  • そして、出羽でわ(秋田県)の清原氏きよはらし

になります。

東北の武士たち 京都の朝廷をも脅かす存在に

やがてそれらの武士たちが強くなりすぎて、今度は平安京の貴族たちや朝廷を脅かす存在になってゆきます。

こうした東北地方で好き放題やって蔓延はびこ蝦夷えみしを、京都の朝廷としては放っておくわけにはいかなくなったのでした。
そのため、朝廷は東北地方に「陸奥守むつのかみ」と呼ばれる武士を派遣したのでした。
それがやがて

  • 前九年の役
  • 後三年の役

に発展しました。

これらの平安時代の東北地方については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第33番 平泉に到着! 金色堂、安倍氏、奥州藤原氏など戦いや栄華の歴史
鉄道唱歌 奥州・磐城編の歌詞を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

江戸時代 秋田市のベースになった久保田藩

そのルーツは常陸国・茨城県にあり

江戸時代になると、秋田のほとんどの大名は常陸国ひたちのくに(茨城県)に、転封てんぽう(左遷されること)されてしまいました。

これによって、鎌倉時代以来からずっと築き上げてきた秋田のトップと住民たちとのつながり・絆は、ここで切れてしまうことになりました。
すなわち、先述の常陸国・茨城県のトップだった佐竹氏と、トップを交代(トレード)したようなイメージです。

佐竹氏は、秋田へ転封(異動)

先述の通り、1600年の「関ヶ原の戦い」において徳川家の敵である「西軍」についてしまった佐竹義宣さたけよしのぶは、 常陸国ひたちのくに・茨城県から、 秋田へと転封てんぽう(遠隔地に飛ばされること:左遷と似たようなもの)されてしまったのでした。

そしてここに、秋田の久保田藩くぼたはんが誕生したのでした。

秋田県の郷土料理「きりたんぽ」

秋田県の代表的な料理に「きりたんぽ」はがあります。
簡単にいうと「ちくわ」みたいな(米で出来た)白い棒を、なべに刺した料理になります。

東北きりたん」が背中につけている、あの白い棒が、まさにそれですね。

きりたんぽは、秋田県の北東部にある大館おおだて鹿角かづのといった地域の郷土料理になります。
やがてそれが秋田県全体に広まってゆき、秋田県のメジャーな料理として知られるようになります。

その地、秋田県の伝説的ハンターである「マタギ」が、狩猟から帰ってきたときに食べた料理が起源だったとの説があります。

「比内地鶏(ひないじどり)」が用いられている、きりたんぽ

きりたんぽには、比内地鶏ひないじどりが材料として使われています。
比内ひないとは、秋田市の東にある大館市おおだてし北秋田市きたあきたしあたりのエリアのことをいいます。
比内ひないは、アイヌ語に由来しています。
アイヌ語でナイ(内)は、という意味です。

すなわち、昔は秋田港を通じて北海道(蝦夷地)とも交流があったため、アイヌ語が秋田県に存在していても不思議ではないわけです。

きりたんぽは、秋田県の「郷土料理」として広く親しまれるようになっています。
すなわち、

秋田県の料理=きりたんぽ

みたいな地位を確立したというわけですね。

東北きりたん、ずんだもん

また、VOCALOIDの「東北きりたん」は、先述の「きりたんぽ」をモチーフにしたキャラクターです。
きりたんぽ」は先述の通り、お米をベースにした「白くて細い食べ物」です。
したがって、「きりたん」の背中にも、白くて細い「きりたんぽ」がついていますよね。

きりたんの声はとても可愛らしくて癒されますが、声優は茜屋日海夏(あかねや ひみか)さんという方であり、1994年・秋田県由利本荘市ゆりほんじょうしの出身の方です。

同じく、東北のキャラクター「ずんだもん」

他に、東北のキャラクターに「ずんだもん」がいます。

ずんだもんは、「ずんだもち」という、枝豆えだまめでできた餅をモチーフにしたキャラクターです。
ずんだ餅は、東北地方・宮城県仙台市の名物になります。

いわゆる「枝豆」がモチーフなので、「ずんだもん」の色は枝豆の「黄緑色」になっています。

ずんだもんの口調は「~なのだ」で、最近の私(筆者)は、ずんだもんの真似することがマイブームになっています。

ボクはずんだもん。ずんだもんなのだ!

と口癖のように言っているので、しかもかなり練習したため、かなりずんだもんに似てきたと思います(^^;

次回は、羽越本線で南下

今回、本文中で言及した小野小町については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

小野小町とは?絶世の美人とその衰退を、わかりやすく解説!
今回は絶世の美人と言われた小野小町について、その栄華・モテエピソード、そして切ない老衰などについて、わかりやすく解説してゆします!はじめに:小野小町について学んでゆきましょう!​今回は、​謎多き美人歌人である、​小野小町おののこまちについて...

次回は、羽越本線うえつほんせんにて

  • 羽後本荘うごほんじょう
  • 象潟きさかた
  • 酒田さかた

方面へ向かってゆきます。

今回はここまでです。

お疲れ様でした!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。
そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。
再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。
何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

この記事が良いと思った方は、よかったら次の記事・前回の記事も見てくださいね!

コメント